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コソヴォ幻想 @ [2008年02月26日(Tue)]








 コソヴォをめぐり日々、緊迫した情勢になって来ている。

 こんなとき、ああ、あの人がいたらというのが、田中一生先生である。

 セルビアを中心に、バルカン半島の研究に生涯を尽くされた、尊敬する“仲間”である。

 一昨年セルビア側から、日本で言えば文化勲章のような賞をいただいたとき、
両陛下のもとにご案内し、吹上御所で、私も同席して、拝謁した。

 陛下がバルカンの歴史や現状に詳しいことは以前に参内したときに舌を巻いたので、そのときには驚かなかったが、田中先生とのやり取りは、まるで専門家同士のレベルであると驚嘆したのであった。

 その後、ややあって、田中先生は逝去された。なぜ、今このときにという慙愧の念で、いっぱいである。

 何冊ものご著書を頂戴している私は、いま、そうっと、『バルカンの心』(彩流社)を手に取り、その「コソボ幻想」を繰り返し、読んだところである。

 セルビア発祥の地、1489年、コソヴォの戦いでイスラムのトルコ軍に潰えたセルビアの人たちが、その揺籃の地の独立を認められないという気持ちが、田中先生の一文で、よくわかる。

 600余年が過ぎた今、難問の解きほぐしどころが、この人たちの気持ちを知ることから見つかるかも知れない。

   ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 平曲
 壇ノ浦と聞くと日本人ならすぐ源平最後の合戦と平家滅亡、そして公達たちの悲話をあれこれ思い浮かべる。

それと同様、コソボといえばセルビア人なら即座にコソボの戦いを連想し、トルコによるセルビアの敗北と滅亡、これに纏わるエピソードの数々を懐かしむ。

また平家の最期を琵琶法師が平曲で語り伝えてきたように、中世セルビア帝国の最期も、グスラルといわれる語り部が一弦琴を弾いて謡いつづけたのだった。

   セルビア帝国の滅亡
 灰色の鳥 鷹飛来せり、エルサレムより 聖なる地より、
燕一羽を口に銜えて。
 灰色の鳥 鷹には非ず、
聖なる尊者 聖イリヤなり。
 銜える物も 燕には非ず、
聖母マリヤの 言の葉なりき。
 コソボの原に 帝を訪ね、そが膝上に これ放つれば、
 言の葉 彼に 語りて曰く、
 「ラザール帝よ 栄えある家門!
 汝が愛するは 何れの国ぞ?
 天が上なる 帝国なるか、
天が下なる 帝国なるか。
 天が下なる 帝国ならば、
 馬に鞍つけ 腹帯しめて、
なべての 兵に 剣を佩かせ、
 トルコ兵指し 攻撃すべし。
トルコの兵ら 滅ぶは必至。
 もし天上の 帝国ならば、
コソボが原に 御堂たつべし。
 そが礎も 大理石ならず、
正絹もちい ビロード敷けよ。
 して召兵し 領聖すべし。
 汝が兵すべて 残らず滅び、
侯よ 汝も 野に斃るれば。」

 1389年6月28日の前夜、
セルビア軍の総指揮官ラザール侯(詩では帝)は不思議な夢をみる。
天上と地上の何れの帝国を選ぶのか、と迫られた。

散々悩んだ末に前者を選んだ彼は、
予言どおり翌日の合戦で大勢の部下ともども野の霧と消えた。
だが叙事詩は謡う――

  此れらはなべて 聖なる栄誉、
慈悲ある神へ 至る道なり。

「セルビア帝国の滅亡」(92行)は、
こうして栄光の敗北を称えながら終わるのである(山崎洋・山崎淑子共訳編『ユーゴスラビアの民話U セルビア英雄譚』1980年、恒文社。但し散文訳)。

 ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 大した根拠はないが、
私はこれで、
つまり、ベオグラードのアメリカ大使館やドイツ大使館が
焼き討ちされたり、襲撃されたり、
モスクワに急遽、セルビアの大統領が飛んだりという状況の中で、
諸条件が出され、
次第に沈静化して、
妥協点が見出されてゆくのではないかと、
期待を半ばに、勝手に推測している。
                  (つづく)



 
障害者と障がい者 [2008年02月26日(Tue)]












「工事中のため下記のようにう回してください」。芝公園付近でこんな表示に出会った。そこを「迂回」して、Aホテルに着いたら、「ら旋階段は危険ですので手すりにおつかまりください」とあったが、若い私は「螺旋階段」平気で昇った。

ホテルの中をさらに行くと、「車椅子ご使用の方は奥のエレベーターをご利用ください」とある。

「う回」「ら旋」もまた、言葉を歪めるものではないか。「ご利用」も本来なら「御利用」ではないか。

 そう思って朝日新聞を見ていたら、2月24日の「広告特集」として、「障がい者のための人材募集」と銘打って、16、17の2個面を使い、キャノン、東京海上日動あんしん生命(なんだい、この社名は!? )、三井不動産、野村證券といった会社がずらしと並んで、「障がい者の方を募集します」「障がいをお持ちの方」と呼びかけている。

まことに結構な広告の内容であるが、さて、この「障がい」ってなんたる表現!

 同じ朝日新聞は翌日の「青鉛筆」欄では「障害のある人たちが切手を分野別にしたり、トレーに装飾として貼り付けたりして販売」と書いている。

 漢字というのは、いうまでもなく文字一つ一つに意味があって出来たもの。その一方を、かってに平仮名という音標文字にしていいのか。私はそうとは思わない。

 漢字の数を妙に制限したからこういうことになるのだろうが、社会の習慣と実態と、漢字の本来の意味や経緯をしっかりと考えてもらいたいものだ。

「迂回の「迂」は当用漢字にないが、「害」はもちろん当用漢字である。そこで、埼玉県立大学時代の同僚教授に聞けば、
「障害者」では「差し障り、害する者」という意味にとられかねないから、今は「害」という時を使わないのだそうだ。

ならば、「差し障り」はかまわないのか、と私は食い下がったが、「障がい者やその家族がが障害者という表現を嫌っているので」なのだそうだ。

 朝日新聞の、少しオーバーに言えばダブルスタンダードもいかがなものかとは思うが、これには、世の中そういうものかなぁと思いつつ、こんなことにこだわってていいのかなぁと思ってしまう。

 私は、障害者、螺旋階段、迂回で十分だと思う。
骨髄移植体験記G [2008年02月26日(Tue)]






   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載。






 骨髄移植の体験記を久々に掲載しましたところ、1月9日のと内容がほとんどダブっていると読者からご指摘いただきました。お詫びして、つぎに進みます。

★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

<移植にもいろいろある>
数日して私ども弟夫婦も都立駒込病院に呼ばれました。連絡の悪かったくだんの医師は平身低頭。

ただし、説明はさすが最先端医療に関わる新進気鋭の医師だけあって、見事なもの。

「HLA抗原の完全1致」を聞かされ、「骨肉を分けた」本物の兄弟であることが明々白々、生還したらこれからはスポーツ、せめて散歩に汗を流そうと心に決めました。

駒込病院の医師によると、兄の治療には3種類あるとのこと。この医師の話と、その後仕入れた知識を合わせると、大きく分けた3種類とは以下のような方法です。

第1は従来からの骨髄移植。これは腹ばいになって全身麻酔をし、腸骨(腰骨)に約100回太い注射針を刺し、10mlずつ骨髄液を採取するという方式。

全身麻酔の危険と採取後、かなりの針痛と針跡が残るというのが欠陥です。15年ほど前から実施されている方法です。冒頭の石川さんもこの方法に拠ったものと思われます。

しかし、最近では、腸骨付近2ヵ所に大き目の針を刺し、そこからさらに多数の個所に伸ばして摂取するという方法が普通のようで、経験者の多くは「酷い痛みはなかった」といってます。

第2は末梢血幹細胞移植。あらかじめ造血幹細胞を増やす効果のあるG−CSFを3日間皮下注射し、献血するようにして採血するというものでした。

これら2つの方法はドナーがいて始めてできることですが、なかなか見つからず、しばしば本人はもとより、家族は大変な苦労を強いられます。レシピエントが病をおして米国まで行き、などという話も聞きます。

第3の方法は、臍帯血移植という医療です。

この方法の効果は今1つ不明な点もあるようですが、実際にはこれで救われた人も多いようです。骨髄移植ではドナーが見つかるのは幸運としか言えません。また、臍帯血移植ではドナーの負担がゼロなわけですから、さまざまな種類のHLAの確保が可能です。高齢の患者には既にかなり多く、この医療が実施されているようです。

学生時代からの友人であり、臍帯血バンクを進めている青木繁久献血供給事業団理事長は、今後は臍帯血移植がさらに増えるのではないかと言っています。私は同事業団の監事の任にありますが、この専門的なことについてはよく解りません。青木理事長の著書などをご覧ください。

私がドナーになったのは、第2の方法の1つ、「末梢血幹細胞ミニ移植」というものです。

通常は、患者のがん細胞を致死量を超える抗がん剤で抹消し、ドナーからの新たな造血幹細胞を移植するものですが、これは患者にとってあまりに負担が大きく、危険なしとしません。

他方、私と兄の場合の「ミニ移植」というのは、患者への「前処置が軽い」と、医療関係者が言っている方法です。

患者のがん細胞をある程度残しておき、ドナーからの新しい造血幹細胞でそれを征服してゆくというやり方です。

特に、血液中のがん細胞を致死量を越える抗がん剤で安全制圧するという、聞くだ恐ろしげな医療行為を受けないで済むという特徴があり、高齢の患者のために開発された最先端医療です。
骨髄異形成症候群F [2008年02月26日(Tue)]





「春便り」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。






 骨髄異形成症候群の兄・忠晴へ、私が造血肝細胞輸血をした話が、1月11日に6回目まで掲載して、「つづく」としたままになっていることを、看護師のMさんに指摘され、慙愧の念に、否、またぼけ老人ぶりを発揮したかと嘆きつつ、以下に継続させて戴きます。

 折から、4年目の日を迎えるという話です。

 少しでも、白血病患者とドナーの気持ちが伝わり、一人でも多くの人がドナー登録をしてくれることを期待し、祈ります。

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「兄弟」を確信


 採血してくれた看護婦からは「一週間から一〇日ほどで医師から結果をご連絡します」と言いわれましたが、それから一ヶ月ほど、都立駒込病院からは何の連絡もなく、堪忍袋の緒が切れた私は一二月 日、担当医に詰問する口調で電話しました。

 返事は「HLAは完全に一致していました」。

 何たる無神経、こっちは今か今かと、文字通り、日々祈る気持ちで連絡を待っていたのに。当然、医師にストレートに不満をぶつけました。

 私自身、長年、大学に関係していましたので、「専門バカはバカ専門」と「社会的責任欠落症」にならぬよう気遣い、それなりに自戒して来たつもりでした。

 この医師の社会人としてのお粗末さは私以上? 正直、唖然としました。

 ただ、この怒鳴りつけが効いたのか、その後はメールや郵便での連絡が頻繁になり、すべてが順調に進みました。本来、すばらしい医師であり人格者なのでしょう。以後の対応は完璧で、今では素直に頭を下げたくなる気持ちです。
 
 ところで、わが兄弟は、私以外、全員、全国大会や国体に何度も出場するスポーツマン。

 発病した兄の次女は数年前、パリでの女子レスリングの世界選手権に出場し、胴メダルをいただいたたほど。

 それに比べて私としたことに、小学生の頃、「お前の兄貴は七段の跳び箱を跳んで空中転回していた。お前は何で四段も跳べないのか」と教師にイジメ?られ、体育落ちこぼれ組の典型。

 中学で軟式(ソフト)テニス部に入りましたが、「市内大会で三回戦まで行った」と嬉しそうに報告しても、「フン、それがどうした」という雰囲気。

 兄弟はみな県大会、東北大会、全国大会…と進み(次兄は軟式テニスで日本と東洋の選手権者だった)、家にはカップやトロフィーがゴーロゴロという状況でした。
 
 発病半年近く前の3月二3、二四の両日、日本武道館で行われた、東京卓球連盟主催の大会で、6〇歳以上男子の部Aくらすに出場して優勝、また、四〇代と6〇代のペアによる男子ダブルスでは、上海オープンの覇者だったこともある徐向東組を破ってこれまた優勝しています。

 体形も違い、忠晴は、デブの私とは正反対。

 だから、心のどこかに、私はもしかして・・・という気持ちがなかった訳ではありません。そうでも思わなくてはこの「体育無能力症候群」は納得のしようがなかったのです。

「兄弟でも四人に一人」というと割りに「打率」が高いものだそうです。

 でも、どうでしょう。今の時代。

 そんなに兄弟がたくさんいる家族は、珍しいのえでゃないでしょうか。

 ですから、一人でも多くの方がこぞってドナー登録をして、お互いの身を守るほかないのではないでしょうか。

 骨髄バンクには今一七万人(2003年当時、現在は30万人)ほどが登録しているようですが、これが三〇万人になると、ほとんどのレシピエント(ドナーから造血幹細胞移植を受ける人)に適合する登録者がいることになるというのです。

 ところが、人口が2倍以上ではありますが、アメリカでは200万人近い人が登録しているのだとか。

 加えて、日本では、せっかく登録していたのに、いざというときに健康不良、勤務の関係で協力はムリ、家族が反対・・・といったことから、ドナーになれなかったり、ならなかったりする人が、結構多いというのが現実なのです。  (つづく)
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