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朝鮮語からの対馬方言 [2007年07月24日(Tue)]







 朝鮮(韓国)語から対馬の言葉になった単語は結構あるようだ。

 全国的には独身男性を表すチョンガ(総角)がそうであることはよく知られているが、そんなに多くはない。しかし、対馬となると地理的、歴史的経緯により、朝鮮語からの借用語が多い。

 たとえば、チング(親旧)は「友人」「仲間」の意味で使用している。ヤンバン(両班)は「金持ち」、「パッチ」は「ズボン」である。

 釜山近郊の倭館には一時、数百人もの対馬の人がいたし、交流は数百年も続いているのであるから、しっかり調べればもっともっとたくさんあるに違いない。

 ごどなたか教示いただければ幸いである。

 ただ、日本語から朝鮮語になった単語は、いやおうなしに数多く存在する。日本による「黒船」で開国し、実質35年ほど日本に吸収されていたわけだから、日本語によって近代化したようなものだ。したがってこれは、やむをえまい。

 文化の移行は、水のように低きに流れるのが一般的である。だから言葉もその原則で移ってゆく。古代、朝鮮人が膨大な量の漢語を日本に伝えてくれたのも同じことだ。

小沢一郎の進退、そして [2007年07月24日(Tue)]





 民主党の小沢一郎党首とは同年齢である。同世代にはかの金正一、横綱・大鵬、王貞治、そして小泉純一郎といった、お歴々がいる。

 いずれも、自らの夢と役割と限界を考え、進退に迷っているのではないかと案じている。

 さて、小沢さんである。

 私はこの参院選できっと勝つだろうと思う。どんな勝ち方になるかはいろいろあろうが、私は勝ってもお辞めになることを強くお勧めする。

 そのほうが、民主党はまとまり、小沢さんは影響力を保持できるのである。そこをよ〜く考えてほしい。

 その場合の後任? 岡田さんしかないでしょうね。

 安倍さん? 気の毒ではある。年金だって、ナントカ水だって、事務所費への不信だって、「しょうがない」だって、いわば自分の直接的な責任ではない。

 任命責任といったところで、そんなこと、どこまで調べることができるのか、と本人や周辺は思っているに違いない。

 しかし、ここもまた退き際かもしれない。退いたら世間は「気の毒だよな。でも、若いからもう一度、チャンスがめぐってくるかもしれないね」となるだろう。

 逆に、中央突破、つまり大幅な内閣改造で、清潔であれば経験不足や能力不足でもかまわないくらいのことをしそうな安倍さんだが、ここは冷静に判断すべきところであり、開票結果だけで即断してはいけない。

 そうか、わが世代でも、一回り若い安倍さんの世代でも、人生、いつでも迷わなくてはいけないということなんだ。まして凡人たるわれ、今夜も焼酎に落とした梅干でも箸でつつきながら、じっと手を見て、わが行く先を悩んでみようかな。
その道のプロよ、来たれ [2007年07月24日(Tue)]





アンゴラの子供たち。写真提供:難民を助ける会








 最近、日本でも「ノーブレス・オブリージ(貴人の担うべき徳義的責務)」という言葉をよく聞く。

 「朝日新聞」(97年9月6日付)の「解説」では「生まれながらの王や王妃にカリスマ性がなくなって、国民はノーブレス・オブリージを背負う本当の貴族の姿をダイアナに見た」と報じている。

ことの当否は別として、「ノーブレス・オブリージ」は、エリートにはそれなりの社会的貢献が期待されているという近代ヨーロッパ社会のマナーないしエチケットといってもいいだろう。

 日本のNGO活動にも、そういう人たちの参加が増えているように思う。他の団体のことは詳しくないので、難民を助ける会を例にとると、事務局の仕事の多くが子育てを終えた女性層に支えられている。

しかも、中には商社員やメーカーの駐在員夫人として欧米、アジア、アフリカに長期間滞在した“帰国主婦”も多い。外国語ができるということよりも、同じような活動を各地でやってきたこと、思いが常に地球大であることが力となり、支えとなっているようだ。

 一方“その道のプロ”がボランティア活動を続けているという例もたくさんある。

中央官庁の現役や定年退職組、さらには弁護士、公認会計士、行政書士、大学教授、軍事アナリスト、評論家、国会議員などとして活躍している“先生”も仲間だ。様々な会合の司会者や日本語スピーチコンテストの審査員がNHKの西村大介ディレクター、NTVの倉林吉男記者(元文化放送アナ)だったり、地雷会議やレセプションの司会者が野村正育、有働由美子アナだったりする。

日本語の習熟や表現を審査するのは、西尾珪子、西原鈴子の両先生。この道の双璧といわれる“大家”である。

 先頃までは元NHK・S放送総局長だったWさんというクラシック音楽の演出部門をずうっとやってきた専門家もいた。

普段はワープロによる文書作成やお礼状書きなどの地味な仕事をせっせとしていたが、ひとたびチャリティ・コンサートともなると、ステージ周りはこの人の独壇場。「ブタカン」が舞台監督であることもWさんに教えてもらった。

出演者からも、ホール側からも「すごいですね、あのおじさん。本職は何をしている人ですか」と訊かれた。

 このWさん、94年3月にはユーゴ通の若いボランティアとともに、旧ユーゴ諸国を訪問し、医療品や医療機械の提供という活動をし、落ち着いた目で状況を観察し、次の活動計画を考えてきてくれた。

 「そう3年前だったか、ユーゴがこんなになる前に特番づくりであそこに行ったことがあるんだよ。もっとも当時はファースト・クラスだったが」と笑う。エコノミー・クラスの割引切符で欧州に向かい、帰りは国内便がめったに飛ばないため、スコピエからベオグラード経由ブダペストまで1,800キロも車を飛ばして、割引切符の使える指定された便に間にあったのだとか。

 「日本のNGOはわれわれだけ。だから、ブダペストでもベオグラードでも大使館に大いに励まされた。責任は大きいぞ。しかし、やりだしたんだから徹底的にやれ。途中で手を抜くなら今のうちに引け」と言い残して、満1年3ヶ月の恒常的ボランティア活動をいったん閉じ家庭裁判所の調停員になった。

当然ながら教えられることがとても多かった。
対馬は日本の領土か? [2007年07月24日(Tue)]





  きれいな表示板です







      一目瞭然。韓国語の発音も「ウドン」です。日本語から入ったものでしょうね。 






    韓国の人も助かるでしょう








    ここで一人たたずむ。否、座り込む。「ドキッ!」かも。




 
 長崎県対馬市ではある。
しかし、

 突然、妙なことを言うようだが、
「対馬は本当に日本の領土か」。

 島には韓国からの観光客がここ数年で急増し、
年4万人以上がやってくる。

 それはそれで、日韓友好、
大いに結構なことだ。だから、
町のちょっとした標識や表示、看板で
ハングルが横行している。

 しかし、トイレの中に韓国語しか書いていない
この写真のようなところに、
もし、あなたが(当然一人で)出くわしたら、
何がしかの緊張を覚えるかもしれない。

 居酒屋で自分以外の客が全部韓国人、
ママさんも怪しげな韓国語で応対している。

 島中で、韓国の国花「ムクゲ(無窮花=ムグンファ)」が
咲いている。

 これが、7月末の対馬の週末である。

「対馬は本当に日本の領土か」、
少々、歴史を紐解いてみよう。
継続は力なり [2007年07月24日(Tue)]









 森進一、黒柳徹子、そして民謡の原田直之のみなさんのようなわが国有数のエンターテイナー、古くは石井好子、ここ数年では中村紘子、堤剛といった世界で活躍する音楽家が無償で活動に参加、ほかにも山形由美(フルート)、天満敦子(バイオリン)といった若手演奏家も協力して下さった。

 森さんの真面目な取組み、黒柳さんのさまざまな提案には多くを学んだ。98年3月、森夫妻は片道3時間の危険な悪路を4DW車で走り、隻脚の地雷廃絶キャンペーンランナーであるクリス・ムーンさんとともに地雷原に立った。

 黒柳さんは時々ファックスで提案を寄せて来る。
 
 原田さんは阪神大震災の時にご夫婦で仮設住宅を5ヵ所もまわり、得意のノドで高齢者や民謡ファンを魅了した。森さんもそうだが、原田さんはいち早くカンボジアを訪問して「じゃがいもスクール」のテープカットなどをした。クリスのチャリティ・マラソンには91年東京国際女子マラソンの覇者・谷川真理さんが、2日間走り通しという伴走をしてくれた。

 対人地雷撤去キャンペーン絵本『地雷ではなく花をください』の絵は、わが国屈指の人気絵本作家・葉祥明さんの、絵の具代も受け取らないボランティア活動である。

 インドシナ問題については、朝日新聞出身の井川一久、読売新聞出身の小倉貞男の両教授(お二人とも難民を助ける会理事)、そして山田寛・読売新聞調査研究本部主任研究員のお世話になる。外務省の各地域担当の専門家にご指導いただくケースも多い。

 ほかにも枚挙に暇がないほど、さまざまな分野の有数の専門家がその道を生かして、ボランティア活動をしてくれる。こうした人たちから、私たちは多くのことを学ぶ。そこにボランティア自身と組織の成長がある。

☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 10年近く前の拙著からここまで引用して、2007年の今ふと、思った。ここの名前のある方々は、その後、私が難民を助ける会の活動から直接的には引退した今でもさまざまな形で、難民を助ける会に協力してくれているということだ。

 「継続は力なり」、会がどれだけ大きな支援を貰っているかわからない。

 そうそう、今夜は谷川真理さんと夕食をご一緒する。谷川さんはいまや難民を助ける会の理事であり、先般、スーダンの難民キャンプにいてこられたばかりだ。報告を謹聴しよう。
ドブロクとの交換 [2007年07月24日(Tue)]



















 戦後の昭和22(1947)年の秋には、
中ノ古丹(なかのこたん)にもソ連の店ができました。

 店は日本人が住んでいた大きな家屋を改造したもので、
日用品雑貨が主でした。

 日本人も自由に出入りできましたが
売買はルーブルでしたので、
働いて稼いだソ連のお金で買い物をしたそうです。

 酒やたばこもありましたが、
ソ連のお酒は火を付けると燃えるほど
アルコール度が強く日本人向きではありませんでした。

 しかし、ソ連兵は平気でそのまま飲んでいました。

 酒の入荷は数が少なく、すぐに売り切れるので、
酒好きのソ連兵は、よく
乾燥タマネギ、乾燥ジャガイモ、パン、バターなどの
食料品を持って、
日本人の家庭で造っていた“どぶろく”と
交換にやってきたといいます。
           (国後島)
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