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北方領土“発見”と“課題” [2007年09月05日(Wed)]



 8月30日から4泊5日で北方領土の国後、択捉両島を訪問した。

 1993年の第一回「ビザなし訪問」に参加して以来、
概ね2年に1回の割で現地を訪ねているが、今回、私は「4つの“発見”4つの“課題”」があったと報告したい。

 第1の“発見”は、単冠(ひとかっぷ)湾への訪問だ。

 戦後、公式に陸上からこの地に立ったのは初めてなのだそうだ。

 ご承知のように、1941(昭和16)年11月、
山本五十六率いる連合艦隊はここに集結した。

ハワイに一番近く、霧が多いところということで選ばれたのであろう。

 実際、私が訪問した9月1日も、
現地の村長から霧で見えないと伝えられたが、
到着時のみ、見事に晴れ渡っていた。

 湾に隣接する天寧の空港や軍の施設をも垣間見ることができた。
 
 第2は、天寧で奉安殿がのこっていたこと、
そして旧日本軍の倉庫が2棟現存し、
ロシア軍が依然、
倉庫として使用していることを知ったことである。

 いずれもコンクリート製の頑丈な建造物である。
 
 第3は、日本時代の建造物として
択捉島紗那の郵便局と
その向かい側にある択捉水産会の建物のうち、
郵便局が大きく破壊されていたことである。

 一昨年、日本では郵便切手にまでなって
その保存運動が始まったというのに、である。

 第4は、クリル社会経済発展計画がじわじわと進み、
道路、港湾、空港、地熱発電、学校建設などの工事が
緒についているということだ。

 しかし、それでも、住民はまだまだ計画の完全実施を
信用しているわけではなかった。

 択捉島の中心地紗那の港は
ようやく4.5mの岸壁はできたとはいえ、
われわれが乗った480トンの船さえ、接岸できなかった。

 舗装道路は依然ほとんど皆無に近い。

 “課題”の4つは、次の通り。

 第1に、北方領土に関する情報の蓄積が
いよいよ重要になってきたことだ。

 今まで「ビザなし訪問」で北方領土を訪ねた人は
のべ1万人近いが、交流と親善が中心であり、
そのことは評価できるが、
他方、島の現況に関する情報の積み重ねが不十分だ。
今後はその面でたゆみない努力を重ねて、
なんとか4島の状況を恒常的に的確に把握したいものだ。

 第2は、日本側から
もっと北方領土の住民に発信してゆく必要があるということだ。

 そのためには択捉の「赤い灯台」や
国後の「国境にて」といった地元紙に協力するだけではなく、
ユーラシア21研究所がやっているロシア語のHPででも、
もっともっと、
直接、4島住民を対象とした記事を発信する必要があると感じた。

 第3は、北方領土住民への医療支援を拡充すること。

 外務省の補助金により根室市立病院に一定の枠を設けて
緊急の患者を中心に受け入れているが、
これは文字通り、
4島のロシア人住民にとっての命綱となっており、
人道的見地から対応してゆくべきである。

 それがもたらす付随的効果は計り知れない。

 しかし、現状は肝腎の根室側の医療体制があまりに不十分だ。

「ロシアには厳しく根室には優しく」が、
今後の対露政策、北方領土返還への道の基本であろう。

 第4は、日本時代の建造物の修復について、
北方領土日本家屋保存友好委員会(会長・塩川正十郎元財相)による
緊急な取り組みが肝要であるということだ。

 現地は夜は真っ暗闇であるから、
郵便局の破壊は確実に昼に行われている。

 紗那の街の中心地にありながら破壊されたということは、
それを受容せざるを得ない勢力が
野蛮に壊したと見るのが妥当だろうが、
下手人探しより、その一部を活用して、
早急に再建する必要がある。

 私も参加した今回の島側との協議で「覚書」の調印に
大きく踏み出すことができたのは一定の成果だが、
下手をすればこの冬に崩壊してしまいかねない状況への対応は
緊急を要する。






択捉の郵便局 [2007年09月05日(Wed)]





  旧紗那郵便局。
2年前まで現役の郵便局としてロシア側が使用していた。









  歴史的な建造物であるに関わらず、
最近こういうひどい眼にあった。









   郵便局1階の惨状









    壁が破壊された中から、
日本語で書いた板などが露出していた。






 択捉島の旧紗那郵便局の現状と保存への動きについて、
9月4日付釧路新聞に詳しく出ているので、転載したい。

 なお、文中に、私が毎回、「ビザなし訪問」に参加しているような
記述があるが、これは誤報。
「15年間に10回ほど現地を訪問している」が正しい。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 北方領土・択捉島に残る日本建築物の一つ、
旧紗那郵便局の屋根、壁板がはがれ、
骨格がむき出しになっていることを
3日帰根したビザなし訪問団
「北連協主体の船」(団長・高橋均連合副事務局長、団員61人)の
会見で明らかになった。

 日本側には北方領土日本家屋保存友好委員会
(会長・塩川正十郎元内閣官房長官)があり、
同会の児玉泰子事務局長(北連協事務局長)らが、
今回訪問団に加わり、
択捉島でスベトロフ・クリル地区長らと懇談。
保存へ向け日ロ間の「覚書」を調印することで同意した。

 択捉島には、戦前の日本建築物として旧紗那局、
旧択捉水産会の2棟が現存する。

 このうち、1930年に建てられた旧紗那局は、
戦後も旧ソ連―ロシアによって
2年前まで郵便局として使われていた。

 築70年と老朽化が著しく、
3年前に富山県で行われた四島交流日ロ間代表者会議で、
ロシア側は解体したい―との意向を示していた。

 この2棟について、
日本側関係者は「北方領土が日本領である証し」として
保存への機運が高まり、
毎年1回、択捉・国後の2島を訪問する
「北連協主体の船」に、
北方領土日本家屋保存友好委関係者が加わり、
測量など現状確認を済ませていた。

 北連協主体の船に毎回参加する
吹浦忠正氏(ユーラシア21研究所理事長)は
「旧紗那局はここ数ヵ月の間で壁などの板がはがされている。
傷みが激しく冬に壊れる可能性もある」と、
保存への早急な具体策を求める。

 北連協、保存委の事務局長を務める児玉泰子氏は、
建物の現状や島側との協議内容について
保存委に報告書を出す。

 訪問団からは「一部の反日勢力の仕業か…」、
「犯人捜しではなく、これ以上荒廃させることは避けたい」
といった声がある。

 島の日本建築物について、
ロシア側は「日ロ間で建築工法が異なり、
ロシア側が修繕した場合に、さらに傷ませる可能性がある」として、
3年前に打診していた。

 今回、旧郵便局のガラスが割られ、
壁や屋根板がはがされるなど屋台骨があらわになり、
ロシア側も「これ以上荒廃させられない」と
覚書調印へ向け、ようやく本腰を入れた。

 建築物保存がこの3年で動かなかったことについて、
いわゆる「ムネオ問題」後は
外務省の「支援委」が「支援室」に替わり
柔軟に対応できなくなった弊害の一つ―とする見方もある。

 今回あわらになった建材には
材質、工法、資材調達方法などが記され、
「ロシア側の修繕で隠れていた本来の建築構造から、
北方領土が日本固有であることが
より象徴的になる」(児玉泰子事務局長)としている。
択捉での寛永通宝 [2007年09月05日(Wed)]







 昨4日夕、北方領土の国後(くなしり)、択捉(えとろふ)両島訪問から帰京した。

 もう10回目くらいの訪問になる。これは通訳のTさんの92回、Sさんの80回、Oさんの52回には遠く及ばないが、一般の訪問者としては児玉泰子北方領土返還要求運動連絡協議会(北連協)事務局長の30回を別格としてかなり多いほうだと思う。

 いまから少しずつ紹介してゆきたい。

 まずもって北方領土問題対策協会の事務局スタッフ各位と通訳の諸兄姉に深甚なる謝意を表したい。

 通訳の人たちのご苦労は並々ならぬものがある。

みなさんいずれも高い職業意識に徹しており、カメラを持参しない、見聞を公にしない、取得した情報は事務局に報告するのみという態度は実に立派というべきであろう。

 6、7年前に択捉島を訪問したとき、ある通訳の方が、たまたま寛永通宝を拾ったことがあります。そのことについてこの方に問い合わせたところ、「拾得した場所は、別飛村と浜中漁場の間にある別様川の河口です。別様川」の正式な読み方は、残念ながら、まだわかっておりません。現在確認中です」との返事が来、「実際の寛永通宝は北方領土問題対策協会の事務局に提出してあります」とのお返事だった。

 寛永通宝がいつからいつまであの地域で通用したのかはとても興味深いところであり、また、最上徳内、間宮林蔵、高田屋嘉兵衛などが活躍した地域だけに、これはなかなか興味深い出来事である。

 択捉が日本固有の領土であることを証明する1つでもある。

 今、事務局に問い合わせているので、いずれ小欄でご紹介できるかと思っている。


六本木ヒルズへどうぞA [2007年09月05日(Wed)]










 台風9号が心配です。

 私が特別顧問をしている
認定NPO法人難民を助ける会(相馬雪香会長)は、
国連広報センター、外務省、
そして朝、毎、読、産経、日経の各紙の後援を得て、
7、8の両日、六本木ヒルズのアリーナで大きな催しをします。

 ですから、台風がことのほか心配なのです。

 みなさまに是非、お越しいただけるよう、
もう一度、ご案内をさせていただきます。

 難民を助ける会(相馬雪香会長)は、
28年前の、1979年に設立され、
現在、世界10カ国で人道支援活動を行っています。
政治的、宗教的にまったく中立のNGOです。

 難民を助ける会は、
対人地雷禁止運動にいち早く取り組み、
絵本『地雷ではなく花をください』(5部、58万部)の刊行を始め、
果敢に政策提言や啓発活動に取り組み、
日本の対人地雷禁止条約(オタワ条約)への加入に
貢献しました。

 1997年にノーベル平和賞を受賞した
ICBL(地雷禁止国際キャンペーン)の執行委員団体として活動、
授賞式にも招かれました。

 また、『地雷ではなく花をください』の純益などをもとに、
イギリスの地雷撤去専門のNGOヘイロー・トラストと協力して
カンボジアやアフガニスタンなどにおける
不発弾・地雷除去活動を行って来ました。

 さらに、現在も、
アンゴラ、アフガニスタン、スーダンでは
地雷被害回避教育(地雷の被害に遭わないための教育)を、
ラオス、カンボジア、ミャンマー、アフガニスタン、タジキスタンでは
地雷被害者を含む障害者の支援を行っています。

 私は30年近く前、その創立に加わり、
代表幹事、副会長、副理事長などとして
中心的な役割を果たしましたが、
還暦と共に次世代に譲り、
今は特別顧問として第1線からは退いています。

 今般、オタワ条約の署名式から10周年を迎えることから、
同会では
「地雷ではなく花をくださいー地雷原に生きる子どもたち」というテーマで
特別企画イベントを開催します。

 規模の大きなイベントで、
老生にできるかどうか、逡巡しましたが、
若い人に担がれ、短期間ですが、
運営委員長に任じられました。

 LIVE & TALKと言うことで、
2日間にわたり、著名演奏家による、
日本民謡、クラシック、ジャズ、ボサノバ、男性合唱・・・のLIVEと、
専門家や著名人との対人地雷問題についてのトークで
盛り上げます。

 この機会に、多くの人々に、特に子どもたちに
地雷の問題や世界で起きている様々な問題を
身近に感じていただきたいと思います。

 また、世界各地で地雷対策活動に取り組む難民を助ける会が
実際に活用している地雷の被害から身を守るために
教育教材などを展示し、
ワークショップなども開催するというものです。、

 より深く地雷問題の本質について知っていただく機会になればと、
“老骨”にムチ打って、私もこの企画に参加することにしました。

 小欄、ご愛読のみなさまも是非、お越しください。

【日時】2007(平成19)年
9月7日(金) 午後3時〜8時まで
  8日(土) 午前10時45分〜午後8時まで。
 
【場所】六本木ヒルズ・アリーナ(地下鉄日比谷線六本木駅すぐ
     または、南北線麻布十番駅から10分)

 ご家族でご一緒にお楽しみください。

そうそう、入場無料です。

台風9号 [2007年09月05日(Wed)]



   ヤフーより。



台風9号が心配です。

 今朝のNHKテレビのアナウンサーが「台風は父島周辺を通過し、いよいよ日本に近づいてきそうです」といってました。

「おいおい、父島は日本ではないのかい?」。

 本土、関東、首都圏・・・落ち着きましょうね。
リヒテルのサイン付き [2007年09月05日(Wed)]






















 これがリヒテルのサインです。真ん中はブーニン。
いずれも八ヶ岳高原ロッジの宝物です。

 撮影したのは、天満敦子さんのリサイタルが行なわれた8月25日。
天満さんの演奏もこうしたサインを見ることも、
私にはいささか感激でした。

 ところが、翌々日、27日。ロシア大使館で、
マルカーロフ(ユネスコ平和大使)のピアノ演奏会のとき、
乾杯の音頭をとったある、中年の日本人女性がリヒテルについて触れました。

 すると、なんと、通訳をした大使館のロシア人が、
リヒテルを知らなかったのです。

 私たちの世代では、ピアニストといえばリヒテル、
ヴァイオリニストならハオフェッツ、オイストラフ、シデッティ、
フランチェウカッティ・・・。

 ついでに指揮者は、私より上の世代ではフルトベングラー、
トスカニーニか、少し下ってカール・ベーム、カラヤンか・・・

 そして声楽ならカルーソーにマリア・カラスか・・・

 20世紀を輝かしいものにしたこれらの音楽家。

 しかし、「去るものは日々に疎し」か。リヒテルさえ、
ロシアの外交官が知らないというこの現実。

 そういえば、日本とアメリカが戦争したことも知らない人もいるし、
真珠湾が三重県だと答えた女子大生にも会ったことがある。

 大使館で話し込んだジャパンアーツの中藤社長は、
リヒテルの親友だった。

「リヒテルはヤマハのピアノしか弾かなかったよ。その秘密はね、うっふっふ・・」
と秘話を教えてくれたのが、この日の個人的な収穫だった。
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