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日露戦争と捕虜(29) [2007年05月29日(火)]









中学生らが清掃

 松山のロシア人墓地は
松山市みゆき御幸一丁目小高い丘の中腹、
松山大学御幸キャンパス正門を出たすぐ脇にある。

 1960年、松山市が妙見山頂から
直線距離にして100bほど移転したものだ。

 6列97基、北西の方向を向いて並んでいる。

 帰国を目前にした1905年9月に、
唯一人、将校で亡くなったワシリー・ボイスマン大佐の墓が
ひときわ大きい。

 ロシア正教の複十字を載せた墓標と
「日露友好のかけ橋」と彫られた石の台に載る
同大佐の胸像から成る。

 同大佐の遺骨は持ち帰られたが、
他の下士卒の遺骨も移転の際、
それらしきものが多少出てきたのを一まとめにして
合葬碑の下に埋葬したと伝えられている。

 世界的にも捕虜処遇の範とされた松山での収容であった。
そして、その伝統は今に続いている。

 墓地の管理にあたっている松山保健所生活衛生課によるとと、
清掃は地元の市立かつやま勝山中学校生徒会により
毎月第2土曜日、20年以上も続いている。
老人クラブも月1回、婦人会は適宜、
献花を続けているということだ。

「でもね、やはり捕虜は捕虜。敵国で生を閉じる無念さは、
筆舌に尽くし難いものがあったでしょう。だから、
墓地は大切に守ってあげたいんです」
とロシア人墓地保存会長の京口和雄さん(71)は
語る(読売新聞 2004年8月28日付)。

 この記事を書いた矢沢高太郎記者は
「ロシア本国へも兵士たちの遺族の確認作業を働きかけている。
時代を越えて流れる伊予松山の人情の精華と
呼ぶべきものだろう」と結んでいる。

 保存会は同年11月2日には墓地の100年祭を挙行した。
旧朝香宮邸の花 [2007年05月29日(火)]
















 我が家からの散歩コースの1つに、
旧朝香宮邸、
現在の都立庭園美術館があると、
先日書いた。

 邸内での美術品の展覧会もさることながら、
庭園美術館というくらいなので、
庭もなかなかのもの。

 日本庭園と西洋庭園が並んでいる。

 ここまで書いて思い出したが、
都内の大使館で一番きれいなところは、
私の知る限り、
イタリア大使の公邸であろう。

 三田の慶応義塾大学の近くにある。

 赤穂浪士たちは討ち入り後、
4つの大名家に預けられた。

 その中で、不破数衛門、堀部安兵衛、
大石主税(大石内蔵助の嫡男)ら10人は
松平隠岐守の屋敷へ預けられた。

 元禄16年(1703年)2月4日、
幕府より、沙汰を待っていた赤穂浪士へ切腹が命じられ、
10人はそこで、切腹して果てた。

 その松平邸が今のイタリア大使公邸のところであり、
その日本庭園には小高い山があって、
10人名を刻んだ追悼碑が建っている。

 庭が基本的に当時のままなのかそうかは、
私にはわからない。

 そして、このイタリア大使公邸の
広大な庭の半分は西洋式庭園なのである。

 それはともかく、旧朝香宮邸も、
それほど完璧な美しさではないが、
様式は似ている。

 せめてそこで撮した花でもご紹介したい。