ソ連軍の千島侵攻 [2007年09月25日(火)]
![]() ![]() 千島の最北端・占守(しゅむしゅ)島にのこる 旧日本軍の戦車。ロシア側の資料から。 ボリス・N・スラビンスキー著になる 『千島占領 一九四五年 夏』という本が 1993年に共同通信社から刊行されている。 訳は加藤幸廣、 わが「仲間」とはいえ、日露関係といえば泰斗ともいうべき 木村汎先生が解説を付している。 この本は、ロシア語でナウカ出版から、 また、英語でもハーヴァード大学出版会から刊行されている。 スラビンスキーはソ連科学アカデミー極東研究所を拠点に、 多年、極東の国際関係史を専門に研究生活を続けた人。 この本を出版した当時は、『極東の諸問題』誌の副編集長でもあった。 ソ連邦崩壊直後の混乱期に、 日本への留学や日本での学究生活を希望し、 私も少し動いてみたが、実現しなかった。 今でも惜しいと思う。 日露関係に関わっていると、 ときどきそういう「惜しい」という事例に出くわすが、 先方からの提案というチャンスを生かして 新しい展開を拓くことが出来たということもままある。 ユーラシア21研究所で行なっているロシア語のHPは、 まさに、ゴルバチョフ時代にペレストロイカ(改革)、 グラスノスチ(情報公開)を進めたナンバー2・ アレクサンドル・ヤコブレフから笹川陽平日本財団理事長(当時)に 話があったのがきっかけで始まったものである。 ほかにも注目すべきいろいろな話があったし、ある。 いずれ時期を見て、小欄で紹介することもあろう。 さて、スラビンスキーであるが、丸々と太った赤ら顔で、実に実直な人柄であった。「学者の良心」が歩いているような人だったから、もしかしたら、大変なストレスをためていたのかもしれない。いつぞやは、日本大使公邸でともに酒盃を交わした挙句、ひどく悪酔いしていた。急死の悲報が入ったのは90年代の末だったような気がする。 その『千島占領 一九四五年 夏』の邦訳86頁に次の記述がある。 O 。. . 。o O ○○ O o 。. . 。o O ○○ O ソ連司令部は、千島と北海道に関するワシントンの姿勢を知らないまま、エネルギッシュに戦略の実行にとりかかっていた。8月15日の夜(モスクワはまだ14日)、極東ソ連軍総司令官A・M・ワシレフスキー元帥は、第2極東方面司令官M・A・プルカエフ上級大将とI・S・ユマシェフ海軍上級大将に対して、増援部隊の到着を待たずに、カムチャツカの現有勢力によって千島列島北部の占領を目的とする千島上陸作戦を準備し、実施するよう命令した(D・Y・バグロフ著『島々の勝利』70頁)。 (中 略) ワシレフスキー総司令官の8月15日付の命令(暗号電報第10542号)を実施するため、太平洋艦隊軍事評議会は、占守(しゅむしゅ)島占領を目的とする上陸作戦を準備し、部隊を占守島に上陸させる任務をペトロパブロフスク海軍基地に与えた。 ☆ 〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆ ペトロパブロフスク海軍基地はカムチャツカ半島最南端、占守島は千島(クリル)列島の最北端に位置し、その北のはて国崎岬との間はわずか16キロほどしかない。そういう位置関係で、8月14日は睨みあっていただけである。 要するに、「玉音放送」前の段階では発砲も上陸もない。日本側の戦史では、米軍機による偵察や小規模爆撃が占守島にあった程度である。ソ連軍との交戦は一切なかった。 「8月15日」の前日である14日に、ソ連軍が既に千島列島のどこかに上陸し、日本軍がこれと戦火を交えたというなら、歴史が大きく変わる。いやしくも公的機関であるサハリン州の刊行物であるならならば、いつ、どの島に、何というソ連軍の部隊が上陸したのか、きちんと説明してもらいたい。 ソ連軍が千島列島に攻め込んできたのは、 「玉音放送」から3日たった、1945(昭和20)年8月18日に、 最北端の占守島になのである。 |












