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オバマ氏と小浜市 [2008年02月15日(金)]








 米大統領選は12日にバージニア、メリーランド両州と首都ワシントン(コロンビア特別区)で予備選挙が実施され、オバマ候補が7連勝し、ヒラリー夫人はかなり追い込まれつつある矢に見える。

 ところで、この選挙に日本国内で、オバマ氏を応援する勝手連ができた。

 福井県小浜市にである。「読みが同じ」だと気づいた人から口伝やブログで広まったらしい。これがきっかけで、集客につながったらという観光業者らが「オバマ候補を勝手に応援する会」を4日に立ち上げ、似顔絵入りのポスターを作った。これがきっかけで、国内外のメディアが連日、小浜市に殺到している様子だ。

 日本経済新聞によると、「国内テレビ局や新聞各社のほか米ABCテレビ、AFP通信が取材し、転載された記事が米ヤフーの検索ランキングで最高2位に入った。NYタイムズやCNN、豪国営放送、中東アルジャズィーラも取材予定という」。

 オバマ氏の写真や応援ロゴの入ったバッジやTシャツも準備する意向だとか。

 オバマ氏はこれまでのところ、ほとんど対日政策や外交・安全保障政策、経済運営などについて具体的な政策を発表しているわけではない。

 しかし、小浜市のほうでは、夢はオバマ氏が大統領になって、福井県に来て首脳会談をしてくれることというから、われら日本人は、ほんとうにたのしい? おめでたい?民族のようだ。

 なお、長崎県雲仙市に小浜町があるが、そちらには、「介護老人ホームおばま」や「動物病院おばま」などがあるようだが、それ以上の盛り上がりはないようだ。
平和だけではダメ!A [2008年02月15日(金)]






   カンボジアの国旗は、
  いつの時代も、どの政権の時も、
  アンコールワットを描いたものだ。
  この国旗は1970年3月にシアヌーク殿下が
  放逐されるまでの国旗であり、  
  1971年10月の「パリ協定」で内戦を終了して
  以降、現在にいたるカンボジアの国旗である。
  ポル・ポト時代は、赤地にアンコールワットを
  黄色でぬいたデザインだった







ベトナムの隣国カンボジアでは、サイゴン陥落の3週間ほど前、首都プノンペンがポル・ポトを指導者とするクメール・ルージュ(カンボジア共産党)の手に陥ち、戦争が終わった。

1975年にはベトナムでもカンボジアでも戦争が終焉し、人々は平和を享受できるはずだった。

しかし、以後、カンボジアではポル・ポト政権が3年余りの間に、200万人以上とも言われる人々を粛清した。

 1978年12月、ポル・ポト派からはなれていたヘンサムリンを担いで、ベトナムはカンボジアに武力侵攻した。国連は激しくベトナムを非難したが、とにもかくにも、これで判明したポル・ポト政権の実態は悲惨なものであった。

その直後、私は畏友・近衞忠W日赤外字部次長(現・日赤社長)を誘って、まだ人骨がほとんど整理されていないカンボジア各地を回った。

自分の足で人骨を踏まなければ先に進めないという体験、今でもあの骨がきしみ崩れる音が耳に残り、足の裏のなんとも言えない薄気味悪い感覚が消えはしない。

人間とはかくも残酷なものかと頭を抱えるほかなかった。

また、平和とはかくも冷酷なものか。

私は「平和は人間の幸福にとって手段であり目的ではない」「平和は幸福の必要条件であっても十分条件ではない」との確信を持つに至った。

反戦歌を歌っている場合ではなかった。「平和だけではダメ! Peace is not enough!」である。

平和が訪れても逆に多くの人々の人権が抑圧され、地雷は放置されて日々惨事を惹き起こしていることは、カンボジアのみならず、コソボ、アフガニスタン、アンゴラできょうも続いている。

 難民キャンプで苦しい生活を続け、なんとか生き延びた人が自宅に戻って玄関前の地雷で足を失ったというような話をたくさん聴かされた。


平和だけではダメ!@ [2008年02月15日(金)]




   著者。メコン河畔にて。
  川向こうがタイ、手前がラオス
  2007年2月撮影。



 ICRC(赤十字国際委員会)の代表として南ベトナム各地で見た現実は、反戦運動家たちの話や一部の新聞雑誌の論調とは大きく異なっていた。

 南北ベトナム人の殺し合いはさらに続いたが、ベトコンと呼ばれた南ベトナム解放戦線の兵士などはほとんどいなく、カトリック教徒を始め、強烈な反共勢力が文字通り命がけで「北」と戦っていた。

 1968年の今頃は、「テト攻勢」でフエ、チョロンなど南ベトナム各地で、ベトコンが決死の攻勢をかけ、それとともに主力は壊滅に近い打撃を受けた。

 したがって、1973年のこの時期には、南北ベトナム正規軍同志の戦い、すなわち、完全にベトナム版「南北戦争」であった。

 私自身が会い、大なり小なり世話をした万という数の「ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の捕虜」といわれた人達は一人残らず、北ベトナムの正規軍将兵だった。

「見ると聞くとは大違い」、この間に私もいくらか成長した。

「アメリカもまた国益中心でアジアに最終的な責任は持たない」「反戦・平和は、法と正義に裏づけされなければ、現状の追認や固定化と同じである」・・・

 75年4月30日のサイゴン(現ホーチミン・シティ)陥落以降、敗れた南ベトナム(ベトナム共和国)からは100万を大きく超す人々が、命からがら陸路、空路そしてボートーピープルとして、海外に逃れた。数え切れないほどの悲惨な出来事があった。北ベトナムによる「解放」が単なる美名に過ぎないことの証だった。

 日本にもその後わずか2週間足らずのうちに最初のボートーピープルがやってきた。

 恥を知ろう。わが日本政府はこれを腫れ物に触るようにして港から羽田空港に移送し、アメリカなど第3国に「追いやった」。
「難民に冷たい日本人」という非難が世界中で起こった。

 78年の「東京サミット」の直前に定住難民としてようやく500人を受け入れる枠を設けたが、70年代にわが国が実際に受け入れた難民はわずか5名に過ぎなかった。

 全土を支配した北ベトナム労働党はほどなく、かつて同志と呼んでいたベトコン出身の政治家たちを政治場裡からほとんど全て追放した。