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日本一登山至難の山? [2007年05月28日(月)]



   
 孀婦(そうふ)岩。日本で一番登山が難しい山?






 



「孀婦」(そうふ。未亡人の意)岩は、『旧約聖書』の言葉からから意訳した命名。だれがこんな難しい言葉を付けたのか、探求しているがまだわからない。

 1788年、英国人ジョン・ミアーズにより発見されたというのが定説。

 ミアーズは、突出した岩の様子から
「超自然的な力が、突然この岩の形を今の姿に変えた」と信じ、
『旧約聖書』の中にある「ロトの妻(Lot's Wife)」と命名したという。

 場所は、鳥島のさらに南約76km。東西84m、南北56m、標高99m、の黒い孤立した突岩というから、太平洋の中に突っ立った巨大な柱のようなもの思えばいい。

 面積は0.01 平方キロと統計にはあるが、仮に直径35mニ円形だとすれば海面付近の切り口は4平方キロメートルを越える。

 カルデラ式海底火山の外輪山にあたる。孀婦岩の南西2.6km、水深240mのところには火口がある。1975年に孀婦岩の北約500mの海域に緑色の変色水の発生が観測された。

 直立した形状のために上陸することは至難。しかし、そうなると登りたい人が出てくるのは世の常。ロッククライミングの方式で登頂した人もいる。もっとも中には転落事故もあったようだ。

「日本で一番登山が難しい山」という説もある。

 八丈支庁の管轄下にあるが、何れの町や村にも属していない。

 周辺は好漁場。スキューバダイビングの聖地とも言われている。


日本のスミス島 [2007年05月28日(月)]











 八重洲にあるヤン=ヨーステンの顕彰レリーフ









  ラサ島、マーカス島、スミス島、ベヨネーズ列岩・・・日本の領土でありながら、外国風の名前が付いている場所である。

 そういえば、かの八重洲(東京駅八重洲口や八重洲通りの八重洲)もそうだ。

 あれはヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteijn、1556?〜1623)が徳川家康からあのあたりに住まいを与えられていたからだ。

 ヤン=ヨーステンは英国人航海長ウィリアム・アダムス (三浦按針)とともにオランダ船リーフデ号に乗り込み、英国では東インド会社の設立の年、日本では関が原の戦いのあった年として知られる1600年に豊後(今の大分県)に漂着したオランダの航海士で貿易商。日本名は耶楊子。

 家康に信任され、当時の江戸の丸の内(現在の千代田区と中央区の一部)に邸を貰い、日本人と結婚した。

 その後、朱印船貿易で活躍、帰国を図ってオランダ領バタヴィア(現インドネシア)に渡ったが果たせず、日本へ帰還中、乗船がインドシナ半島沖で座礁し、溺死したというドラマティックな人生を送った人。

 ラサ島は沖縄県南大東島、マーカス島は東京都南鳥島、東京都に所属するスミス島は須美寿島と書く。

 1851年3月26日、英国の軍艦サラワルソン号(スティック艦長)が視認、その直後に別の英国軍艦ヘーバー号(スミス艦長)が確認して報告、その艦長名に由来する。

 北となりのベヨネーズ列岩も同じく東京都に属する。もっとも須美寿島は東京都に属してはいるが、何れの町村に属しているかは未定である。このため、都出先機関である八丈支庁が直接管轄している。警察署の管内で言うと、八丈島警察署が、同島を始め、北から八丈小島、青ヶ島、ベヨネイズ列岩、須美寿島、鳥島、孀婦(そうふ)岩を管轄している。そのうち、定住者がいるのは、八丈島と青ヶ島のみ。

 青ヶ島は、八丈島から70キロ余南に位置するわが国でもっとも人口の少ない地方自治体。2007年4月1日現在、人口は197人(男118人、女79人。113世帯)。6人からなる村議会もある。

 須美寿島は、その青ヶ島のさらに南約110km、面積は0.03ku。ベヨネーズ列岩と鳥島の中間に位置する。

 本島は南北に長いカンラン石玄武岩でできており、周辺に岩礁がいくつかある。航路上の重要な位置にあるといっていいが、海底が複雑になっており漁船にとって座礁の危険も言われている。

 島の北側には2万年以上前にできたとみられる直径10kmの海中カルデラがあり、須美寿島は、そのカルデラの南側のてっぺんである。

 1990年代以降島の部分的な崩壊が続き、島の形状がかなり変化した。周辺は大物釣りにとっての好漁場であるため、時おり腕自慢のプロ級の釣り人が岩場に張り付いたりしている。

 1870(明治3)年、 須美寿島の北北東約9kmで海底噴火が発生し、標高13m、直径33mの須美寿島の新島が出現し、1974(昭和49)年)から、約3年間、海底火山による海水の変色が見られた。

 1991(平成3)年 11月には島の山頂付近の北側が大きく崩壊しているという通報が、付近を航行していた漁船からの通報で判明した。その後も地震で一部の洞窟で崩壊があったという情報もある。今でも多少の返照が時折、見られるという。


旧宮家とは [2007年05月28日(月)]







 1995(平成7)年1月15日付読売新聞が、
久邇宮家の男子と東久邇宮家の男子について
皇籍復活の候補であると具体的に名前を報道した。

 このため、当時の宮内庁で旧皇族の復活について
かなり具体的に検討しているのではないかと
噂になったことがある。

 宮家はいうならば天皇のご親戚であり、、
スポーツでいうなら「控え選手」のようなもの。
 
 ご承知のように、
徳川時代にあっては、朝廷の財政基盤は非常に弱く、
多くの宮家を維持していくことはかなわなかった。
そうした事情から、元禄時代までは、
伏見、桂、有栖川の3宮家しかなかった。

 1718年、ようやく、時の東山天皇の親王を立てて
新しく閑院宮ができた。

 これには幕府は皇室との関係を強める布石を打つべしという
新井白石の提言があったとされている。

 明治時代になって、宮家は急増する。
これは、皇族を天皇制の主要な柱にし、
安定的な皇室制度を維持しようとしたからである。

 このため、男子の多かった伏見宮邦家親王から、
山階、聖御院、久邇、小松、華頂、北白川、東伏見の
各宮家が創設された。

 これに加えて、
久邇宮家から賀陽、朝香、東久邇の3宮家が、
さらに、北白川宮家から竹田宮家がそれぞれ創設された。

 また、
伏見宮邦家親王の弟である守脩親王が梨本宮家を創設した。

 しかし、
第2次世界大戦後の1947(昭和22)年10月、
東久邇、賀陽両宮家のように
自ら皇族たることを潔しとしないケースもあったが、
結局は、GHQの指令により、
昭和天皇の弟宮以外の
すべての皇族が皇籍離脱を余儀なくさせられた。
 
 ここで現在の旧皇族をざっと見てみよう。
山階、梨本、閑院、東伏見の4宮家は
相続する人を欠いており、
北白川、伏見の両宮家には男子がなく、
「男系男子」ということで絞れば、
皇族に復帰して皇位継承者としての候補となりうる家系は
賀陽,久邇,朝香,東久邇,竹田の5宮家に限られることになる。

 この場合、
@旧皇族中、現在の皇室と近い宮家のみを皇室に復帰させる、
A旧皇族の宮家を全て皇室に復帰させる、
B女子皇族と婚姻した旧皇族のみを皇室に復帰させる、
C旧皇室典範時代に臣籍降下した皇族の子孫も含める、
D女子でかつて皇族だった人の復帰も認める、
といった案が、可能性として検討しうると思われる。 

 ところで、
前回、安倍晋太郎外相(当時)との話で出てきた
賀陽宮(かやのみや)は、
明治の中ごろに
久邇宮朝彦親王の第2王子邦憲(くにのり)王に
宮号が下賜され、
新しく創設した宮家である。
 
 2代目の恒憲(つねのり)王は、邦憲王の第1王子。
そして、恒憲王の第2王子が治憲大使なのである。

 恒憲王は、功績離脱の時、
自ら千代田区役所に赴いて手続きをしたということでも、
当時、大いに話題になった。
最初に立てた「日の丸」 [2007年05月28日(月)]





 1862年に宮本元道が描いた「父島二見港図」。左側の旭山山頂に「日の丸」が描かれている。








 セーボリーが率いてハワイ方面からやってきた人々が最初に定住した父島・扇浦から大村方面を臨む。







 水野らの一行は、父島だけではなく、母島など周辺の島々も巡察した。これは、野営した兄島海岸の朝の様子を描いたもの。






 父島・八ツ瀬川の時雨の滝の図




 1882(文久元)年1月3日(西暦)、
外国奉行の水野忠徳をトップに、小笠原回収団の一行が、
咸臨丸で品川を発った。

 日本人が小笠原に立った確かな記録は、
1670(寛文10)年に、
ミカン船が漂着して以来であるから、
実に192年ぶりというものであった。

 もちろん、政府(幕府)の公式な派遣団などというのは、
開闢以来のものである。外国人が定住し、
ペリーが9年前に立ち寄って、
いろいろ協定まで結ぶなどしたことを知った、
幕府は、懸命に小笠原を回収しようとしたのであった。

 父島の旭山に日章旗を掲げて、
ここがわが国の領土であることを鮮明にした。
幕末期の「日の丸」については別に触れる。

 一行の中には、「通弁」としての中浜万次郎もいたし、
「絵図方出役」の宮本元道もいた。

 ここに紹介するのは、
その宮本が描いた「小笠原真景図」(国立国会図書館所蔵)の中から。
対人地雷の歴史 A [2007年05月28日(月)]





 火薬は7世紀に中国(唐)で考案されました。
硝石、硫黄、木炭を混合した黒色火薬は、
紙、印刷術、羅針盤とともに
中国人の四大発明の一つとされている。
発明したのは、孫思ばく(そん・しばく)。

 地雷もまた中国が最初のようです。
明滅直前の1637年に
宋応星が表した『天工開物』には、
「地中に埋め導火線を使って爆発させる武器」とあります。

 わが国の先人が火薬を用いた兵器に遭遇したのは、
よく知られているように1274年、
元の軍勢が博多湾に上陸した際の震天雷が初めてです。

 この時は、
まねてコピーを製造することはできませんでした。

 しかし、1543年、種子島に伝来した鉄砲(火縄銃)の普及は
驚くほど早かったのです。

 わずか32年後の長篠の合戦で、
信長・家康の連合軍が、
武田勝頼自慢の騎馬隊を鉄砲で圧倒した話は有名ですね。
 
 地雷について日本の資料では、
1712年(6代将軍家宣(いえのぶ)の没年)ころ、
寺島良安によって刊行された『和漢三才図会』の記述が
最も古いのです。

 この本には、竹筒の中に銅線を通し、土中に埋め、
「賊」が踏めば、
「鉄塊如飛蝗着人即死(鉄の塊りがイナゴのように飛んで人に付着し、死に至らしめる)」との記述があります。

 もっとも、『和漢三才図会』のこの後に続く記述が、
「諸葛孔明之秘器也」というのはいくら何でも時代的に無理。
『出師表(すいしのひょう)』で有名な軍師・
諸葛孔明(亮。181〜234)は劉備、劉禅に仕えた人ですから。

 また、ほかにもいくつか記録がありますが、
戦史などで、こうした仕掛けで亡くなった武士の話は
見当りませんから、
あまり軍事的な効果はなかったのかも知れません。

 城や邸宅の周辺に敷設し、
外敵の侵入や囲い込んだ者を脱出しにくくする
警報装置のような形での火薬の使用は、
かなり前からあったように思われます。

 細川忠興(ただおき)(1563〜1646)が、
愛妻・ガラシア(1563〜1600)を、
いとおしさから、爆薬を塗込めた部屋に住まわせて幽閉し、
信長への弔意を示しに、
屋敷を離れたという話が伝わっています。

 「地雷」という言葉でははっきりと記述しているのは、
“鎌三(かまさん)”の名で親しまれている
浄瑠璃『鎌倉三代記』(1781年、江戸肥前座で初演)に、
「地中にしきりの煙立は、庭の中にも地雷を伏せしと覚えたり」
とあるのが最も古いのです。

“鎌三”は、大阪夏の陣(1615)を
鎌倉時代の出来事に仮託して脚色したもの。
作者は、近松半二だろうといわれています。

 17世紀初頭には爆発物を調整し、
敵の虚を突くなどの戦法が実施されていたと思われます。

 
昭和天皇との秘話 [2007年05月28日(月)]



 安倍晋太郎(1924〜91)

 http://www.apda.jp/support2.htmlより。


 旧宮家のことは、われら庶民はめったに考える機会がないが、秋篠家に王子が誕生するまでは、その皇族復帰の話が持ち上がったりした。

 ここで、私が体験した「秘話」を1つご紹介しよう。

 安倍晋三首相のご尊父・晋太郎氏から直接聞いた話。

安倍「いやぁ、外務大臣になって、陛下の前にでることがとても多くなったが、なんど参上しても私はあがってしまうんだよ」。

吹浦「何か失敗でもしましたか?」

安倍「いろいろヘマをやったね。なかでもお粗末だったのは、最近のことだが、ある日、外交の報告を終えたあと、『時に、今、カヤはどうしておるか』とご下問があった」

吹浦「東大の学長だった茅(かや)誠司先生のことでしょうか」

安倍「キミもそう思うだろう」

吹浦「はい。それとも・・・あっ! 賀陽(かや)治憲大使のことでしょうか?」

安倍「そうだったんだよ。ところがこっちはてっきり茅先生のことと思い、かしこまって『はい、ただいま小さな親切運動の会長を務めておられます』と答えちゃったんだよ」

吹浦「万一そういう機会があったら、私は、理事の末席に連なっている、社団法人協力隊を育てる会の会長でいらっしゃいます、と答えたかもしれませんね。そこで、陛下はどうなさいましたか?」

安倍「そういうことがあるのかね、と怪訝そうな顔をしておられたよ。あとから外務省のスタッフに指摘されて真っ青になったが、もうどうにもならん」。

 これは実話。
1984年11月にザンビアの首都ルサカ市内にあるインターコンチネンタル・ホテルの一室で、ともに「焼酎のお湯割梅干入り」を飲みながら、4時間以上閑談していた中のことである。

 安倍外相は、日本の外務大臣として、国際会議以外に初めてアフリカを歴訪された人である。

 当然、専用機で数十人の随員と随行記者たちも大勢いた。

 時差の関係で大臣は寝付けず、旧知の私を呼びつけ、現地の大使のお酌で(申し訳ありませんでした)、あれこれと話をしていたのであった。

 私はそのとき、難民を助ける会の代表幹事として、当時の三宅和助中近東アフリカ局長らとモザンビーク、ジンバブエと周る先発メンバ−の一員で、ザンビアで大臣の一行と合流したのであった。

 現在、スペイン大使である吉川元偉(もとひで)氏は当時、担当課の首席事務官としてご一緒して以来、親しくお付き合いしている。

吹浦「賀陽大使は国連局長やベルギーを終えて、今は・・・」

安倍「ブラジルの大使だよ。考えてみれば私はこのとおり外務大臣なんだから、外交の関係者のことだと思わなくちゃいけないのに、やはり固くなり、あがっていたんだよね」。

 このザンビア行きで、安倍外相から「明日カウンダ大統領と会うんだが、NGOの人間として何か伝えたいことはないか」と訊かれ、「難民を助ける会がここで活動するワーキング・パーミット(労働許可)が下りず、ザンビア政府との協定も交渉を始めて半年近くにもなってまだつまっていないんです」とお話した。

 安倍外相は翌日の会談でその話を持ち出してくれ、おかげで協定はほどなく署名に至った。

 また、外務省と私ども民間団体が力を合わせ、「アフリカに毛布をおくる会」を組織し、森繁久弥会長、吹浦忠正実行委員長として活動が出来た。176万枚の毛布と12億6千万円の資金が寄せられ、事業を全うすることが出来た。剰余金の3億円近くは、南アフリカの黒人のための奨学基金になって今も活用されている。
 
 ところで、私は昭和天皇を遠くで拝見したことは終戦直後以来何度かあるが、もちろん、言葉を交わしたことも、お近くにいたこともない。しかし、園遊会などでお会いした人たちの話を聞いても、みなさん、いろいろ失敗しておられるようだ。やはり極度に緊張するのだろう。
 
 もっとも、小さな親切運動の今の会長は、田中義具(よしとも)元ハンガリー大使。一昨年、二人部屋の同じ船室で国後島や択捉島に行った。今も、北方領土の研究会ではお仲間であり、毎月のようにおめにかかり、何かとご指導いただいている。
 
 ご令息の現総理は、何か今上天皇の前で失敗したことがあるのだろうか。今度、機会があったら聞いてみたい。