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宮沢賢治 C [2007年11月22日(Thu)]






  挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。




 文学(にも)疎いこんな一介の庶民が、
こんな解釈をしながら、
「一人の先達を忍ぶのも、時には許されていいだろう」と
10年余り前、私は『海外ボランティア入門』に書いた。

 しかし、98年11月に北海道で開かれた
第30回全国ボランティア研究集会の案内パンフの表紙をみて、
少なからず驚きもし、嬉しくなった。

 そこには、原子修・札幌大学教授の
「<ボランティア文化>に託するもの」という題の一文が
掲載されており、
そこでも、この詩について、
豊かな語彙を持つ碩学の人らしく、
奥深く
この詩について論じられているのだ。

まんざらボランティア活動の視点からこれを見直すのは、
素人の無責任さだけでもなさそうだ。
宮沢賢治 B [2007年11月22日(Thu)]



挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載







「病気ノコドモ」「ツカレタ母」「死ニソウナ人」は
世界中で援助を求めている弱者であり、
医療援助や食料援助が必要だし、
イラクやアフガニスタンなどの武力紛争など
「ケンクワヤソショウ」は
「ツマラナイカラヤメロ」という
国連の平和構築(PBO)や平和維持(PKO)の活動ではないか、
とさえ思えた。

そういえば、賢治の言葉で昨今注目されているのがもう一つ。

「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」

 これは、賢治の理想が集約されている
と言われる『農民芸術概論綱要』の冒頭である。

若い頃に、この言葉に出会って圧倒され、
感動した人は、一人私のみであるまい。

「<雨ニモマケズ>はもちろん、
古今の賢治研究者の解釈が正当なものである
ことはいうまでもあるまい。     (つづく)
宮沢賢治 A [2007年11月22日(Thu)]









   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載






 山内治編『宮沢賢治』(河出書房新社)は、
賢治はここで冒頭から賢治自身にも達成しがたい理想を述べ、
「東ニ」以下は
「仏教で言う老・病・死・怨憎会苦に対する対症療法」であった、
これも「絶対的に不可能なこと」で、
後段は「自然の災禍を前にして、
実践的に<技術>の限界を悟った賢治のつぶやき」であり、
結語は「現実に対する自己の力への絶望から発するもの」であって、
「常に虚妄がつきまとう」と解説している。

「雨ニモマケズ」については、
小倉豊文の『雨ニモマケズ手帳研究』、
西田良子『宮沢賢治論』、
龍門寺文蔵『<雨ニモマケズ>の根本思想―宮沢賢治の法華経日蓮主義』
をはじめ、膨大な研究書があり、
昨今は、大学文学部の卒論テーマで全国一とか。

 だから、私は日蓮思想がどうとか、
田中智学の国柱会の影響がどうとか、まして、
どの人のどういう解釈が正しいなどと
ここで議論するつもりはまったくないし、
その資格すらもちろん、ない。

“極楽トンボ”と言わばいえ。
私は久しぶりに読んでみて、
専門家のこんな難解な解釈よりも、
これぞ、今に通じるボランティアの役割であり、
“人生の達人”の極意ではないか、
と素直に見直しただけだ。       (つづく)
対人地雷シンポ1日に [2007年11月22日(Thu)]








 難民を助ける会のHPからの転載です。
みなさま、是非、参加してください。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 1997年12月3日、この日はカナダのオタワで、
対人地雷禁止条約の署名式が行われた日です。

 今年で10年。

 対人地雷は、一般市民に大きな被害を及ぼすことから、
人道上も、また、
紛争終結後の復興・開発を阻害する大きな要因としても、
極めて重要な問題です。

 難民を助ける会(相馬雪香会長)では
カンボジアやアフガニスタンをはじめ
地雷埋設国でさまざまな地雷対策活動を行っています。

 また、日本政府は対人地雷禁止の実現と
現場における地雷除去・犠牲者支援等の
地雷対策支援の強化を推進しています。

 オタワ条約署名式から10周年を迎えるこの12月1日(土)に、
難民を助ける会と外務省が共催で、
地雷のシンポジウムを開催し、
これまで地雷問題に取り組んできた
それぞれの立場からこの10年間の取り組みを振り返り、
今後の更なる取り組みの可能性を議論していきたいと思います。

 シンポジウムには
対人地雷問題に熱心に取り組んできたマラソン・ランナーの
谷川真理さんを特別ゲストに迎えるほか、
国連機関、地雷被害国政府機関、
地雷除去活動を行う国際NGOなど外国からの
被招聘者も参加します。

 また、日本で地雷対策の実務に携わる外務省や
NGOのボランティアや職員、
市民社会の一員として地雷問題に興味関心を持っていただくよう
活動している方々も参加します。

 この日の催しでは、午後に地雷対策の分野別に
以下3つの分科会での報告、討議、質疑応答を行います。

 ◆分科会A:地雷除去及び技術開発
 ◆分科会B:地雷回避教育及び地雷被害者支援
 ◆分科会C:国内における啓発活動

 地雷問題に興味関心のある
皆様のご参加を心からお待ちしております。


【日時】 2007年12月1日(土)午前9:30〜18:00

【場所】 海運クラブ(東京都千代田区平河町2-6-4 海運ビル)

◆東京メトロ 銀座線・丸の内線「赤坂見附駅」より徒歩10分
◆東京メトロ 半蔵門線・有楽町線・南北線「永田町」より徒歩1分
地図:こちらをご覧ください。

【使用言語】 日・英(同時通訳付き)

【参加費】 無料 【定員】200名
※参加には事前に申込が必要です

【お申込み方法】
 参加ご希望の方は、
@お名前(ふりがな)、
Aご所属先名、
B役職、
Cご連絡先(Tel/Fax/E-mail)、
D上記の3つの分科会のうち、
参加ご希望の分科会を明記の上、
11月29日(木)18時(必着)までにイディオリンク株式会社伊藤まで、
Fax(03-5510-2512)またはe-mail(jirai@idiolink.jp)でお申し込みください。

 なお、参加は先着順とし、出席希望者数が会場収容人数に達した時点で
申し込みを締め切らせていただきますので、予めご了承ください。
ロシアの詭弁家 [2007年11月22日(Thu)]



    いつも「元気」なポノマリョフ議員。
   サハリンフォーラム2日目の冒頭では、
   「4島」を自国領とした州旗を掲げたことに
   抗議する佐瀬昌盛安全保障問題研究会
   会長と激しくやりあった。






ポノマリョフ・サハリン州議会議員殿

 11月14日付サハリン州の新聞「DSK」紙は、
「『北方領土』とは何なのか?」と題して、
あなたは概要は以下の論評記事を掲載していますね。

1.「北方領土」:これは日本がロシアに対して行っている
領土要求に関する情報心理戦争の中で使用しており、
本質がすり替えられた宣伝用の偽りの地理的用語である。

2.「安全保障問題研究会」の代表であった
故末次一郎氏のまえがきと共に2000年に出版された
「日露平和条約締結に向けた道筋:ロシア人からの88の質問」
と題する本の中で、
「歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島で構成されている
北方の四つの島々が
北方領土と称されている」と指摘されている。

 しかしながら、この本に掲載されている「北方領土」の位置図では、
北海道の他に全ての「クリル」諸島
及びカムチャツカ半島の一部、サハリン島の北緯50度以南、
つまり、
ロシアに属していることは言うまでもない領土が示されていた。

 実際に、地図では択捉島とウルップ島の間に
意味が分からない点線が引かれていた。

 つまり、日本側の要求は、
「クリル」諸島全島とサハリン島の半分ということだ。

3.「北方領土」という言葉は、
日本固有の領土であるとロシア側に四島の返還要求を持ち出した際、
日本側が第二次世界大戦終結後に使い始めた用語である。

4.1968年、日本外務省系列の雑誌において、
国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島は
「狭い意味」で北方領土であり、
「広い意味」では、残りの「クリル」諸島全島と
サハリン島南部及び隣接する島々、
モネロン島やチュレニー島が含まれると掲載された。

 日本の超民族主義者たちは、
その時から、カムチャツカ地方や沿海地方、
沿アムール地域等これらソ連・ロシアの地域を
「北方領土」に含み始めた。

5.1969年からロシア領土として
サハリン州の構成に入っている「小クリル」群島(日本名:
色丹島、歯舞諸島)や
国後島、択捉島が、国土地理院の地図において、
日本の面積に含まれるようになった。

 したがって、日本の面積が5000平方キロメートル広くなっている。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 ポノマリョフ議員、
あなたとは10年の付き合いですから、
私も率直に書きましょう。

 あなたは、9月にユーラシア21研究所と
安全保障問題研究会が東京で開催した
「サハリンフォーラム2007」(通算10回目)の
サハリン側参加者の一人として、
勝手にサハリン州旗(北方4島を自州の領域内に含む
ことを示すデザイン)を正面に掲げるなど、
「無責任な自由」を「堪能」しましたね。

 もっと平たく言えば、
サハリン州ないしロシア屈指の詭弁家ないし
アジテータであると「ある種」の「尊敬」の念さえ
私は抱いているのです。但し、
「一流の」詭弁家として私が「尊敬」するまでには
いたっていないことは、「好敵手」として残念です。

 従って、ここまで読んだだけで、
あなたやこの公開回答書をみる読者は、
「ウヌッ!」と思われたに違いありませんが、
日本政府の立場は、サハリン島とその付属島嶼、
そしてウルップ(得撫)島以北のシュムシュ(占守)島までの
千島列島は、サンフランシスコ講和条約で日本が放棄した範囲で
あると言うことなのです。

 もちろん、法律に精通しておられるあなたには
とっくにご理解いただいているに相違ない事実でしょう。

 ちなみに、「日本の超民族主義者たち」かどうかは
定かではありませんが、
日本共産党は、千島列島は1875年の
「樺太千島交換条約」で日本の領土になったものであり、
「侵略」や「暴力」で奪ったものではないから
その返還を求めるという主張をしているのです。

 1993年10月の東京宣言で、
両国は、領土問題を「択捉、国後、色丹、歯舞」の「4島」に
限定したのはご存知ですね。

 しからば、なぜ、それ以外にも南サハリンや千島列島を
線で区切って別の色にしているかといいますと、
私たちは、サンフランシスコ講和条約の締結国を
尊敬しているからなんです。

 そこのところを、ポノマリョフさん、
よく解っていただきたいのです。

 つまり、この講和条約では、
それを「ソ連領にする」とは決めていないのです。
日本が「放棄する」としただけであって、
日本のものではないことは確かなのですが、
さりとて、純国際法的に、どこの領土かというと、
未画定というほかないのです。そこは、
検事出身のあなたはよく解るはずですね。

 その上、日本政府は90年代の末に、
あなたがお住まいの州都ユジノサハリンスク(旧豊原)に
総領事館を開設し、
事実上、そこをロシア領と認めているわけです。

 ここまでは、賢明な貴兄はとっくにわかっていて、
詭弁とアジを展開したいのかもしれません。
得意の あなたは、さらにこう書いています。

「地理を用いた日本側の手の込んだトリックは
何が危険なのか?」

「まず第一に、全世界の人々にとって共通の
極地点について南北という概念を用いている
物理的な地理学に反して、何の疑問も、
また注釈もない「北方領土」という用語を使用することで、
同時に日本中心的な観点になる」。

どうぞ皆さんは「南方領土」とでも呼んでください。
要は、
東京宣言で未確定の地域をはっきり島の名を並べているから
同じです。

 ついでに、友人たるあなたにお願いします。

「日本海」を「東海」と呼んだり、
「東シナ海」を東海と呼ぼうとする、
ロシアの2つの隣国に、是非、
世界中が古来、呼んできた名前にしましょうと
説得してみてください。

 ほかにもあなたは、次のような趣旨を書いておられます。

@物理的な地理学に反して、
確定した「クリル」諸島の大きさが人為的に縮小され、
そのことで日本は作り出された概念である「北方領土」ではなく、
ロシア領である「クリル」諸島に対する権利を
主張しているという理解が奪われている。

A「北方領土」という用語を用いている者は、
日本が第二次世界大戦時の一連の参加国と署名した
サンフランシスコ講和条約の履行拒否を
正当化することを手助けしている。

B「北方領土」という用語、あるいはその同義語である
「四島」という用語を無批判に用いている者は、
ロシア領に対する日本側の最小限の要求が意味するところを
隠蔽している。実際には、日本の領土要求は拡大されており、
四島ではなく24島ものロシアの島々である。

C日本側は最小限と称している領土要求において、
「南クリル」だけでなく「中クリル」をも要求している。

「尊敬」するポノマリョフ議員の論文ですから、
気を入れて読ませていただきましたが、
貴国の、エリツィン大統領
とわが国の細川護煕首相(いずれも当時)が署名した
東京宣言をあなたも、どうぞ気を入れて読み直してみてください。

 両国の領土問題は「北方領土」、
すなわち「北方4島」であると、
私たちは「正札」を示して、
貴国と合意しているのです。

 しかも、その点については、
プーチン大統領との会談でも、
貴国側が十分諒解しているのです。

 あ、そうか。
もしかしたらポノマリョフさん、
あなたは「反プーチン派」で、
ロシアの「超民族主義者たち」の一人なのかもしれませんね。

 その点を気づかずにいたのかもしれません。あしからず。

 御地はいよいよ氷点下の日々が続くかと思います。
ご自愛専一にてお過ごしください。
宮沢賢治 @ [2007年11月22日(Thu)]






  春爛漫」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。





 先にも書いたように、盛岡に立ち寄ると、
宮沢賢治、石川啄木、野村胡堂、金田一京助といった、
文化人の輩出ぶりに、
わが秋田県人は肩身の狭い思いがする。

 しかも、一人ひとりがまったく個性が違いながらも、
それが日本中の多くの人々に受け入れられ、
愛されてきたと言うことに敬服せざるを得ない。

 そんな中で、ここでは、宮沢賢治を振り返ってみたい。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテヰル
 ・・・・・・・・・・・・
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒド(デ)リノトキハナミダヲナガシ
アツサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
(原文のまま)

 久々に『宮沢賢治詩集』を手に取った。
手元の角川文庫平成3(1995)年版が46版というから、
大変なベストセラーということになろう。

その中で編者の中村稔は「<雨ニモマケズ>は、
宮沢賢治がこれを詩と呼ぶつもりであったかどうか
疑わしい。この作品は1931(昭和6)年9月東京で病に倒れて
帰郷したその時の11月、手帳に書き留めてあった」としている。

それが没後、弟・清六によって手帳が開かれ、
人々の目に触れることになった。

賢治は、あるいは自分の心がけやこれからの理想の人生観を
詩のようにして書き記したのかもしれない。  (つづく)
世界に思いを!(最終回) [2007年11月22日(Thu)]




  世界に思いを馳せさせてくれた恩師・橋本祐子(さちこ)先生









   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載





「parallel & harmony」、同じ方向を目指しているが、
同一ではなく、調和して響き合う。

 含蓄のあるいいことばだと思う。赤十字活動の恩師である橋本祐子(さちこ)先生からいただいた言葉だ。

茅誠司・元東大学長(協力隊を育てる会初代会長)は
揮毫を頼まれると、よく
「和而不同」(和して同ぜず)とお書きになられた。

 この英文とは、語順は逆だが、
同じ思いが込められていることばであろう。

 また、「キミはキミ、ボクはボク。だが、仲良く」も同じだろう。

 キミが国内で、ボクが海外で活動する。それでいいじゃないか。

 聖徳太子(574〜622)の『憲法十七条』は
「以和為貴」で始まっている。

 当時の大和の政治的混乱を思えば、
そうしたい気持ちも解らないではないが、
「和」だけではエネルギーが燃え上がらないこともある。

また、「人皆有党 亦少達者」として
グループを作ることを諌めている。

 それよりも私は、これからは各個人が謙虚に実力を磨きつつ、
随時、集まり、しかも協調して、
それぞれが世のため人のためになってゆけばよいと考える。

みんなが皆、同じことをしなくてもいいのだ。

「日本さだって困ってる人、なんぼでもいるべさ」と言った
わが高校時代のクラスメート。

 キミは、その後、日本の困っている人のために
どんなことをしているか、
今度のクラス会で聞いてみよう。
世界に思いを!B [2007年11月22日(Thu)]





   わが師・末次一郎最晩年の揮毫。青年海外協力隊の
  創設者の一人である







 国際協力の重要さと意義をあちこちで説く私だが、人にはおのずと向き不向きがある。
 さまざまなボランティアたちを見ていると、中には、国内での障害者、高齢者、病人の介護やお世話という仕事より、海外での難民、環境、貧困といった活動の方が向いているという人も確かにいる。

もちろん、逆の人もいる。向き不向きとともに、その人個人の「やりたいこと」「やれる場」がたまたま海外ということであり、海外で活動しようという人は決して単なる変り者ではないのである。

外国でのほうが生き生きする人なのだ。その人が外国で働くことは大いに結構でないか。

 以前は、国際協力に出かける人は「変わり者」か「落ちこぼれ」のように見られたことがなかったわけではないが、それは、もっぱら、私が赤十字第1号の国際救援代表だったということから来ることであり、いまや、一人ひとりは、高学歴、数ヶ国語に堪能、一流企業や中央官庁のキャリアだったりする。

 また、資源と市場を海外に頼ることを国是としている日本は、世界に平和と安定がなければやって行けないというのは今も昔も変わらないことだ。国際協力がそのための一助になってもいいではないか。

「日本は中立国であり、宗教の押しつけがない国として安心して援助を求められる」。これは旧ユーゴ戦争のさなか、クロアチアの国立小児センターのファットリーニ院長が難民を助ける会の長 有紀枝さんに言ったという言葉だ。

日本の新しい役割だろう。

印パ両国の対立の中にあって、1971年から翌年にかけて、独立戦争たけなわの東パキスタン(現バングラデシュ)で活動していた私もまた、中立の意味と大切さ、そして義務を感じたものだった。

日本は今後とも世界の部族対立や宗教対立については、ほとんどの国や地域で中立の立場に立つことのできる貴重な援助大国であろう。
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