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加藤タキという人 [2007年09月10日(月)]








 ちなみに、ウィキペディアで、難民を助ける会の加藤タキ副理事長を見てみると・・・

「日本のコーディネーター。

 本名は、黒川 多喜子(くろかわ たきこ)。(株)タキ・オフィス代表取締役。父は元国会議員の加藤勘十、母は社会運動家で元国会議員の加藤シヅエ、夫は建築家の黒川雅之。義兄は同じく建築家の黒川紀章で、その妻(義姉)は女優の若尾文子」。

 ご母堂の加藤シヅエ先生は、30年近く前、相馬雪香先生とともに、難民を助ける会を創設したメンバーの一人。私など、設立大会の議事録を三田の加藤邸に持っていって、議事録署名人としての署名・捺印をお願いしたことがある。

 戦後すぐから、日本社会党所属の国会議員をされた。元石本男爵夫人であったが、大牟田の三井炭坑で労働者の悲惨な勤務状況を見るに及んで、発奮。社会運動家となり産児制限などで活躍した。

 104歳という長寿を先年全うされたが、90歳過ぎてなお、さまざまな研究会に頻繁に出席し、70代の三木睦子元首相夫人、80代の相馬雪香難民を助ける会会長とともに、自他共に「3ババ」と称し、講師や報告者に鋭い質問を浴びせかけていた。

 タキさんはシヅエ先生48歳のときのお子様、そしてタキさんご自身が42歳で出産したという健康家族。昨年はその息子さんを連れて、ザンビアまで地雷の被害者やエイズ患者などへの救援・支援活動を視察して周った。

 難民を助ける会の理事就任を頼みに行ったときのこと。
「母が関わったことですし、まずはできるかどうか検討してみます。できるなら引き受けますし、名前だけならいやです」。

 超多忙で、何でも今でも睡眠時間がなんと2時間だとか。これはダメかと諦めかけていたら、
「やります。引き受けます」の返事。

 実際、毎月の常任理事会には最優先で出席し、会の活動の有力なリーダーになっておられる。7、8の両日、六本木ヒルズで行われたイベントでも、まるまる2日間、フルに舞台を切り盛りし、何度も何度もステージに立って、呼びかけや解説、司会進行を行った。

 ご自分で年齢を明らかにしているのであえて62歳と書くが、若さで負けた。


「加藤タキ」って便利です [2007年09月10日(月)]







「加藤タキ」さんを分解すると・・・

 か・・・カザフスタン
 と・・・トルクメニスタン
 う・・・ウズベキスタン
 タ・・・タジキスタン
 キ・・・キルギスタン

 中央アジア5カ国の国名をこうやって覚えましょう。

 以下は、ウィキペディアから。


 1945年3月30日に、東京都で生まれる。

 アメリカのオレゴン州にあるポートランド・マルトノマjr.大学を卒業。

 帰国後、雑誌「ニューズウィーク」や「タイム・ライフ」の東京支局に勤めた後、1975年にコーディネーターとして独立。

 また、この頃より、プロモーションのために日本のテレビ番組に出演する目的で来日した海外アーティストの通訳を数多く担当。一時期、フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」の専属通訳を務めていたこともある(この関係から、当時の司会者・芳村真理とは現在に至るまで親交を持つ)。

1990年代以降はテレビのコメンテーターや講演活動など、幅広く活動している。

 


加藤タキさんに学ぶ@ [2007年09月10日(月)]






   加藤タキ難民を助ける会副理事長





7,8の両日、六本木ヒルズで行われた
「『地雷ではなく花をください』talk & Live」で
総合司会を務めたのは、
難民を助ける会の加藤タキ副理事長、
高橋敬子(きょうこ)常任理事
そして長(おさ)有紀枝前専務理事・事務局長の3人。

 どの人も実に自分の「持ち役」にはまった、
いい分担をして二日間を乗り切ってくれた。

 加藤さんについては「全国区的に有名」なので
いまさら説明の必要はあるまいが、
要するにプロがボランティア活動をしているということ。

 高橋さん(通称:ズッケ)とは
この人の学生時代からの付き合いだから、
かれこれ40年近い仲間。

 そして長さんとは10年のお付き合いである。
先月、東京大学で博士号を取得しての、復活ボランティアだ。

 そのズッケから昨日、こんなメールをいただいた。

 ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 毎度の事ながら、私はお役に立てたことよりも学ばせていただいた
ことが大きく、感謝いたしております。

 タキさんのお傍でステージの進行を見られたことは
何よりの学びでした。

 2日目に入ってどんどんコミットの度合いを増してきたタキさんと
舞台関係者とのやり取りも興味深いものでした。

 はじめの手探り状態から、
最後のほうはステージでお話になりながらブタカン(舞台監督)に
「どうぞ準備に入って下さい」とキューを出されていたタキさん。

「あちらからキューをいただいちゃいましたよ」
と楽器の準備に取り掛かる裏方たち。

「東京音楽祭(30年前?)をやっていた頃を思い出すわ」と
楽しみながら(?)やってくださったタキ副理事長。

 面白かったと同時にタキさんの勉強振り、
隅々への配慮、本当に勉強になりました。

 私の中の引き出しが一つ増えたようです。

 まずは、ビッグイベントの成功(だったと確信しております)
おめでとうございます!

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 いえいえ、ズッケの退き方(or 引き方)も見事でした。

 ここはタキさんに、ここは長さんにという振り方といってもいいでしょう。

 本来は、司会の名人で、
畏友・河合弘之弁護士と私が毎年やっている
ホームパーティ的な演奏会ではもちろん、
昨年は、フィリピンのダバオまでご一緒していただいて、
2千人の聴衆を前に、
英語と日本語での司会を一人で見事にこなしていました。

 タキさんからはもちろん、私も多くを学びました。

 全体の進行の中で自分が何をすべきかを見出し、
積極的にその役割をになおうという姿勢とそのための実力です。
    (つづく)
ヒルズで民謡・原田直之 [2007年09月10日(月)]





  民謡を歌って地雷廃絶を訴える原田直之さん





 六本木ヒルズのアリーナで「『地雷ではなく花をください』Talk & Live」を企画したとき、私はなにか意外なものはないだろうかと考えてみた。

 そこで、思い立ったのは民謡である。幼少のころ、わがふるさと秋田では、お祭りには粗末な舞台ができ、そこでは多く、民謡が歌われていた。あの三味線と太鼓の音が懐かしい。

 私の親しい人の中で民謡といえば、すぐ原田直之さんを思い浮かべる。

「じゃがいもの会」で何度も何度もご一緒した仲、といってもお分かりにくいかと思うが、この会は、森進一さんの申し出を時の中曽根康弘首相が受けられ、私につないでくれたのが始まりなのだ。今年で終了したが、先日は森さんとも電話でいろいろしゃべったばかりだ。

 原田さんは23回続いたこのコンサート(内17回は、難民を助ける会主催)の常連メンバー。カンボジアの地雷原にも行ってもらったし、アンコールワットの舞台でも歌っていただいた。そうそう、日本のODAで復旧したカンボジアの国立劇場は、原田さんが「杮(こけら)落とし」をした。

 1995年の阪神淡路大震災のときには、避難所や仮設住宅を回ってもらって、演奏していただいた。

そんな原田さんが、朝日新聞の「ひと」欄で「民謡を歌って地雷廃絶を訴える」と紹介された。友人としてこんなうれしいことはそうはない。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 小中学生から時々聞かれる。「民謡ってなんですか」。そんな時はこう答える。「だれが作ったかも分からない。でも、聞けば懐かしさや故郷を思う気持ちでいっぱいになる。そんな歌だよ」

 福島県出身。物心つくと民謡を歌っていた。

「声が高くて民謡向きだった。何度歌っても不思議と飽きなかった」。

 高校時代に本格的に習い始め、21歳で歌手デビューした。

 田植え、酒造り、舟こぎ……。

 歌い上げた全国津々浦々の情景は数万曲になる。

 「その土地の歌い方は崩さずに、でも楽しく、自由に」。
3千人の弟子にはそう教えてきた。

 86年、転機が訪れた。NPO「難民を助ける会」主催で歌手の森進一さんらが開いてきたアジア・アフリカの子どもたちのためのチャリティーコンサートに参加。96年にはカンボジアの地雷原に立った。手足を失った人を見るのはつらかったが、子どもたちは手拍子をし、ステップを踏んで聴いてくれた。

「言葉が違っても庶民の中で伝わってきた民謡は、苦しんでいる民衆の心に染み渡る力がある」。その体験が頭を離れず、公演の収益の一部を会に寄付するようになった。

 今年は対人地雷禁止条約の署名10周年。7日、東京・六本木ヒルズでの記念コンサートに出演する。

 歌い継がれてきたソーラン節や佐渡おけさが近代都市に響く。「民謡を知らない人が足を止め、地雷廃止を考えてくれる場になれば」

★ .。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

7日の夜、いささか不釣合いなことにならなくてはと心配する声がなかったわけではないが、さすがは、第一級の名歌手。私まで『秋田おばこ』をリクエストして、秋田の豊年祭りを思い出せていただいた。ありがとう。
小沢一郎という人@ [2007年09月10日(月)]






   「公正な国際社会を実現し ともに生きる国・日本へ」
      ではないでしょうか










      「生活が第1」、がさつな私は
    日本共産党のCMかと思いました。




 テレビの画面を見ていると、
民主党の記者会見場には
「政治は生活である」との張り紙がたくさんあるようです。

 それはそれで結構。

 さて、小沢さん。あなたが1990年代中ごろまでに
大いに注目されたことは、少なくとも4回あります。

 1回目は、
自民党の幹事長として宮沢喜一氏などの次期総裁候補を
「引見」し、「査定」したとき。私は唖然とし、
あんまりだ、と言う気分になりました。

 2回目は、
 合計約250億ドルもの援助と言うべらぼうな数字を抱えて
モスクワに飛んだとき。
当時、交渉の緒に付いたものを含め、
すべてのプロジェクトの総額にも匹敵する金額でした。

 あまりに心配で、
あらゆる対応策を講じ、
わが師・末次一郎に従って羽田の控え室まで押しかけりなどして
その暴走を牽制しました。

 小沢さんはモスクワには行きましたが、
このカネで島を買い戻すような交渉は未遂?に終わりました。

 いかにもバブル時代そのもののような話でした。

 しかし、小沢さんが「普通の国」としての日本を創設しよう
としたときには、私たちは大賛成でした。

 小沢さん、
あなたはいつから「普通の国」構想を180度転換したのですか。

 なぜですか。「政策」より「政権」がという
、そういう人ではあなたはないはずです。
デヴィ夫人のこと [2007年09月10日(月)]
 



 写真はデヴィ夫人。テレビ朝日の画像から。





デヴィ夫人と初めてお会いしたのは1967年、「国際事件記者」大森実さんの研究所で紹介され、しばし懇談した。1965年9月1日にスカルノ大統領が倒されてほどないころである。

 モチロン、素敵な女性であり、国家元首夫人という威厳と、頭の良さに感心したものだ。

 その後時々お目にかかる機会があったが、2、3年前、難民を助ける会が神田明神で行った、チャリティ・ファッションショウにもお越しくださり、小池百合子環境相(当時)と3人で、「女性政治家とモデル」の違いについて、大爆笑した話があるが、それは公開をはばかる。

 この人には、真偽不明のいろいろな話があるらしい。しかし、私が直接関わってきたので間違いなく確かなのは、毎年、慈善舞踏会を開催され、いつも数百万円を難民を助ける会にご寄付下さることだ。「継続は力なり」、もう累計で数千万円になっているはずだ。 

 昨年、所用で京都に行ってお茶を飲んでいたら、お隣のテーブルでデヴィ夫人も女性の友人と談笑しておられた。テレテビや舞台など公の場ではないくつろいだ様子は、また魅力的なものがあった。

 今回のイベントにはもちろん、ボランティアとして参加してくださった。

 今川幸雄元カンボジア大使と柳瀬房子難民を助ける会理事長との鼎談に出ていただいた。今川大使は、この人のおかげでで、日本中がカンボジア支援に夢中になったといわれる人。今の篠原大使ともどもカンボジア語のできる大使がいるというのは、うれしいことだ。

 デヴィ夫人は今週、シアヌーク国父陛下とモニク国母陛下のお招きで、プノンペンに行くという。楽屋で、久々の「元大統領夫人」としての役割を果たすことになるとうれしそうに語っていた。

 出演前のお化粧だったが、素顔の人間「デヴィ」を見たようなさわやかさだった。