• もっと見る
« 2008年01月 | Main | 2008年03月»
<< 2008年02月 >>
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29  
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
あざみの歌 [2008年02月04日(Mon)]








(1) 山には山の 憂いあり
   海には海の 悲しみや
   まして心の 花園に
   咲きしあざみの 花ならば

(2) 高嶺の百合の それよりも
   秘めたる夢を 一筋に
   くれない燃ゆる その姿
   あざみに深き わが思い

(3)いとしき花よ 汝(ナ)はあざみ
   心の花よ 汝はあざみ
   さだめの道は 果てなくも
   香れよせめて わが胸に

『あざみの歌』(横井弘作詞、八洲秀章作曲。1949年)も
女性を中心に抜きがたい支持のある8分の6拍子の歌。

けなげに「耐え忍ぶ女」の情感を見事に描いた詞をもとに、
戦後の1949(昭和24)年、
八洲自身がNHKの「ラジオ歌謡」で歌って
好評を得た。

翌年、今度は歌手の伊藤久雄が
同じ番組で歌って、爆発的にヒットした。

とりわけ、男よりも仕事を選ぶと称した
斬新で、孤高を保つといった感覚の独身女性たちに歌われ、
戦後の代表的な愛唱歌となった。
惜別の歌 [2008年02月04日(Mon)]








     惜別の歌
                 島崎藤村作詞
                 藤江英輔作曲
一、遠き別れに たえかねて
     この高殿に 登るかな 
   悲しむなかれ 我が友よ 
     旅の衣をととのえよ

二、別れといえば 昔より
      この人の世の 常なるを
  流るる水を 眺むれば
      夢はずかしき 涙かな

三、君がさやけき 目の色も
    君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
     またいつか見ん この別れ


『惜別の歌』は中央大学の学生にとっては、
戦中、戦後を通じ、『蛍の光』に代わる別離の曲となっている。

詳しくは、中大マンドリン倶楽部のホームペイジを
ごらんいただきたい。

原詩は島崎藤村の処女詩集
『若菜集』(1897年)に収録されている『高楼』。
嫁ぎ行く姉を妹が送る八連の長詩だ。

作曲者・藤江英輔(1950年法学部卆)が
その詩に曲を付けたのは戦時中の1943(昭和18)年。

以後、中大生にとって学徒出陣の歌になった。

44年春、学生たちは諏訪湖付近の部隊に配属、
内一人が勤労奉仕のため付近にやってきていた東京の女子学生と恋愛し、
これを妬んだ見習士官の告げ口により、その男子学生は
習志野(千葉県)に配置転換を命じられた。

二人は、出発する前日、
高島城跡の高台かとも思われる高殿に登り、
この歌を歌って別れを惜しんだと伝えられている。

作曲したとき藤江は学徒動員で東京・板橋の造兵廠で働いていた

藤村の詩は1番が
「遠き別れに たえかねて この高殿に 登るかな
 悲しむなかれ 我が姉よ 旅の衣を ととのえよ」
となっていたが、戦時中のことゆえ、
藤江が3節を「わが友よ」と変更した。

歌の雰囲気はまるで違う内容になった。

長田暁二の『日本のうた大全集』の解説によれば、
藤江は60年頃、
「藤村の遺子・翁助に会って改作の追認を受けた」
ということだ。
創価学会の三色旗 [2008年02月04日(Mon)]









チャド、ルーマニアの国旗について書いたところ、「品川生」さんから、「創価学会の旗同じですよね」とのコメントをいただきました。

 まったくおっしゃる通りです。街で「赤黄青の縦三色旗」が掲げられているのを見たらそれは、チャドやルーマニアの国旗であることはめったになく、創価学会の会館その他の施設であるとりかいされたほうがよいかと思います。

 なぜ、同じデザインなのか、私には経緯が分かりません。随分前に、創価学会広報部さん文書問い合わせましたが、お返事をいただけませんでした。また試みてみます。

以前にもこの話は飽きましたが、インターネットで「創価学会の旗」と引いてみたものをそのまま転載して、ご紹介します。ちなみに私は、創価学会の会員ではありません。政治と宗教には中立を標榜しています。

 ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 創価学会の「赤、青、黄」の「三色旗」は、1988年に定められました。
 ポールに近い順から「青」「黄」「赤」と並びます。
 三色は、それぞれ「平和(青)、栄光(黄)、勝利(赤)」を表し、
 日蓮大聖人の仏法に基づいて、一人一人の幸福と真に平和な
 世界の実現を目指す、創価学会の理念を象徴するものです。
陳総統の南沙訪問 [2008年02月04日(Mon)]






  太平島を視察する陳総統










   太平島















陳水扁総統が南沙(スプラトリー)諸島最大の島・太平島を訪問しました。台湾総統の視察は初めてです。台湾の解釈では、南沙諸島は日本時代と同様、台湾の高雄市に属しているということです。

 この視察については、台湾のみならず、世界のメディアは「台湾が対中緊張高め、来月行なわれる総統選挙を民進党に有利に進めるのが狙いか」と報じています。

たとえば、朝日新聞(2月3日付)。

★ .。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 台湾の国防部(国防省)は2日、台湾が実効支配する南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島・太平島に2日、陳水扁総統が訪問したと発表した。台湾総統の同島入りは初めてで、昨年建設した1000メートル級の新滑走路を使用したとみられる。領有権を主張する周辺国は反発を強めそうだ。

 陳総統は台湾南部の屏東基地から空軍機で出発し、現地の軍官らを慰問した模様だ。3月の総統選を前に中国との間で緊張を高めることを狙った、との見方もある。

 太平島は南沙諸島最大の島で、台湾の海・空軍など100人程度が常駐する。南沙諸島は豊富な埋蔵資源があるとみられ、中国、ベトナム、フィリピンなども領有権を主張する。

 潜在的に紛争のリスクがあるため、中国と東南アジア諸国との間では平和的解決を約束する「行動宣言」をかわしているが、外交関係がない台湾は加わっていない。
 陳総統の南沙諸島訪問計画に対し、ベトナム政府は先月、「我が国の主権を侵すあらゆる行為に断固反対する」と中止を求め、中国外務省の劉建超報道局長も「南沙諸島は中国の領土だ」と台湾の動きを牽制(けんせい)した。

  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 その後、フィリピン政府も抗議声明を発表しました。

 しかし、陳総統の発言にも耳を貸す必要があります。読売新聞(2月3日付)は次のように伝えています。

  ********** ● ○ *********

陳総統は1月に完成が確認された軍用空港で演説し、「台湾は南シナ海にかかわる当事国として、南シナ海の紛争を、国連憲章と国連海洋法条約に基づいて平和的に解決することを周辺各国に求めたい」と呼びかけた。

 台湾当局が実効支配する太平島は南沙諸島最大の島。陳総統は、南沙問題を巡る話し合いが、中国と東南アジア諸国連合(ASEAN)間だけで行われていることに不快感を表明。「南沙で最大の島を領有している国が排除され、台湾の権益が損なわれている」と述べ、「主権国家」としての台湾の存在を強くアピールした。

  〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 領土問題を選挙がらみで扱うことは基本的によくないと考えます。また、周辺諸国を刺激しすぎることも決して台湾にとってプラスにならないはずです。

 今夜は、自衛隊の最高幹部だった人たち数人と台北駐日経済文化代表処(事実上の大使館)幹部たちとの会食(新年会)なので、このあたりの話をじっくり聞いてみようと思います。
チャド政権危うし [2008年02月04日(Mon)]





   チャドの国旗






ルーマニアの国旗








   モルドヴァの国旗








   アンドラの国旗











 アフリカ内陸部のチャドで17年間続いたイドリス・デビ大統領の政権が、反政府軍によって武力制圧されそうな気配だ。

 内外のメディアが伝えるところでは、 反政府軍はスーダン西部のダルフール地方に隣接する国境地帯から300台の軍用者を連ねてチャド西南部にある首都ヌジャメナに向かい、既に、デビ大統領直属の部隊が守る大統領官邸(BBCはpalace)を包囲しているということだ。

 旧宗主国であるフランスは既に在留邦人の引揚を始めている。

 思えば1990年、デビ氏自身も反政府勢力を率いて首都を制圧し、順調な政治指導を続けていたかに見えたが、2005年に自らの3選を図って憲法を改正してから、反政府運動が活発になった。政府側によれば、スーダンが裏で糸を引いているということだが、真相はわからない。

 ところで、チャドの国旗は「青黄赤の縦三色旗」。1960年にフランスから独立する際、フランスとの結びつき(友好協力関係)を象徴して、「青白赤の縦三色旗(フレンチ・トリコロール)」の中央を、他のアフリカ諸国でも多く用いられている黄色にしたもの。

この旗が実は、ルーマニアとまったく同じデザインになってしまった。

 というのは、1989年12月、ルーマニアでチャウシェスク大統領が殺害されて社会主義政権が倒れたとき、人々はそれまでの国旗にあった、油井、森林、太陽、国名のイニシャル表示、麦の穂などから成る紋章を切り取り、これによって、第2次世界大戦以前の「青黄赤の縦三色旗」に戻ったのであった。

 ルーマニアもまた、周辺のスラブ諸国と違って、その国名が示すように「ローマの末裔」、つまりラテン系の民族であり、フランスに大きな共感をもっていたため、1919年に独立以来、47年に王政が廃止されるまで、その三色旗であった。

 ところで、この国旗の中央に紋章をつけただけの国旗が、お隣のモルダビアと、ピレネー山脈にあるアンドラ。

 モルダビアは将来的にルーマニアと一緒になろうという下心の産物、アンドラは、フランストスペインの共同統治のような国であるため、両国の国旗のデザインを合わせたようなものになった。

チャドの皆さんが、さまざまな危険にさらされているときに、遠い日本には、その国旗を気にするしか何も出来ない、老生がいるわけでいささか申し訳ないが、どうしても、この思いが、要衝の砌からの「国旗マニア」である私には先立ってしまう。
小泉さんに期待する [2008年02月04日(Mon)]









読売新聞(2月2日付)によれば、小泉元首相が、2月14日に、沖縄の宮古島を視察するそうだ。

宮古島の自動車用ガソリンをすべてバイオ燃料に切り替える「バイオエタノール・アイランド構想」が事実上、断念に追い込まれたことを受けたものだという。

小泉元首相は「石油依存度を減らすために、代替エネルギーを考えないといけない」と懸念を示し、その上で、「視察後、全島でバイオエタノール燃料を導入できるように、特区などの対策を考えたい」と述べ、かねての持論であるこの案の復活を目指す考えのようだ。

 首相在任中にブラジルを訪問した際、バイオエタノールを燃料にした車に乗った経験があり、それがたいそう印象的だったようで、これがバイオ燃料の普及構想となったようだ。

 ちなみに、政府は、同島内19か所すべてのガソリンスタンドで、エタノール3%をガソリンに直接混ぜる「E3」を供給しようとしたが、2008年にE3を供給するのは4か所にとどまる見込み。

 同元首相は、製糖工場に併設したエタノール製造設備などを訪れる予定のようだ。

 そこで、小泉さん、
 もう一足、伸ばしてほしい。

 宮古島から船で15分、伊良部島である。そこから車で、そう5分かな、下地島まで。伊良部島とは6本もの橋がかかっている。

 そこには3千mの滑走路が「遊んでいる」。全日空、日本航空などの乗員訓練用として造られた大型空港だが、航空各社は事実上、そこから逃げて、訓練はアメリカで実施するようになったのだ。「語学訓練ができない」というのが理由のようだが、実際は、語学の先生や生徒が退屈してしまうというのが、ホンネと聞いた。

 このため、下地島空港はほとんどがら空き。同じ宮古島市に空港が2つあり、大きなほうが休眠状態なのである。これぞ税金のムダ使いの最たるもの。

 いま、いくつかのアイディアが検討されているが、まず、この不思議な空港を見てきてほしい。案は十分暖めている人がいる。安全保障、国際協力、観光さまざまな活用策がある。

 期待しているのは実行力のある政治家だ。
尖閣に定住者は? [2008年02月04日(Mon)]



    尖閣列島







     竹  島






 先日、小欄に「シマノモリオ」様より、以下のコメントが寄せられていたことに気づきませんでした。お返事が遅れましたことをお詫び申し上げます。

☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 はじめまして。
 といいますか、実は、「小欄」のかねてからの愛読者です。
 そのことに免じて1つ教えてください。
 尖閣列島や竹島には、日本人が住んでいたことはあるのでしょうか。
Posted by:シマノモリオ

★ .。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 尖閣列島については、中国も時刻の領土であると主張していますが、中国人が居住した痕跡はまったくありません。

 他方、日本人では、1884(明治17)年、福岡県出身の実業家・古賀辰四郎が赴いて事業の展開を調査、翌年、事業展開のため沖縄県に借地契約を請求しました。古賀はその後、船着場や鰹節工場を建設し、漁業とアホウドリの採取を主として、最盛時には99戸、248人が定住していました。

 日清戦争終結の直後である1895年6月10日、古賀が「官有地拝借願」を内務省に提出し、翌96年、日本政府が古賀への30年の無償貸与を許可したのです。

  1918(大正7)年、古賀が亡くなると、事業は息子の善次郎に継承されました。1932(昭和7)年、尖閣列島中、魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀に有償で払い下げられました。しかし、日中戦争が激しくなり、国際情勢多端な中で40(昭和15)年、古賀が事業継続を断念。尖閣諸島は無人島になったのです。

 戦後は、沖縄全体が連合軍ついで米国の支配下に置かれ、米軍の射爆場として久しく使用されていましたので、古賀家の事業はなかなか復活できませんでした。

1969年および70年に行なわれた国連による石油埋蔵に関する海洋調査の結果、推定1095億バレルという、イラクの埋蔵量にも相当する大量の石油がこの周辺にあるのではないかという報告が為され、にわかに台湾と中国がその領有を言い出したのです。

 日本政府は現在、島全体をさいたま市に在住する古賀家の子孫から借り上げ、海上保安庁が厳重に監視して、88年に日本の政治結社が建設した灯台の管理のため、年に1回許可されるのを例外として、日本人外国人を問わず、いっさいの上陸を認めていません。

次に、竹島について。
徳川時代の初期、1618年、伯耆国米子の町人・大谷甚吉、村川市兵衛らが幕府の許可を得て竹島に渡航しています。公式にはこれが日本人による初渡航といえるでしょう。

 しかし、朝鮮との大小のトラブルもあり、1696年、幕府は今の竹島とその周辺の島々への渡航を禁止しました。

 実際の島の様子やその後の経緯から見て、私は竹島には定住した人はいないと思います。

 さらい詳しいことが解ったら、ご報告します。
衞藤先生をしのぶ会 [2008年02月04日(Mon)]







    根室の納沙布岬で。左から、衞藤瀋吉、末次一郎両先生、そして
  佐瀬昌盛現・安全保障問題研究会会長。
  「島を返せ」の碑は、日本健青会(末次会長)が1950年代に
他に先駆けて建設したもの。







衞藤瀋吉先生(東大名誉教授、亜細亜大学元学長、
東洋英和女学院大学元院長)は、
わが師・:末次一郎が1960年代に
沖縄返還に向けて佐藤内閣といろいろ努力したとき以来の、
師の同志であり、
私は学問、判断、から
ものの言い方、食事の仕方、
自動車運転のマナー、テニスの強力サーブ・・・
ひたすらいろいろ教えをいただいた。

何度か内外の各地にご一緒したこともあるし、
国際会議を一緒に企画したり、拙宅までお越しくださったり、
私も何度も参上したりした。

旧臘、天に召されたが、病気の経過を知っていただけに、
むしろ、良くぞここまでがんばられたと感心するほどである。

多くの優れたお弟子さんのことは以前小欄で紹介した。なかでも、
平野健一郎早稲田大学教授(東大名誉教授)は公使とも、
献身的に尽くされた方だ。

今朝ほど、関係者に向けて、下記のご案内をいただいた。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★


衞藤瀋吉先生は、昨年12月12日に胃癌のため逝去されました。
84歳でした。
先生は長い間教育・研究に尽瘁され、
多くの学生・後進をご指導くださいました。
そのご恩に感謝申し上げ、お別れを申し上げるために、下記の要領で
先生を偲ぶ会を開きます。皆様のご参列をお願い申し上げます。


― 記 ―

日時: 2008年3月1日(土)式典・献花および懇談
     11:30−15:00 (受付開始 11:00)
会場: 神田学士会館210号室 (千代田区神田錦町3-28 TEL 03-3292-5936)
会費 :3千円 (当日、受付で頂戴いたします)

供花のご芳志をお持ちの方は、
平野健一郎(TEL 03-5286-1260)までご連絡ください。
なお、ご香典は衞藤家のご意向によりお受け致しませんので
ご了承ください。

ご出席の方は、
ご氏名、ご所属(もし、あれば)、ご連絡先、故衞藤瀋吉先生とのご関係を
実行委員会( メールアドレス )宛に2月21日までにお知らせください。

備考: 当日は平服にてご来場ください。
主催: 衞藤瀋吉先生を偲ぶ会実行委員会
    (委員長 岡部達味東京都立大学名誉教授)
6拍子にはまった若者たち [2008年02月04日(Mon)]








8分の6拍子の話に戻そう。

、アンデルセンの『即興詩人』(森鴎外訳)を下敷きにして作られた『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞、中山晋平作曲、1915年)、『宵待草』(竹久夢二作詞、多 忠亮(おおのただすけ)作曲。1917年)、『浜辺の歌』(成田為三作曲、1913年)、『琵琶湖周航の歌』(小口太郎作詞、吉田ちあき作曲、1918年)、『七里ケ浜の哀歌』(三角錫子=みすみすずこ作詞)と続くことはすでに書いた。

『七里ケ浜の哀歌』は、1910年1月23日、逗子開成中学(神奈川県)の生徒12人がボートの転覆で全員溺死するという事故に際し、その死を悼んで、鎌倉女学校で数学を教えていた三角が急遽、作詞し、自らのオルガン伴奏で同女学校の生徒たちが2月6日の合同慰霊祭でうたったのが始まり。

長らくトーマス・W・ガードン作曲と表示されていたが、讃美歌研究家の手代木(てしろぎ)俊一によると、「この原曲は英国の舞曲で、米国の作曲家インガルス1805年に出版した讃美歌集『クリスチャン・ハーモニー』に『ガーデン Garden(天の国)』の曲名で紹介した」ものであり、「曲名が作曲者名に勘違いされていた」のであるとのこと。(長田暁二『日本のうた大全集』)。

『琵琶湖周航の歌』の作詞者小口太郎は三高(現・京都大学)ではボート部と弁論部に在籍していたが、その後、東京帝大理学部に進学、学生時代に「有線及び無線多重電信電話法」を発明、日英仏伊の特許を取得するなど、今ならノーベル物理学賞を受賞してもおかしくない功績を果たしている。

しかし、わずか28歳で神経衰弱のため自殺した。

歌は今でも京大ボート部の愛唱歌であり、加藤登紀子の歌で全国に知られた。

ほかにも同じような雰囲気ないし情感を歌った曲が一時、大流行した。

1941(昭和16)年に岩手師範と八戸中学の生徒による作詞・作曲で出来た『北上夜曲』(菊地規作詞、安藤睦夫作曲)はダークダックスなどの歌で、『惜別の歌』は小林旭などの歌で、いずれも1960年頃(昭和30年代後半)、すなわち歌声喫茶全盛期に当時の若者たちに最も好かれる歌となって広まった。

 これすなわち、団塊の世代から上の人たちの間では、知らぬものがいないほどの愛唱歌となっているということだ。
| 次へ