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松本馨教授のこと [2007年08月15日(Wed)]










 戦時中に、日米両国間をはじめ交戦国間でさまざまなコンタクトがあったことについて、昨日、書いたところ、数人の方から「もっと詳しく」という注文が寄せられた。

 拙著『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)で触れたことをもとに、今少し書き続けたい。

ICRC(赤十字国際委員会,本部:ジュネーブ)は第2次世界大戦時に在留邦人を互いに送還しあう「交換船」を活用して、さまざまな荷物の送付を行った。

 利益保護国の代表が乗船し、その代表がICRCの代表を兼ね、さらにICRCの別の代表が荷物の陸揚げ、倉入れ、積込みを監督するという方式である。

 まず、1942年7月にロレンソマルケス(当時・ポルトガル領、現・モザンビークの首都マプート)で「浅間丸」と「グリップスホルム号」が出会い、「浅間丸」は日本及び日本の占領地で捕虜などとして抑留されている欧米人宛の荷物6,993個を持ち帰った。

 以下は余談ながら、私にとってはわすれられない思い出話。少し付き合っていただきたい。

 駐日英国大使館のレッドマン一等書記官が東京・半蔵門の治外法権のある英国大使館内でスパイ容疑をもって、日本の官憲に逮捕された。

 英国政府は、報復として、当時、駐英大使館に勤務していた、わが大学院時代の指導教授・松本馨先生(戦前は、京城帝国大学教授)をロンドンで捕縛、収監した。

 この二人は、1942年7月に、ロレンソマルケスで、互いに交換された。両船接舷のうえ、縄はしごに板をひいたようなものの上を同時に渡ったのであった。

 板の中央で出会って以来、2人の友情は終生続いた。

 戦後、レッドマン氏は再度、日本に赴任、65年離日の際には、早稲田で私たちに記念講演をして下さり、松本教授が司会をされた。

 ロレンソマルケスを離れた後、松本先生はバンコクの日本公使館に着任した。そして敗戦。先生はシンガポールのチャンギー監獄に収容された。

 英仏独の有名大学を出ている松本先生は、連合軍にとってまたとない便利な通訳として使われ、最後に釈放・帰還ということになった。

「ロンドンの刑務所は楽だったよ。刑務所長以下、幹部に大学の同級生や後輩がずらりといて、私個人に何の罪もないことを十分知っているわけだから、本当に厚遇された。しかし、シンガポールでは酷い目に遭わされた。敗戦国ジャップへの集団的な報復だったからね」。

 松本先生と交わした話は、常に国際的であり、ロマンに満ち満ちたものだった。先生は、生涯独身。それでいて、毎年夏には、あえて船でドイツに渡り、ハイデルベルク大学時代の恋人に会っていた。

「毎日、少しずつ近づいてゆく。そして最後は、埠頭で再会。キミたちには到底理解できない、古き佳き時代を私は知っているんだ。帰り? それはもう飛行機で一気に日本に戻るさ」。
アメダスってなあに? [2007年08月15日(Wed)]







  明日の天気は?





 アメダスというのは、
Automated Meteorological Data Acquisition Systemの
イニシャルをくっつけたもので、
雨だけを観測する480ヶ所を含む、
全国約1300ヶ所で自動気象観測し、
集計する装置(システム)なのだそうです。

 それはそうと、
「降水確率は、東京地方10%、神奈川地方・・・」
という具合に発表されますが、
私にはその意味がよく解りません。

「島」に夢中の私など、「東京地方」ってどこからどこまでなのか、
伊豆大島は含まれるのか、などとまで考えてしまいます。

@ 10%というのは、
    それが10日続けば1日は雨になる、
A 東京地方が10%であれば、
    都内の10%の地域に雨が降る、
B 東京地方が10%であれば、
    都内の10%の地域で10日に1回雨が降る、
C その他

どれが正しいのでしょうか。教えてください。


戦争犯罪は一方的 [2007年08月15日(Wed)]





    安導券を有しながら撃沈された阿波丸





 戦時であっても、捕虜や文民(評論家の石垣綾子などの例がある)など、交戦中の相手国に抑留されている自国民がいる。この人たちに救恤品(見舞の品物)や郵便物を届けるというのが、ICRC(赤十字国際委員会、本部はジュネーブ)の大きな仕事の1つだ。

しかし、第2次世界大戦中の日米間の場合は、さまざまな理由から、これがきちんと制度化することが至難であった。

 最大の理由は、日本側にあった。

 日本はたとえ中立国の船であろうとも自国の水域に入って来ることを拒否した。

 軍事機密の保持ということを最優先たからであった。

 ICRCは日米間の中に入って、戦闘中の両国政府間(形式的には日赤と米赤間)のコミュニケーションを取り持った。その結果、1943年4月、日赤は「日本政府は、アメリカ政府がソ連の船でウラジオストクまで救恤品を送るなら、その送付に便宜を与える用意あり」と回答するに至った。

 ほどなく日本の外務大臣は日本の利益保護国であるスイスに「関係国の旅行許可証さえ与えるならば日本は毎月、ウラジオストクへ日本船を送る」旨、通報した。
 
 そうした中、44年1月、ICRC駐日代表の「パラさん」ことパラヴィチニ氏が在任のまま逝去した。
 
 しかし、その後も紆余曲折はあったが、44年11月に日本船「白山丸」がナホトカ港に派遣され、アメリカがソ連船で運んで来ていた救恤品の1部2,000トン(74,364個)を運んだ。
 
 この方式を南方にも拡大しようとICRCは努力し、日本側も検討を始めたが、不幸な事件がせっかくの努力を台なしにした。

 すなわち、「白山丸」で運んできた救恤品中、南方向けの物を各占領地に分配する任にあたり、連合国から国際法上の「安導券」( Safty Conduct 安全なる航行の保障)を確認された「阿波丸」(1943年の新造船、11,249t)が、その帰路、撃沈されたのであった。

「阿波丸」はこのように航行の安全を保証され、既定の時間に既定の位置を航行していたにもかかわらず、45年4月1日の深夜に、台湾海峡航行中、無警告のまま、戦艦と見間違えた米潜水艦の魚雷攻撃により撃沈されてしまったのであった。

「阿波丸」には2045人の帰国する日本の民間人(帝国石油、古河鉱業、日本軽金属などの社員)、役人(大東亜省、外務省)などが乗船し、救助されたのは第3パーサーである下田勘太郎ただ1人だった。

 連合軍の重大なる戦争犯罪に他ならない。しかし、これが結局うやむやになったところに、「勝てば官軍」という、「法と正義」が軽視される国際社会の実態があったのである(詳細は会の注を参照)。

 それでいながら東京裁判があたかも「法と正義」であるかのように行なわれ、その「判決」とやらに黙々と従い、あまつさえ、それ以上に卑屈になっている日本と日本人に、国際社会の尊敬の念など起こるわけがないと私は思う。

 昨夜のNHKスペシャル「パール判事の訴えたかったもの」を見て、この人の投げかけた課題を、もっと真摯に受け止めねばと、気持ちを新たにした。



<注>  http://www.mekong.ne.jp/directory/military/awamaru.htmより。
 事件発覚後、日本政府は4月12日直ちにアメリカ政府に対し詳しい情報と責任ある説明を求め、4月26日には、スイス政府を通じて正式に、アメリカ政府に対して抗議を通告。

 5月26日には、日本政府は2回目の抗議を送るとともに、阿波丸に関し、代船を含む損害の賠償を要求する。

 8月10日には、アメリカ政府に対して賠償明細書を通達すると共に、直ちに解決することを要請する。
 
 アメリカ政府は、終戦間近の7月5日になってようやく、「・・・阿波丸は安全保障の取決めの諸条件に十分従っているようにみえるので、それが阿波丸だと確認する責務はアメリカ潜水艦の艦長の側にあった。彼がそれをしなかったという点で、アメリカ政府は阿波丸撃沈の責任を認める」としながらも、賠償問題は戦争中は十分な解決が不可能で、戦争終結まで延期したいと提案。阿波丸の賠償問題は、戦後に持ち越され、日本側はまだ賠償請求の意思を明確に持ち賠償交渉が続けられたが、

 1948年に入り、マッカーサーの方針で賠償請求権放棄を、片山、芦田、吉田内閣が次々に受け入れていき、

 1949年4月の第5回衆議院本会議において、与党議員から阿波丸事件に基づく日本国の請求権放棄に関する決議案が提案され、野党の強い反対があったが、多数を持って決議案は可決。

 同年4月14日、外相資格の吉田茂、連合国軍総司令部(GHQ)の外交局長でアメリカ国務省の日本における政治顧問のウィリアム・シーボルト、認証者マッカーサーの3人によって、「阿波丸請求権の処理のための日本国政府及び米国政府間の協定」(阿波丸協定)が署名調印され、この協定は同日発効した。

 

 
高市大臣が靖国参拝 [2007年08月15日(Wed)]






 きょう8月15日は62回目の終戦記念日。天皇・皇后両陛下ご臨席のもと、東京・千代田区の日本武道館で、政府主催の全国戦没者追悼式が開かれた。

 安倍内閣の閣僚は16人全員が事前に、東京・九段北の靖国神社に参拝しない意向を示しており、終戦記念日に閣僚が大量参拝するようになった昭和30年ごろ以降、参拝閣僚がゼロとなる年はおそらく初めてとみられていた。

 そうした中で、高市早苗沖縄・北方、少子化担当相は15日午後、靖国神社に参拝した。
 
 高市大臣は午前の記者会見で「私は1人の日本人として国会議員として、現在は閣僚だが、折に触れてたった1つの大切な命を国家のためにささげられた方々に感謝の思いをささげたいし、その御霊が安らかであるようお祈りしたいと思っている」と説明した。

 そして、「閣僚が靖国神社に行くことを外交問題にしてしまう勢力があることを残念に思う」と語ったというのはまことに至言。

 小欄ではこれまで、「沖縄には嫌われ、北方領土問題では何もしない」と高市大臣を糾弾することはあっても誉めたことはないが、これで、60点程度の点数をあげて、次の人に渡すことを「ご苦労さん」といってあげることにしたい。
ICRCの代表を銃殺した日本 [2007年08月15日(Wed)]








 アフガニスタンで拉致された韓国人キリスト教徒の方々の安否が気にかかるところ、一昨日、健康を害している二人の女性が釈放され、赤新月(イスラム教国の赤十字機関)社に引き渡されたと報道されている。

 残る人たちの速やかな解放を期待する。

 ところで、第2次世界大戦の時、赤十字国際委員会(ICRC)が困惑したのが、日本側が捕らえた捕虜の取扱いだった。

 1929(昭和4)年の「俘虜ノ待遇ニ関スルジュネーブ条約」に日本は加盟していなかったからだ。

 @日本には捕虜になるものがいないからこの条約は一見双務的だが、実際は片務的である、
 A敵側には捕虜になることを前提とした攻撃が可能である、
 BICRCの代表が立会い人なしに捕虜と面会できるとなれば機密保持が心配、
 Cわが国の俘虜関連法規の見直しが必要となる、
などが、この条約への調印すれども批准せずの原因であった。(詳しくは、拙著『捕虜の文明史』新潮選書)

 だから、いざ開戦となったとき、早速、アメリカなどからICRCを通じ、日本が捕虜をどう扱うか、俘(捕)虜条約をどう考えるか、問い合わせが来た。

 日本は条約を「準用(apply mutatis mutandis)」して俘虜を取り扱うと回答した。

 他方、ICRCは日本への代表任命を準備し、開戦1ヵ月後の1942年1月、日本から受入れ了承の返事が来た。

 日本在住のスイス人医師パラヴィチニが任命された。

 第1次大戦時にもICRCの駐日代表だった人で、「パラさん」の愛称で親しまれつつ活躍した。そんな「パラさん」の場合でさえ、視察許可証や旅行許可証の入手は困難だった。

 視察時間は2時間に限られ、日本の将校の立会いで面会できるのは、日本側の指名した者だけだった。
 
 同様に、ICRCはシンガポール、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、上海、香港、シャム(タイ)、フィリピンといった日本の占領地にも代表の派遣を求めた。

 日本が占領した地区では、ICRCが任命した現地滞在のスイス人(主に商社員)が日本の現地軍当局と交渉し、捕虜や文民抑留者の収容所視察と改善の要求という困難な仕事に無報酬で取り組んだ。

 日本政府は作戦地域でなくなった占領地についてのみ、ごく限定して許可を与えた。
 
 ところが、はなはだ遺憾なことであるが、ボルネオの駐在代表だったマチウス・ヴィッシャーは夫人とともに43年5月13日、日本軍に対する陰謀の罪を理由に、同年12月、処刑されたのであった。

 ベルンの日本大使館は終戦から数日経ってから「ヴィッシャー博士及び同夫人は日本軍に対する陰謀の罪により逮捕され、処刑された」旨、ICRCに通報した。

 終戦記念日、各地ですぐる戦争への反省や追悼の行事が行われているが、日本の捕虜観については、さらに議論がなされていい。

 また、ジュネーブ条約の普及に、戦後の日本政府はほとんど何の努力もしていない。この条約は「普及義務」がついている珍しい条約だというのにである。8月15日は単に「平和」「平和」とお題目だけを唱えていればいい日ではないのだ。 



 
山頂はどっちのもの? [2007年08月15日(Wed)]


   






 乗鞍岳(3026m)の頂上付近に行くと、「岐阜県高山市」と「長野県松本市」の表示板が何箇所かにある。細かい地図を見ると、確かに両県の両市に複雑にまたがっていることがわかる。

 しかし、こんな表示は必要だろうか。

 たぶん、県道かなにかの仕切りのためだろうが、それなら、専門家にわかるようにするだけでいいのではないか。

 私には、うるさい、利己的、煩わしい、みっともない・・・としか思えない。ここまで来て、人間の我欲を示されたようで、少々、がっかりした。

 確か富士山頂は、静岡と山梨で決着がつかないままだとか聞いたことがある。まさか、両県の表示板が出ているようなことはないんでしょうな。
 
単線の新幹線 [2007年08月15日(Wed)]



  これが秋田新幹線「こまち」。雫石駅付近での上り列車。








 ほら、この通り単線なんです。








同じ線路を普通電車と新幹線が走っています。雫石駅構内の表示。








   新幹線も通る線路の踏切です。




 姉の葬儀に参列するため、岩手県雫石町に向った。新幹線で東京駅を発って3時間もしないうちに着く。往時を知る者として、不思議なくらいの感動だ。

 秋田に行くときは何時も飛行機にしているので、これが2度目の盛岡経由による、新幹線「こまち」への乗車である。

 前回はもう10年ほど前、東京都生涯学習審議会の委員として、なんと、「すぐれた生涯学習センター」の例として秋田市に視察に行ったときであるから、車内でも議論ばかりで、ロクに景色も停車駅も気にしていなかった。

 この新幹線、驚くことばかりである。

 第1は、2つの新幹線、つまり東北新幹線と秋田新幹線が丸ごと連結されていることだ。秋田行きの「こまち」は盛岡駅で切り離され、逆送してゆく。

 第2は、雫石に停車すること。人口は19,105人、取り立てて言うべき産業がなく、
安比(あっぴ)のスキー場が多少名を知られている程度。有名な小岩井農場のある、小岩井駅は通過しての雫石停車である。

 もちろん、降りる客も4,5人、なんと駅員は交代制とはいえ、たった一人。

 もしかしてこれって、大野伴睦が岐阜羽島で新幹線を停めた故事にならって、だれか・・・と思い浮かべてみたら、有力な政治家が一人いた。今は民主党の党首だが、当時は自民党の幹事長だった・・・ま・さ・か。

 第3は、踏み切り(写真)のあること。姉の自宅は、雫石駅前の踏切を越えてスグとは知っていたが、「新幹線さまのお通り」で、立体交差にでもなっているかと思いきや、昔ながらにほとんど開きっぱなしの踏切を渡るのだった。

 第4は、この新幹線、田沢湖線という一般の鈍行列車と同じ線を走っているのだ。鈍行のほうも狭軌ではなく広軌の車軸の特別列車である。

 第5は、路線のほとんどが単線なのだ。

 第6は、盛岡と秋田の間の一部で、「3車軌」、つまり、レールが3本になっているということだ。奥羽本線の大曲(ここでもう一度進行方向が変更)と秋田間、車掌に訊いたところ、厳密には、神宮寺駅と峰吉川駅の間で、レールが3本あるところを通るのだそうだ。つまり、奥羽本線の特急や急行、普通列車が走っているところを、新幹線が通り、時間調整をした結果、この区間をそのようにするのがよいということになったようだ。

 それにしても秋田はうまくやった。飛行場は、日本土木学会の表彰を受けたほど立派なものを造り、その上、新幹線も来るようになった。

 正直、盛岡経由というのがいささか遠回りで気に食わなくはないが、そこは我慢しよう。

 日本列島が高速鉄道網と高速道路で覆われて便利になったが、それでもなお、「中央と地方」との格差が広がる一方というのは、人智と政治と行政が不十分だというほかあるまい。
好きな国旗は? [2007年08月15日(Wed)]






 今度は、東京都港区の小学校6年生Sさんからの質問です。
「世界で一番美しい国旗はどこの国旗ですか」。

 これは本当に難しい質問です。

 もちろん世界のどの国の国旗も美しく、みなそれぞれの国民が誇りをもって、自分の国の国旗を掲げています。国旗にはその国の理想、歴史、民族、宗教、文化、政治制度、産業など、さまざまな意味が込められているからです。

 そして、それぞれがその国の国民の連帯や団結の象徴にもなっているのです。

 ニューヨークの国連本部前には加盟国の国旗がずらりと並び、日本にある各国の大使館や総領事館でもかならず国旗を翻しています。Sさんは港区にお住まいですから、近くに大使館がありませんか? 港区は日本で一番、大使館の多いところではないでしょうか。

 そこには必ず、国旗が掲げられていますし、また、大使の自動車にはその国の小さな国旗が立てられています。

 オリンピックやサッカーのワールドカップなど世界的なスポーツ大会では、大きな国旗が掲げられ、小旗が振られ、ワッペンにして胸に張ったり、顔面に描いたりして応援しています。

 国旗が「過度で偏狭なナショナリズム(自分の国だけが立派で他の国はダメだという考え方)」に利用されるのは問題ですが、国旗には、自国に誇りを持ち、他の国にも理解を示すきかっけになるというすばらしい役割もあるのです。

 ですから、私は「日の丸」も好きですが、世界中の国旗すべてを大事にしています。

 国旗はその国とその国民を表わしている象徴として、古くから世界で認められ、掲げられてきたものです。ですから、旗に文字を書いたり、落書きしたりしてはなりません。

 また、国旗を用いる場合には、地面を引き吊ったり、しわしわのままではいけません。

 気をつけなくてはならないのは、世界の国旗がしばしば変更になることです。州が増えた、国が分離独立した、革命や戦争が起こった、政治制度が変わったといったことが多くの国旗変更の原因になります。

 国旗は大切なものです。繰り返しますが、それぞれの国民の誇りです。ですから、お互い国旗を大事にし、大切に取扱いましょう。

 私は近く、自由国民社から『うつくしい世界の国旗練習帳』という本を出しますから、おたのしみに。
鹿も避ける有毒植物 [2007年08月15日(Wed)]


















   上がトリカブト、下2つがコバイケソウ。




 さきに小欄で、
「鹿はコバイケソウとトリカブト以外の草花を食べてしまうので、
雷鳥が食べるものに窮してしまう」ということを書いたところ、
東京・青山の「妙齢の美女」から
「トリカブトは聞いたことがあるがコバイケソウは知らなかった」
とのコメントをいただいた。

 実は私もよく知らないので、
ネットや植物図鑑に出ていること紹介して、
「お茶にしたい」ではなく「お茶を濁したい」。

 それにしても、鹿に限らず、動物や野鳥はどうやって有毒植物を見分けるのだろうか。
少しでも食べると不味いとかクラクラするとかがわかり、そういうことから身の安全、種の保全を図っているのだろうか。毒キノコを食べて倒れた鹿などという話は聞いたこともない。


○△■○△■○△■○△■○△■○△■○△■○△

コバイケイソウ:
高さ50〜100cmで、茎の先に複総状花序をつける。
花は大部分が雄性のため、
果実は頂端の主軸だけにつくことが多い。
高さ1m程で、純白の花を付ける。
花は純白、花径が8mmと小さい。
小型のバイケソウから出た名である。
「立山、室堂平(2450m)から雷鳥沢へ降りるとき、
コバイケソウの原を眺めながら散策できる」と書いている
HPもあるが、
立山に限らず、乗鞍岳、穂高連峰、尾瀬、北上山地
など 日本の中部から北部にかけての
山岳地域の湿性草原に生育して多く見られる多年草で
有毒植物。 日本固有の種。
高山植物として親しまれて
として親しまれている。
白い花が集って犬のシッポのような形がおもしろい

トリカブト:
日本ではとりわけ有名な有毒植物。
先年も沖縄で、これを使った殺人事件があって、
一躍有名になった。

 すなわち、
1987年に石垣島(沖縄県)で起こった保険金殺人事件では、
犯人がテトロドトキシンと併用して殺害したのである。

 テトロドトキシンは遅効性毒であり
これと併用することで打ち消しあう効能は
明代の漢方書で紹介されている。

 まさに、「毒をもって毒を制す」である。

 アルカロイドの一種であるアコニチンが草全体、
特に根に含まれる。

 このため、根を煎じて摂取すると数十分で
死亡するという恐ろしいまでの即効性がある。

山菜のニリンソウやヨモギと間違えて食べて
死亡した例もある。

 花(蜜や花粉)にも毒が含まれ、
蜂蜜が中毒した例がある。

 このため、養蜂家はトリカブトが自生している所では
蜜を採集しないか、トリカブトの開花期を避ける。

 また、アイヌは毒としてトリカブトを用いたと伝えられている。

 ところで、トリカブトの名前の由来であるが、
花が鳥兜・烏帽子(えぼし)に似ているからとも、
鶏の鶏冠(とさか)に似ているからというのが通説。

 また、富士山という名前は、
山麓に多く自生しているトリカブト(附子)から
とする説もあるようだ。
「日の丸」の特徴 [2007年08月15日(Wed)]






 静岡県下の中学1年生・Mくんから、「日の丸」にはどんな特徴があるのかという質問をいただきました。簡単にお答えしましょう。

 「日の丸」に限らず、世界の国旗について質問のある方はどうぞ、お寄せください。お名前は公開しません。

 なお、「日の丸」については、拙著
@「日の丸の履歴書」(文藝春秋社)
A「日の丸を科学する」(自由国民社)
B「うつくしい日の丸練習帳」(同上)

をご参照ください。特に、小中学生の方には、今本屋で売っているBが参考になるはずです。

 ☆ ――――――――― ★

「日の丸(日章旗)」にはいくつかの特徴があります。
まず第1に、赤と白の2色ということです。
旗の色で最も古くから用いられたのはこの2色です。日本では源氏の白い旗、平家の赤い旗がよく知られています。
いまでも世界中の国旗で、赤と白の2色だけという国旗は・・・さてMくん、国連に加盟している192カ国のうち、この2色だけの国旗はいくつあるでしょう。

 2番目の特徴は、太陽を描いた国旗ということです。
これまた世界中の国旗にいろんな太陽が出てきます。

 なかには、同じような円ですが、月というのもありますから気をつけてくださいね。ラオスは白い円で、パラオは黄色い円で満月を表しています。

 3つ目の特徴は、「日の丸」はいつの時代にも日本の国旗、日本を代表し、象徴する旗であるということです。

 1868年の明治維新でも、1945年の敗戦でも、「日の丸」は変わらず、基本的には同じ図柄の「日の丸」が日本の国旗です。

 日本の国旗が、星、縞模様、動植物・・・といったデザインになることはちょっと考えられませんね。

 そのくらい伝統的な日本人の気持ちと「日の丸」が表裏一体になっているということでしょうか。
安倍首相の靖国参拝 [2007年08月15日(Wed)]






 8月10日の毎日新聞によると、安倍晋三首相は15日に靖国神社に参拝するかどうかに関し首相官邸で記者団に「参拝する、しないについては申し上げないことにしている」と改めて明言を避けたのだそうだ。

 まことに結構。こういうことで大騒ぎしてはいけない。参拝するかしないかは、あくまで個人のことであり、「首相は靖国神社の春秋の例大祭を重視している」(首相周辺)なら、そのときで結構である。

 ただ、私は
「敗戦記念日である8月15日の参拝にどんな意味があるのか」とかねて考えてきた。

 それでも、この日が、政治的な意味を持ってきたという経過から言って、それならこの日に「逃げる」ことはすべきではない。正午に武道館での式典に参加するならその前に立ち寄っていい。

 私は、
@行くか行かないかは明言しない、
A行くとしても、小泉さんのように意義を正して仰々しく行くことをしない、
B参拝の時刻を公表しない(国民の一人としてゆく)
できればアッキー(昭恵夫人)と一緒に行く、
C例大祭にも初詣にも行く、
ということをかねて主張してきた。

 小泉さんが今年もきょう参拝に行くというのは、姿勢が一貫していてよい。

 まさか、これに「他国」がとやかく言うほど、「他国」もおろかではあるまい。

 



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