ベトナム戦争と反戦歌 [2008年02月14日(Thu)]
「雪の日」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で 掲載させていただいております。禁無断転載。
1960年代の後半からアメリカはベトナム戦争の泥沼に陥ち込んだ。
他方、イギリスはビアフラ戦争(ナイジェリア東部イボ州が独立を企図しての内乱)やローデシア(現ジンバブエ)戦争で苦労続きのまま、急速に国力を消耗していった。
ピカデリー・サーカス(ロンドン下町の繁華街)では世界の若者が集まりビアフラ・ベビー(極端な栄養不足で痩せさらばえた赤ん坊)の写真を掲げて救援と停戦を訴え、反戦歌をギターでかき鳴らしていた。
第3次、第4次のパレスチナ戦争、ソ連を始めとするワルシャワ条約軍のチェコスロバキア侵攻があり、その一方で中ソ対立も厳しさを増し、一部で武力紛争まで発生するに至った。
70年3月、カンボジアではシアヌーク国家元首の留守中に、米軍の後押しでロン・ノル将軍が政権を握り、以後、20年余り内戦状態が続いた。
71年末には第3次印パ戦争も起こり、私は国際赤十字の駐在代表としてインド亜大陸を走り回り、バングラデシュの独立に立会い、その背後で行われた数々の悲劇を見た(拙著『血と泥と―バングラデシュ独立の悲劇』読売新聞社)。
大国の論理に振り回され、代理戦争、局地戦争がさらに続き、国連の機能はほとんどマヒしたままだった。
世界は米ソに大きく2分され、国連はせいぜいそのどちら側でもない地域の紛争に口を挟むだけになっていた。
反戦運動はついに超大国アメリカを国内から揺さぶった。
73年1月、キッシンジャー、レ・ドク・トによるパリ和平協定が発効し、60万を超えていた米軍が事実上、敗北して、南ベトナムから撤退した。
私はベトナムに転じた。スーツケースには唱歌・童謡、抒情歌などの歌集とともに反戦歌の入ったテープを忍ばせていた。口から出る歌は『遠くへ行きたい』『翼を下さい』『さとうきび畑』、そして『若者たち』などだった。
さすがに、世界的に有名になったアメリカの反戦歌 『We shall overcome』はイヤホンで聴くほかなかった。
赤十字の代表というのは結構、あちこちを動き回ることが出きる。その結果、この戦争は、どこかおかしいと感じるようになっていた。
戦う人間にも、対立するイデオロギーにも、そして報道のあり方にも複雑な疑問を感じる日々であった。 (つづく)
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吹浦 忠正
at 18:13 |
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マケインとベトナム戦争 [2008年02月14日(Thu)]
マケイン候補 米国大統領選挙、ジョン・マケインが共和党の大統領候補になることはほぼ間違いない。この人、ベトナム戦争で活躍し、かつ捕虜として苦難の5年半を経たことで、国民的英雄となった人だ。
1967年、マケインには2度の危機があった。
まずは7月29日、米空母の艦上でクルーが発射準備中に、僚機から一発のズーニー・ロケット弾が誤射されてしまい、これが出撃準備中のマケインの搭乗機を直撃、燃料タンクが破裂した。 さらに90秒後に、搭乗機の下に装着していた爆弾が爆発。マケインはかろうじて機から脱出でき、金属片で足や胸に怪我を負ったが、一命は取り留めた。
記録によると、この事故は「死者132名、重軽傷62名、破壊された航空機20機以上」という大惨事であった。
こうした中で、マケインは計22回の空爆に参加した。
この事故から3ヶ月ほどたった1967年10月26日、北爆に参加したマケインの攻撃目標は火力発電所であった。
しかし、地上からの攻撃に遭遇、両腕を骨折し、空中での脱出の際、足も怪我をした。 おまけに着地するはずのところが湖で、あやうく溺死しそうだったとか。マケインはジュネーブ条約(1949年8月12日)に従い、名前、階級、認識番号、生年月日を明かしたが、それ以外は秘匿した。それでも北ベトナム側はいろいろ調べ上げ、父親が海軍大将であることを突き止め、公表した。その話は、当時「ニューヨークタイムズ」の1面トップで報道された。
実際、1968年7月にマケインの父親は米太平洋軍の司令長官となり、ベトナム派遣軍の総指揮官となった
マケインはそれから約5年間、1973年1月27日、「パリ和平協定」が発効するまで、北ベトナムで捕虜生活を経験した。
この間、激しい拷問にもあったが、マケインは軍事機密を明かさなかったと伝えられ、英雄となった。この時の傷がもとで、マケインの腕は今でも頭より上には上がらない。
祖父と父親の2代が海軍提督、マケインの息子も現在、海兵隊員という、「海軍一家」。
結局、マケインは5年半を捕虜収容所で過ごし、1973年3月15日に釈放された。
私はこのパリ協定発効にあわせて、ICRC(赤十字国際委員会)の代表として、南ベトナムに入った。
個人的にマケインを知らないが、このころは、間違いなく、、数多くの捕虜の交換に立ち会った。もしかしたら、サイゴンのタンソニュット空港あたりで、この人を見かけていたのかもしれない。
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Posted by
吹浦 忠正
at 16:07 |
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朝日新聞、遅いですよ [2008年02月14日(Thu)]
イラクの新国旗(上)と従来の国旗(下) 朝日新聞が、2月11日にようやくイラクの国旗の変更について報じた。 イラクの議会で1月21日に採択されたものが3週間遅れで報道されたことになる。
記事は以下の通り。
☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ ★★★
イラク新国旗、民族対立の火種 デザイン見直しへ
【カイロ=田井中雅人】イラク国旗のデザインが、国内各民族・宗派の新たな対立の火種になっている。
北部クルド地域では10日、フセイン色が消された新国旗が初めて掲揚されたが、一部の根強い抵抗から、1年以内に再びデザインが見直されることになった。
新しい国旗は、旧支配政党バース党が掲げた「統一、自由、社会主義」を象徴するとされる三つの星を削除。91年の湾岸戦争時にフセイン元大統領が記した「神は偉大なり」の文字も、元大統領の直筆ではないデザインが採用された。
従来の国旗に対しては、クルド地域政府のバルザニ大統領が「クルド人を虐殺した旧政権の圧政の象徴」と批判するなど、同地域で掲揚することを拒否してきた。
一方、新たな国旗に対しても、旧政権の中心だったイスラム教スンニ派住民が多い西部アンバル州では有力指導者らが「国旗は一支配者の象徴ではない」などと反発。クルド人とアラブ人が帰属を争う北部の大産油地キルクークのアラブ人らも反対の立場だ。
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今、世界で最も注目されている国のひとつであるイラクの国旗が変更になったことを、小欄よりも20日も遅れて報道されることに、朝日新聞への私の信頼と評価は当然、下がらざるを得ない。
それでも「まったく報じられないよりはまし」という考え方もあろうが、私には腑に落ちないものがある。この国旗は、まさにイラクの複雑な政治事情を反映しているのであり、これからはしっかり報道してもらいたい。
近く独立すると思われるコソヴォの国旗。公募しているところに1千を越えるアイディアがきているようだ。名誉挽回で、是非、朝日新聞に抜いてほしい。
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岩手は人材の県 [2008年02月14日(Thu)]
挿画「越前水仙」は石田良介画伯の特段のご厚意で 掲載させていただいております。禁無断転載。 佐賀県が人材輩出の王国と書くついでに岩手県について書いたところ、何人かからもっといるいると催促がありました。
確かに戊辰戦争で賊軍になりわが秋田にまで攻め込んだ「にっくき」岩手県だが、ほんとうに人材が豊かだ。原敬、斎藤実、米内光政、東條英機、そして鈴木善幸という具合で、山口県に継ぐ総理大臣輩出県である。
加えて、石川啄木、宮沢賢治、野村胡堂、金田一京助、山折哲雄、高橋圭三、江間章子、高橋克彦、常盤新平といった顔ぶれも並ぶ。ほかには国際連盟事務次長の新渡戸稲造、陸軍の板垣征四郎、海軍の及川古志郎
さらには柔道十段の三船久蔵、歌手の藤圭子(というより宇多田ヒカルの母)もいる。
今の閣僚では、知事を終えて総務大臣になっている増田寛也が岩手の出身だ。
日本史の教科書には蘭学者・大槻玄沢の名前がでてきたはずだ。
今の靖国神社の宮司・南部利昭は世が世ならば南部のお殿様だ。
次回は悔し紛れに、秋田県の人材を眺めてみよう。
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Posted by
吹浦 忠正
at 13:08 |
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