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座席ベルト [2007年07月03日(Tue)]



















 ここのところ、しばしば飛行機を利用する。昨日は宮古島、那覇、羽田と戻ってきたし、きょうも、松山に向かう。

 かねて不思議に思ってきたのは、その座席ベルトの置き方のこと。

 通常は、最上段のようだ。昨日の那覇〜羽田は中段であった。

 私は下段が一番合理的、すなわち、搭乗するときにお客がどんどん座ってゆけるように思うがいかが?

 美観か、わきに落として困るとかの理由かと思うが、そんな程度なら私は能率という合理主義を採りたい。
蓮の花はポンと咲く? [2007年07月03日(Tue)]



















  韓国水原(スウォン)市の「民俗村」で見た蓮。2006年9月撮影。









蓮の花が開くとき「ポン」と清らかな音を立てるといいます。

しかし、先年、私が見たNHKテレビでは、
そんなことはないと報道していたように覚えています。

それでいながら、私が蓮の写真を載せると、
みなさまから、「ポン」の話が寄せられます。

鳥取県在住の元教師・中田治美氏という方からは
こんなメールをいただきました。

あまりに懐かしく、
また私の好きな「万葉集」にまで触れてくださったので、
そのまま転載させていただきます。

それにしても「ポン」という音は
ほんとうにするのでしょうか?

どなたか正確なことを教えてください。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

蓮の花は真夜中に咲き、
昼間には閉じてしまうのだと思っていました。

祖母に聞くと夜明け前に咲くのだと教えてくれました。

確かめたくて、夜の明けないうちに舟を漕いで
池に出ました。

小学低学年で祖父に舟の漕ぎ方を教えられていた私は
小さな船頭さんでした。

家の前を流れる長柄川に
我が家の舟が繋がれているのを知っていましたから、
ある朝、夜明け前に起きて舟に乗り漕ぎだして川を下り、
湖山池に出て蓮の葉の繁るところで待ちました。
そんな冒険が大好きでした。

一面蓮の林です。
しばらく待つとほのかに夏の夜が明け始めました。
蓮の葉が風吹くままにさわさわと揺れていました。
静かな朝でした。

すると“ポン”と、かすかな音が耳に聞こえました。

花の蕾はゆっくりとひらき、
両手で包み込めないほどの大輪の花が
目の前に開きました。

開花するとき水中から突き上げるようなエネルギーが
必要なのでしょう。そうでなければあの大きな花が
寸時に開くわけがないし、
音がするのは蕾がはじける瞬間なのだと納得して、
一輪だけ蓮の花をいただいて帰った記憶があります。

遠い昔の記憶が甦ったのは貴殿のブログで
美しい蓮の花を観たからです。

ところで、白川静『字通』によると、
「蓮は実、茎は茄、葉は荷、根は藕、華は芙蓉という」
とあります。

蓮はハチスとよみ蜂の巣に似ていることから
つけられた古名といわれています。

『字通』にある通り「蓮」が実をさすのであれば納得できます。

蓮はそれぞれ部分により読み方があったことを知りました。
吹浦さんはよく「万葉集」に触れられますが、そういえば万葉集に、

荷葉(はちすば)を詠む歌と、題詞がありますね。

正しい使い方です。万葉人は知っていたのです。
蓮は実をさし、葉は「荷」の文字を書くことを。
知らないのはこの私だけだった・・・。

      荷葉(はちすば)を詠む歌
   蓮葉はかくこそあるもの  
     意吉麻呂が家にあるものは芋の葉にあるらし
                    (巻16・3826)

万葉集には荷葉に関わる歌が4首あります。

蓮の葉にたまった水玉を詠んだものが2首、
蓮の葉と里芋の葉が似ていることに興味を持った歌が1首、
あとの1首は
新田部親王が「今日勝間田の池をみて蓮の花が今を盛りと
妍をきそっていた」と話されたのを聞き、
勝間田の池には蓮がないことを知っていた婦人が
「そういう新田部親王に鬚がないのと同じ」と戯れて詠んだ1首です。

蓮の花を詠んだ歌はありません。
花は仏と結ばれているからでしょうか。

蓮は渡来した最も古い植物の一種で、
1000年前の種子が今も花が咲くとか、
何とも神秘に満ちた植物であり、魅力があります。

ふるさと蓮の花がまもなく咲くころだろうとおもいながら。
沖縄と若泉敬@ [2007年07月03日(Tue)]



 若泉敬京都産業大学教授(当時)






 末次一郎新樹会代表幹事(当時)





 沖縄の宮古島市を2ヵ月ぶりに訪れた。
晴天に恵まれ、滄海に幻惑されそうになった。

 宿泊したホテルには、
ロビーに100冊程度の本が並んでいたが、
そこに、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋社)が、
観光関係の多い他の本とはいささか異質な感じに
置かれていたことに、
私はすくなからぬ驚きを感じた。

 著者の若泉敬先生には、生前、多いにご指導いただいたし、
特に、わが師・末次一郎と若泉先生は、
沖縄返還問題に取り組むにあたって、
まさにタッグマッチを組んだ盟友であった。

 亡くなって10年を超えたが、
今でも、何人もの研究者が若泉先生について語ってくれと、
しばしば私のところにやってくる。

 そして、その人たちが共通に魅かれるのは
「国士・若泉」であり、
「国士・末次」であり、
二人の実像と沖縄返還交渉の実態に迫りたいということ、
またその評価をきちんとしたいということのようだ。

 私が若泉先生について語るよりも、
ここは末次自身が、
自ら率いた政策研究団体新樹会の機関紙月刊「新樹」に書いた
追悼記を転載して、
みなさまのご理解をえることがより重要かと思い、
数回に分けてご紹介したい。

 なお、若泉先生は、谷内正太郎外務事務次官を
学生時代から自宅に置いて指導した人でもある。

 また、末次の交友関係については、『温故創新』の題で
文藝春秋社から刊行されていることを申し添えたい。

 〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃

崇高にして壮絶な戦死

沖縄問題にのめりこんで

 「沖縄返還にかかわって、佐藤首相の密使として活躍した」として話題になった若泉敬氏が、7月27日(平成8年)午後、福井県鯖江市の自宅で永眠された。がん性腹膜だった由だが、享年66歳の若さだった。深い親交を重ねてきて、ひたすら回復を祈り続けてきただけに、悲しみも大きい。

 悲報を知ったのは北海道の出張先だった。ついに恐れていた日が来たという思いであったが、しかし全身の力が抜ける思いだった。
 北海道での予定があったからというだけでなく、私がすぐにも鯖江に駆けつけようとしなかったのには理由がある。

 何かにつけて頑なに自分流を通してきた若泉氏は、肝臓を病んでいたこともあって2年前には遺書をしたためていた。その中に、没後のことについては、@葬儀、告別式は行わず、A弔問者は一切受け付けず、玄関前で帰って貰う、などがあり、格別親しく交わってきた私にさえ、くどい程に約束を強いてきたからである。私は札幌の宿で毛筆をもって心を込めて彼への弔辞を書き、ファックスするにとどめた。そうすることが、頑固者の彼への礼と信じたからであった。

 若泉氏との出会いは旧く45年余前になる。私はすでに日本健青会を組織して青年運動に汗を流していたが、東大駒場の学生であった彼は、仲間たちと共に、学園を荒す共産分子と必死に闘っていた。ある先輩の紹介で訪ねてくれたのが彼とその仲間たちであった。以来この交友はひとときも切れずに続いてきた。

 東大を卒えて自ら進んで防衛研修所に入った時も、ロンドン大学に留学した時も、やがて京都産業大学の創立に参加して教授となり、さらに東京に大学付属の世界問題研究所を設立した時にも、いつも相談に与からせてもらった。

 彼は2年前に沖縄返還交渉の裏の歴史を綴った『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)という大著を世に出したが、そもそも彼に沖縄問題を結びつけたのは私だった。私が既に沖縄返還運動に取り組み、頻繁に沖縄を往来していたことを知っていた彼が、国際政治の専門家として基地の島沖縄に関心を持ちはじめたからであった。これをきっかけに彼は沖縄問題にのめり込んだが、逆に私が返還交渉のためにたびたび渡米するようになった時には、彼がその豊かなアメリカの人脈を辿って紹介してくれるなど、便宜を図ってくれた。そのおかげで、私は存分に飛び廻ることができた。

 若い時から何事によらず思いつめる若泉氏は、神経を細やかに磨いて精進につとめた。天才的なひらめきというより、自分にきびしくコツコツと努力をつみ上げる人であったが、念頭には常にこの国の命運のことがあるという、正に国士であった。

 したがって沖縄についても訪れるたびに沖縄の歴史に踏み込み、さらに大戦末期の沖縄戦と、そのために斃れていった沖縄の人々の魂を自らのものとして受け止めるまで、のめり込んでいた。

 彼が肝臓障害を訴えたのは20年も前のことであったろうが、恐らく沖縄問題で思いつめて取り組んだ心労と無関係ではあるまい。彼のそうした姿から多くのことを教えられたが、今その1つひとつを反芻しながら感慨誠に深いものがある。    (つづく)
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