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世界一知られた日本の歌 [2008年02月05日(Tue)]









一、 川は流れて どこどこ行くの
    人も流れてどこどこ行くの
   そんな流れが つくころには 
  花として花として 咲かせてあげたい
   泣きなさい 笑いなさい
   いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

二、 涙流れて どこどこ行くの 
     愛も流れて どこどこ行くの
   そんな流れを このむね(うち)に
   花として 花として むかえてあげたい
   泣きなさい 笑いなさい
   いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

三、 花は花として 笑いもできる
    人は人として 涙も流す
   それが自然の うたなのさ
    心の中に 心の中に 花を咲かそうよ
   泣きなさい 笑いなさい
   いついつまでも いついつまでも 花をつかもうよ

『花〜すべての人の心に花を〜』の作詞作曲者・喜納昌吉
(きな・しょうきち 1948〜)といっても、
聴けばあの歌かと思い出すかもしれないが、
60代後半以上の人には必ずしも知名度が高いとは
いえないのではないだろうか。

 もちろん、今やれっきとした、民主党所属参議院議員。
小沢一郎党首とどこで、政治的立場が同じになるのか、
私には理解できないが、この歌は、いい。

しかし、一部のファン以外にはまだ、
メジャーな作詞家ないし作曲家とはいえないかもしれない。

 怒鳴られるに違いないことを覚悟の上で、あえてそう断っておこう。

 しかし、今や作曲者、演奏家を含め、
日本の音楽家では世界で最も知られている人ないし曲では
ないだろうか。瀧廉太郎、山田耕筰、武満徹、美空ひばりといった
故人はもとより、小澤征爾、中村紘子…の比ではないのではないか。
『花〜すべての人の心に花を〜』(以下、『花』)は
世界の大勢の人々に愛され、大切に受け継がれている日本の歌である。

 5年前に私が行なった調査でもベスト30以内に入ったが、40〜50代の人が中心のアンケートではおそらくベスト10入りしたのではないかと思われる。

何しろ、1999年8月に成立した「国旗国歌法案」が審議されていたころ、
『君が代』に替わるべき国歌の案として巷間、
名前が挙がったほど広く日本中で親しまれている曲だ。

『さくら』『故郷』とともにこの『花』を
国歌にという話があったのだ。

 もちろん、長年にわたり定着した『君が代』に替わるには至らなかったし、
私も、『花』がそうなっては新たに広範な国民に覚えさせるという
強制がともなうし、詞の中身は国語として、
また、詞と曲とのアクセントなど問題がない歌ではないので、
この曲の大ファンでありながら、
『さくら』『故郷』を国歌にという案ともども、
これらを国歌に採択することには反対である。

 現に私は、99年6月に行われた衆議院内閣委員会の公聴会において
自民党推薦の公述人として、「日の丸」を国旗に、『君が代』を
国歌として法制化することに賛成した。
波浮の港 [2008年02月05日(Tue)]




   宗谷岬の夕焼け。記念碑は「日本最北端の碑」。
   本当の最北端は、択捉島のカムイマツカ岬。







 作詞家による間違い?または疑問が、ご当地ソングのはしりとでもいえる『波浮(はぶ)の港』(野口雨情作詞、中山晋平作曲。1924年)にも見られる。

1番の歌詞の「波浮の港にゃ夕焼け小焼け」と2番の「なじょな心で」である。

『NHK日本のうたふるさとのうた』は、雨情の子息・の話として、『婦人世界』の編集者が持参した波浮の港の写真を参考にして作詞したのだという話を伝えている。

もちろん、今と違ってモノクロの写真、夕焼けがきちんと判ろうはずがない。私は2度、三原山の南東に位置するこの港を訪れたことがあるが、湾口は東ないし南東に向いており、晴れた日の夕暮れの西の空とはまるで趣が違う。

あれでは「あすの日和(ひより)」を占うにも、これでは難しいはずだ。

 しかし、『波浮の港』は1928年、ビクターから商業レコード第1号として発売され、日本最初の流行歌手ともいうべき佐藤千夜子(ちやこ 1897〜1968)の歌唱力によって、波浮港は一躍有名になった。おかげで、波浮をはじめ伊豆大島は今に至るまで観光客は後を断たない賑わいだ。佐藤はNHK連続テレビ小説『いちばん星』にもなった。

 
 雨情はおそらく地理をよく確かめなかったのではないだろうか。

「伊豆の伊東とは郵便だより 下田港とはヤレホンニサ風だより」というところも、私には素直に理解できない。

両者との距離はそんなに大きく違わないし、もちろん下田は、安政時代、米露と相次いで条約を締結したほどの古い港町で、伊豆大島との船舶の行き来はずいぶんあったはずだ。

 それよりも、「なじょな心」の「なじょな」が大島の言葉ではないことが変だとの指摘が昔からあった。。

これは、雨情の出身地・茨城県の方言であり、「いかなる思い」とか「どんな心」ということであろうが、「ご当地」伊豆大島では必ずしも通用しなかったようだ。

『宵待草』と同じように2番を付け足したのが、『雨降りお月』(野口雨情作詞、中山晋平作曲)。1925(大正11)年、この曲が、岡本帰一の絵に浮かぶように、絵本『コドモノクニ』で発表されるや、一躍、大ヒット。

そこで、雨情が急遽、『雲の蔭』の題で今の2番の詩を発表、晋平が両方を続けて歌えるように、『雲の蔭』のアクセントに合わせて旋律を微調整した。

 それにしてもこの曲、音域が13度に及ぶ。高校1年のとき、私は島崎藤村の『若菜集』から「木精(こだま)」という詩にメロディーをつけた話は、以前、小欄で楽譜とともに紹介したが、これも同じく13度。先輩にとやかく言われたとき、中山晋平だって「こんなに音域の広い曲を作ってます」といい逃れた。

 厳密には拙曲のほうが半音広い音域なのだが、そこは、「わが誇る?歌唱力」でごまかした。              <完>
宵待草 [2008年02月05日(Tue)]




   オオマツヨイグザ







 待てど暮せど来ぬひとを
 宵待草のやるせなさ
 こよひは月も出ぬさうな


ご存知の『宵待草』(竹久夢二作詞・多忠亮=おおのただすけ作曲)。
一世風靡の抒情歌である。

 夢二は1910(明治43)年、千葉県・銚子の海鹿(あしか)島で一夏を過ごしたが、その時、お島という女性を見初めた。

 二人は月見草の生い茂る海岸で逢瀬をかさねたが、後にこの地を再訪した夢二はお島が他家に嫁いだことを知ったのだ。悲しみを胸に、夢二は、月のない海鹿島の海岸で、お島の思い出にふけったといわれている。

『宵待草』はこの短い詩の中にそうした大人の恋心がこめられているのだ。

 ところで、夢二没後4年の1938(昭和13)年、
『宵待草の歌をテーマに、
当時人気トップクラスの女優・高峰三枝子の主演で
映画が制作された時、2番の歌詞が付けられた。
映画の主題歌としては『宵待草』が短すぎるということから、夢二と親しかった
西條八十が次のように2番を作詞して付け加えた。

  更けて河原に 星ひとつ
  宵待草の花が散る
  更けては風も 泣くそうな

 ところが、
この「花が散る」がおかしいということになった。

 宵待草(正しくはオオマツヨイグサ)は
散らずにしおれて知人でしまう花であるというのだ。

 直ぐには散らない」という指摘を受けて、
西条は「花が散る」ではなく、
「花の露」に修正した。 

 ケチがついたというべきか、
以後、この2番は全くといっていいほど
歌われないままである。

 今、市販されているCDで2番が収録されているのは、
美輪明宏の盤(kicx496)ぐらいである。 
リンゴとミカン [2008年02月05日(Tue)]







5年ほど前、愛唱歌について調査したところ、『みかんの花咲く丘』(加藤省吾作詞、海沼実作曲。1946年)はかなり多くの人から支持されていることがわかった。

戦後しばらくの間、リンゴとミカンはほとんど唯一の果物だった。

そして、並木路子と霧島昇の『リンゴの歌』(サトウハチロー作詞、万城目正作曲)が終戦直後の暗い世相を少しでも明るくする役割を果たしたとするならば、川田正子の『みかんの花咲く丘』(加藤省吾作詞、海沼実作曲)は戦後のかなり長い期間、全国の子どもたちに明るさをばら撒いた曲であり、戦後、最もヒットした童謡であろう。 

3番の歌詞が「やさしい母さん 思われる」だったものを、一時「やさしい姉さん」に変えたことがある。

戦災で母を亡くした子どもたちにつらいというのが理由だったとか。

戦後は、まず赤い実の『リンゴの歌』が大ヒットし、白い花のこの歌が続いた。

海外からの復員兵や引揚者たちの中には、舞鶴、佐世保、横須賀といった港に着いた時、この二つの明るい歌に初めて出会い、敗戦に打ち沈んだ気持ちをいっぺんに回復させることができたと語る人が多い。

その一方で、同じ川田が『里の秋』(斎藤信夫作詞、海沼実作曲)を歌い、復員する父や夫を待つ家族の心を支えた。

やがて、古賀さと子、松島トモ子、小鳩くるみといった童謡歌手が続き、さらには、NHK東京放送児童合唱団、音羽ゆりかご会、ひばり児童合唱団、西六郷少年少女合唱団、東京荒川少年少女合唱隊、少年少女合唱団みずうみ、タンポポ児童合唱団、森の木児童合唱団などなどの合唱団が結成され、その活躍は今も継続している。

同じ敗戦国オーストリアからのウィーン少年合唱団の来日(初来日は1958年)は、伝統への憧れとレベルの高さで日本中を圧倒し、児童による合唱を大いに刺激した。
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