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結婚の月?戦争の月? [2007年06月21日(Thu)]





   スターリングラードの攻防戦。「ウィキペディア」より。




明日6月22日は、夏至。

先日の小欄で日本各地の日の出日の入りについて書いたので、
それは省略するとして、
この6月は結婚の月? それとも戦争の月?

 結婚はいつでもいいが、6月下旬は戦争の月なのだ。
 そこで戦争に関する出来事が連日のようにあったことに
触れておきたい。

まずきょう21日は
1940年、第2次世界大戦で英軍がダンケルクから撤退した日。
これでほぼ欧州全体が
ドイツを中心とする枢軸国軍の支配するところとなった。

明日22日は1941年に独ソ戦が始まった日。

そして23日は、
1945年沖縄で日本軍が組織的抵抗を終えた日。
11万の将兵が亡くなり、
民間人の死者も10万に及んだ。沖縄慰霊の日。

また1757年には、クライヴ率いる英軍が、
インドのプラッシーで仏軍を撃破し、
インドの支配を大きく進めた日。

24日は、
赤十字の発祥につながる
ソルフェリーノの戦い(イタリア統一戦争最大の激戦)が
あった日。

1859年のこの日だけで、
墺仏伊(サルディニア)の計4万人もの将兵が死傷した。
戦場となった緩やかな丘にその遺骨で創建した教会が建っている。

古い例でいうなら、
大海人皇子(後の天武天皇)が東国に向けて吉野を脱出、
「壬申の乱」がこの時に始まった。672年のこと。

また、17世紀の英国、
チャールズ1世率いる王党軍を新教徒の軍が破り、
清教徒革命を決定付けた(1645年)。

25日。
1950年のこの日早暁、
北朝鮮軍が38度線を突破、朝鮮戦争が始まった。

また、インカ帝国を滅ぼしたピサロが、
協力者アルマグロに殺されたのは1541年の6月26日。

1905年の6月27日には、
ウクライナのオデッサ軍港で、
ロシアの戦艦ポチョムキン号の水兵が反乱を起こした。
また、1950年のこの日、
トルーマン米大統領が朝鮮戦争への米軍出動を決めた。

6月28日といえば、ボスニア事件の日。
1914年のこの日、
サラエボ(現在はボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で、
墺の皇太子フェルディナンド殿下とその妃殿下ソフィが、
セルビアの青年プリンチプによって暗殺された。
これが第1次世界大戦の発端になったのは
教科書でおなじみ。教訓がたくさんある事件だ。

この日はまた、
独ソ戦の帰趨を決めた
スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)戦の開始された日。
この後2月22日まで戦闘が続き、ドイツ軍が敗北した。

この戦いは、日露戦争の奉天会戦、
第一次世界大戦のヴェルダンの戦いなどを上回る
史上最大の野戦であり市街戦であり、
動員兵力、死者、捕虜、激闘の展開、経済的損失を
もたらした戦いであった。

まだまだ失念しているものがたくさんあるような気がしている。
ご教示いただきたい。
 
 なぜ、6月に戦争が多かったかについては
いろいろな見方があろうが、
私は、昔はこの時期にようやく戦争の準備がそろい、
かつこの時期からなら冬までに戦争を終えることができると、
確信したからではないかと思っているが、
皆様のご意見はいかがだろうか。

 もうすぐ7月、
せめてこの最後の6月の平和を祈ろう。
多喜二と司馬遼太郎 [2007年06月21日(Thu)]



  国後水道から択捉島を臨むスケッチは、石田良介画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 小林多喜二の『蟹工船』の中で、事実関係の上でおかしいと感じたのが、以下のところである。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 留萌の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。・・・納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出てきて、そして又それが細かく、せわしくなった。・・・風がマストに当ると不吉に鳴った。・・・宗谷海峡に入ったときは、三千頓に近いこの船が、シャックリにでも取り付かれたように、ギク、シャクし出した。・・・波のしぶきで曇った円るい舷窓から、ひょいひょいと、樺太の、雪のある山並の硬い線が見えた。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 郷里の大先輩にたてつくようで悪いが、「多喜二さんよ、これはなんぼなんでも無茶だべさ。見えるワゲ、ねぇべさ」。「雨降ってで樺太の、雪のある山並の硬い線が見えるわげネェベサ。あだ、行(え)ったごとねしな。そえだばしかだねども、ヘバ、やぱし、もっと調べねばやじゃがね(いけないですよ)」。

 話は変わるが、司馬遼太郎という人がすごいと思うのは、1992年6月、第1回目の「ビザなし」訪問で国後海峡をオホーツク海で出たあたりでのこと。『菜の花の沖』には、高田屋嘉兵衛がこのあたりを通過する様子を具体的に詳しく描写している。私が行ったのが第1回目の訪問団なのだからよくわかるが、それ以前に司馬さんは北方領土には足を踏み入れていない。

 それなのに、まるで同じブリッジに立ってでもいるかのようにリアルに描写しているのだ。

 司馬さんとは私が国際赤十字駐在代表としてベトナムにいたころ、数日間のうちに、何度もサイゴン(現ホーチミン)でお目にかかり、取材にもそれなりのご協力をしたことがある。司馬さんは元新聞記者というだけあり、地を這うような探求ぶりであった。帰国後『人間の集団について』という作品をものしておられる。

 私はこれだけのことでなにも多喜二を蔑もうとか足をひっぱろうとしているわけではない。今朝も、通勤電車の中で、「いい歳をして堂々と」マンガを読んできた。

 大正から昭和の、日本の資本主義の急成長にともなう数々の苦難の歴史を、多喜二は『蟹工船』をはじめとするいくつかの作品でよく、書き残してくれている。

 8月の北方領土行きでは、『菜の花の沖』を持参していこう。そして、また多喜二が描いた世界にも思いを馳せてみることにしたい。『蟹工船』の“現場”は、千島列島の最北端ではあるが・・・。



協力隊とNGO [2007年06月21日(Thu)]





 カンボジアで幼児教育にあたる協力隊員。協力隊のHPから。



 青年海外協力隊が発足したのは、
東京オリンピックの翌年、1965(昭和40)年のことである。

ラオス、カンボジア、マレーシア、
フィリピン、ケニア、タンザニアへの派遣から始まった。

100%の政府事業であり、NGOとは違う。
隊員は「外交旅券」で任国に向かう。

日本では、これはアメリカの平和部隊(ピースコー)を真似したものと
誤解するムキがあるが、それは正しくない。

むしろ日本のほうが早くから検討していたくらいで、
調査を進めているうちに、ケネディ大統領が手際よく先行し、
それがまた日本の協力隊創設を促進したと考えるべきだ。

 わが師・末次一郎はその提案者の一人であり、
1959(昭和34)年に、
そのための調査にアフリカ諸国を歴訪している。

ちなみに、同行したのは
小池百合子現内閣補佐官のご尊父であり、
最後の訪問地カイロが気に入って、
後にそこに日本食堂を開設したのが、
同補佐官の最終学歴「カイロ大学卒業」につながっている。

「戦後の日本を復興し、世界の正しい評価を受けるには、
未来を担う青年の発奮と
国際的な視野の拡大がなければならない」、
先人たちはそのように考えて、協力隊を発想した。

だから協力隊の原点はあくまで
こうした考えに基づく青年運動なのである。

社団法人協力隊を育てる会の発想も同様だ。
だから、育てる会の役員には、
青年運動や青年が主体になっているNGOの関係者が
多く入っているのである。

現在、私は参与としてかかわってはいるが、
この応援団が1975年に発足して以来、
30年間、理事や常任理事、広報委員長などを務めていた。

協力隊自身、
あくまでそうした青年運動の精神を継承してゆくべきであって、
まちがえても、
「官僚主義で塗り固められた国策推敲の手足」となってはならない。
ま、政府にも親団体にも、
そして何よりも青年自身に、その心配もなかろうが・・・。

昨今、国際協力の現場では多くのNGOが
文字通り、懸命になって活動している。

協力隊では
教育、管理、スポーツ、日本語といった職種が多くなっているのに対し、
NGOは、より危険な地域に入って行き、
直接的に、人の命に関わり、生活を支え、
その地域づくりに参画している例が多い。

しかし、協力隊は戦乱や混乱の時期を過ぎてからの
本格的な人づくり、国づくりの基礎構築に役立っている例が多い。

相互の人材交流も盛んに行われている。

双方あいまって、
日本人が古来持っている善意を世界に示していってほしいと
願っている。
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