六本木男声合唱団の熱演 [2007年06月01日(Fri)]
露木茂(バリトン)らの名司会ぶりもよかった。まだ演奏前なので、出演者も舞台の上から撮影したりしていたが、私がこの写真を座席から撮した瞬間、係りの女性が飛んできて、叱られてしまった。ごめんね。「六本木男声合唱団」、略して「六男(ロクダン)」の、 「フランス・モナコ凱旋コンサート」で、 昨晩は大いに楽しんだ。
題して「ダイエットにロクダンを!?」。 なんと オペラシティ・コンサートホールでの公演だから、 スゴイ!
8年前、20人ではじめた「旦那芸」がいまや、 「4月28日にパリ、5月3日、5日にモナコ」で、 通算3回目の欧州公演というのだから、ホントにすごい。 「その熱が冷めぬうちに、 覚えた歌詞を忘れぬうちに」と 柄に似合わずプログラムに謙虚に書いてあるが、 凱旋公演なのは確か。
かの地では大公以下が スタンディング・オベーションをしたというのだから、 少なくとも国連でのモナコの一票は確実にしたのであろう。
「ダイエットにどうしていいか」って? 人間は飯が食えなくなると、痩せると、 「その心」を読むほかあるまい。
いやいや熱演熱演。 三枝成彰さんの「レクイエム」(リブレット:曽野綾子)、 「天涯」(作詞:島田雅彦)を計約2時間、 大汗をかいて熱唱するオジサマ(最高齢者は 6月3日に88歳になるのだとか)たちの姿には ひたすら敬意を表したい。
それにしてもロクダンは上手くなった。
2月6日に東京カテドラルで聴いた「天涯」は、 教会堂独特の響きで、 私の耳はいささか動揺したのか、 「う〜ん」だったが、 今回はさすが「凱旋公演」、 2ランクくらい上がっていたような錯覚、 否、気がする。
支えるメンバーもいい。すばらしかった。 大友直人指揮の東京フィルハーモニー交響楽団は、 トロンボーン4本、チューバ1本、コントラバス9本・・・ というだけで、いかに大音響を奏でてくれるたか、 ご想像いただけるかと思う。
そして「レクイエム」ではソプラノが中丸三千絵、 テノールが樋口達哉のご両人、 「天涯」では12歳の小澤賢哲くんが舞台の最前列で それぞれすばらしい美声を響かせてくれた。
メンバーに友人・知人がたくさんいる。 毎年、私となんどかいっしょに歌う 河合弘之弁護士(トップテナー)からは、 なんと、畏れ多くも、2階最前列の席をいただいた。 そこは、難民を助ける会が チャリティコンサートを何度か開催したとき、いつも 皇后様のおかけになられる席だった。 熱演ぶりがひときわよくわかる席で、「感動」も一入だった。
出演者の中には、前日も日本国際フォーラムの評議員会でお目にかかった 近衞忠W日本赤十字社社長(バス)や橋本宏元オーストリア大使(バリトン)、 日台次世代対話で基調報告をしてくれた林芳正内閣府副大臣(バリトン)、 長年の友人である加藤周二ビッグカメラ取締役(トップテナー)、 中博クビド代表取締役(同)など 親しい人たちも数人ステージで奮闘していた。
そして多年お世話になっている羽田孜元首相、 鳩山由紀夫民主党幹事長はメンバーではあるが 「公務多忙のため」出演はしなかった。 深夜まで断続的に国会が続き足止めだった。 そういえば、 バリトンで歌っていた朝香誠彦氏は 世が世ならば、先日、小欄で書いた朝香の宮様。 チェロが本職。
元皇族としては初めて東京芸大(三枝さんの1期後輩)を 出られた人なのだそうだ。これは初耳だった。
かねて私に入団するよう、 熱心に勧めてくれる人もいるが、 「昨夜の演奏があまりに高レベルなので」、 怖気づいた私は当分、返事をためらいそうだ。
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Posted by
吹浦 忠正
at 22:21 |
音楽 |
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虎ノ門フォーラムの写真です [2007年06月01日(Fri)]
木村汎教授(向かって右)と袴田茂樹教授 5月31日(水)2時から、 ユーラシア21研究所のある 海洋船舶ビル(東京・虎ノ門)10階大会議室で、 第1回虎ノ門フォーラムが開催されました。
テーマは、「プーチン・ロシアと日本の対応」。 木村汎教授が基調講演を行い、 袴田茂樹教授がコメンテータを務めました。 私は、主催者としての開会挨拶と司会をしました。
昨日は 技術的な都合で写真を掲載できませんでしたので、 ここに掲載いたします。
次回は、6月27日。 十市勉(といちつとむ)日本エネルギー経済研究所長を講師に、 「ロシアのエネルギー政策」についてです。
どうぞご出席ください。
少なくともこの回までは入場無料です。
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公開研究会の時間帯 [2007年06月01日(Fri)]
東京財団に在籍していたときは、虎ノ門DOJO(道場)という講演会を毎週行なった。その95%は私が司会をし、私の友人・知人にムリを言って、薄謝で講師になってもらった。
昼休みの時間帯を利用してというのが、霞ヶ関の関係者に便利だとか、女性が来易い、毎週残業というのでは担当者に過酷だとか、理由はそれなりにあったが、最後までこの時間帯の設定には苦慮し続けてきた。
今回、昨日から始めた、ユーラシア21研究所の虎ノ門フォーラムは一回目こそ、14〜16時ということでやってみたが、これが超満員170人もがご参加くださった。
そこでアンケートをとってみた。しかし、昨日こられた方はその時間帯でもいいというに決まっているようなもので、アンケートをとることが出来ない方からの返事がほしい。
今、迷っているのは夕方の時間帯、18時〜20時でいいのではないかということだ。
あなたのお考えを聞かせてほしい。メールは、fukiura@eri-21.or.jpへ。
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日露戦争と捕虜(32) [2007年06月01日(Fri)]
 日清戦争でも大不祥事が しかし、西南戦争(1877)でも 決して捕虜を厚遇ばかりはしなかったし、 日露戦争の10年前に起こった日清戦争(1894〜95)で 日本軍は、後述する旅順虐殺事件を起こし、 北清事変(義和団事件 1899〜1901年)では 師団長ぐるみで馬蹄銀私掠(しりゃく)事件という 大掠奪をしでかしてしまった。
そして、40年後の第二次世界大戦では 特に第一線で数多くの捕虜取扱い上の問題を露呈した。
はたして日露戦争のときだけは ひたすら優等生だったのだろうか。
私はかねてこのことに疑問を感じていたので、 両教授が明らかにした悲劇的な事実を前に、 お二人のご尽力に最大限の敬意を払いつつ、 虐殺されたロシア人捕虜たちの霊に瞑目し、 合掌するほかなかった。
すなわち、日清戦争で 大山巌(1842〜1916、日露戦争では満州派遣軍総司令官) 率いる第2軍は 1894(明治27)年11月21日、旅順口を占領したが、 そこで大事件を起こしたのである。
同28日付の米紙「The New York World」は 「日本軍が旅順口占領後4日間で殺戮したのは約6万人、 生き残った清国人はわずかに36人…」と報じたのをはじめ、 列国の観戦武官や各国記者が厳しくこれを糾弾した。
条約改正をして文明国の仲間入りを目指していた日本にとって これは致命的とも言える悪評でありこれが、 たちまちのうちに世界に広まった。
これについて、当時、国際法の泰斗であり、 軍に同行した有賀長雄(1860〜1921)は 『日清戦争国際法論』で次のように記している。
日清戦後の、 いわば「殺した側」からの記述であってなお、 この酷さである。
天后宮と称する寺まで道の両側に民屋連列せり。 而してその戸外及戸内にあるものは屍体ならざるなく、 特に横路の如きは累積する屍体を踏み越ゆるに非ざれば通過し難かりき。 天后宮より折れて進むと…船隖(う)の入口あり。 船隖も前は広場なり。
此の広場に沿ひて東西に走る長き街あり。 又此の街と直角を為せる三筋の街あり之を東街、中街、西街と云ふ。 此等の諸街も皆屍体を以て満たされたり。 市街に在りし屍体の総数は無慮二千にして其の中五百は非戦闘員なり
有賀は欧米からの批判について、 a.戦闘員と非戦闘員を区別なく襲撃したこと、 b.戦闘力を失った敵の兵士を殺戮したこと、 c.民家から財貨を掠奪したこと が中心である旨、記述している。
これよりさき、事態の重大さに 参謀総長有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王明治天皇の弟) は現地の大山巌総司令官に秘密報告を求めた。
大山は報告の中で、 aについては、 @市内には軍と関わる職工が多く、 また、各戸に武器・弾薬が残されていたこと、 A敗兵が民家から発砲していたこと、 B日本軍の突入が薄暮時であったからある程度やむをえなかった とした。
さらに、bの非難については、 確かに捕虜で殺戮にあった者がいたが、 それは「頑愚不覚、或は抵抗し或は逃亡等を計りたる徒を懲戒する為、万止むを得ざるに出たのみ」とし、 cについては、徴用あれど掠奪なし、 1、 2の不心得者については処分した、 と回答している。
また、世間では、この虐殺事件直前の18日、 土城子付近で30余名の日本兵が 戦闘力を失って倒れているところを清国兵が斬首し、 臓腑を切り取り土石を填めたことや、 日本兵の首級3個が 旅順の入り口にある柳の木に掛けてあったことがもともとの原因であり、 文明国といわれている国々でも同じようなことを、 特に半開人民や野蛮な種族にやっているではないか、 といった言い訳がなされていた。
さすがに有賀は、 「然れども之を以て戦律違反を正当とする 十分の理由とすべからざるなり」と述べて aの批判には、市街戦までやって 旅順口に突入してゆく必要があったのかとし、 bについては、 逃亡を企てたり抵抗したりするなどについても 「陸軍治罪法」第25条の 「俘虜降人の犯罪は軍法会議に於手之を審判す」があるから、 すぐ殺害するようなことをしてはならない、とした。
同法の規定は、 正式に批准を経て発効した条約ではないとはいえ、 当時の慣習法的戦時規範をまとめた 「ブラッセル宣言(1874)」の第28条、 国際法学会の 「オクスフォード・マニュアル(提要、1880)」第68条の 規定に基づくものであり、尊重すべきものであった。
これが日露戦争からわずか10年前の、 日本軍の実態であり、 日露戦争ではその大山が満州派遣軍総司令官、 すなわち、全派遣軍の指揮者になっていたのである。
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:11 |
捕虜 |
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