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朝香宮邸が美術館 [2007年05月27日(Sun)]










「モダン日本の里帰り−大正シック」の特別展は、ホノルル美術館の収蔵品からの展示。これは、中村大三郎の「婦女」。1930年の作品。女優・入江かた子(1911〜95)がモデル。入江は、本名・東坊城(ひがしぼうじょう)英子(ひでこ)という華族出身の人。「ノーブルな美貌と近代的プロポーションによって一躍スターになり」と解説書にある。赤の色はこの写真の数倍華やかである。







 旧朝香宮邸玄関から門の方角を臨む。







 庭園もなかなかのもの。和式と様式がある。







 旧宮邸(裏側)




 拙宅からの散歩道に東京都庭園美術館がある。
場所は、目黒駅から目黒通りをのぼって、
徒歩6〜7分といというべきか。

 旧朝香宮邸が一時プリンスホテル系の迎賓館となり、
最終的に東京都の所有となったものである。
日本では数少ないアールデコ様式の豪華な内装は、
整備された庭園とともに一見の価値がある。

 ただ、朝香宮といっても、
もうしっかりと理解できる層は
かなり少なくなっているのではあるまいか。

 皇位継承問題とも多少関係して考えられることもあり、
この際、旧宮家についての基礎知識として、
若干説明しておきたい。

朝香宮鳩彦王(やすひこおう、1887〜1981)は、
久邇宮(くにのみや)家の第8王子。
1906(明治39)年に明治天皇から朝香宮の宮号を賜下され、
宮家を新設した。

 そして、1910(明治43)年には、
同天皇の第8皇女・(のぶこ)内親王と結婚した。

 久邇宮は、
明治時代前期に
伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家。

 朝彦親王には王子王女が多く、
ほかに賀陽宮(かやのみや)邦憲王、邦彦王、
梨本宮守正王、多嘉王、
東久邇宮稔彦王などがいる。

 梨本宮守正王は元帥まで昇った人で、
最高齢の皇族だったが、
皇族でただ一人、
GHQにより巣鴨に収監された。

 東久邇宮稔彦王は敗戦直後に首相を務めた。
その後、賀陽宮とともに、
敗戦の責任を取って皇族は皇籍離脱しべしと主張、
率先して他の皇族にも働きかけるなどした。

 この朝香宮鳩彦王は、軍人の道を歩んでから、
1922(大正11)年にフランスに留学した。

 ところが、1923(大正12年)に北フランスのベレネーのあたりで、
義兄の北白川宮成久王が運転する自動車で事故にあい、
北白川宮は亡くなり、
同乗した鳩彦王は重傷を負った。

 このため、フランスでの思わぬ長期療養となり
これがフランス文化への造詣を深める結果となった。

 とりわけ、看病のため渡仏した允子妃とともに
1925年に開催されたアールデコ博に通い、
当時、隆盛だったこの様式に
強い関心と深い理解をもつようになった。

 帰国後は、陸軍では大将まで昇進し、
支那事変(当時の呼称。日中戦争)では
上海派遣軍司令官として
上海・南京攻略に当たった。

 いわゆる「南京事件」の組織上の最高責任者である。

 若いころからのゴルフに親しまれ、
東京ゴルフ倶楽部の名誉総裁に担がれた。
同倶楽部は1912((昭和7)年世田谷の駒沢から
埼玉県膝折村に移転した。

 この時、膝折村は朝香宮にちなんで
朝霞町と名称を変更した。現在の朝霞市である。

 朝香宮は1981(昭和56)年4月、逝去。享年94歳。

 いま美術館では、
「モダン日本の里帰り−大正シック」の特別展をしている(7月1日まで)。
電話は、3443−0201。毎月第2、第4水曜が休館日。

 もう一つのお勧めは、
構内のカフェレストラン茶酒(サーシャ)。
新橋の料亭「金田中(かねたなか)」の直営カジュアル店。
こちらの電話は、3442−7877。
対人地雷の歴史 @ [2007年05月27日(Sun)]




 対人地雷の除去は膨大な手間ではあるが、1つ1つ人手によって発見し、
破砕してゆくのが最も確実な方法である。カンボジアにて。






 対人地雷は、古い歴史を持つ新しい兵器です。

「対人地雷はいつごろ、どのようにして
用いられるようになったのですか?」

 石川県在住の大学受験生からの質問でした。
「試験には出ませんから
そんなことに関心を持つ場合じゃないでしょう」と、
生来の怠け心をごまかして突っぱねようかと思いましたが、
この問題は私自身にとっても興味深いテーマですので、
ここに何度かに分けて、
回答を掲載することにしました。



☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 紀元前146年、ローマとカルタゴの
3次にわたる戦争が決着し、
地中海に栄えたカルタゴは、
ローマの名将スキピオ・アフリカヌス
(小スキピオ、前185/184〜129)に屈しました。

 スキピオはこの時、二度とカルタゴが頭をもたげないよう、
その土地に塩をまいて、耕作不能にしてしまいました。

 その結果、およそ100年にもわたって
カルタゴは廃墟のままになりました。
その土地を使えなくするという意味では、
現代の地雷と同じです。

 また、ローマ時代には
クギのようなものを曲げてばらまき、
敵の進行を食い止めたという話も伝わっています。

 そういえば、本当か嘘かは解りませんが、
日本の忍者がひし菱の実(角状の突起のある堅果)をまいて
追っ手から逃れたというのが
昔の漫画にありましたっけ。


カズ40歳、見事なゴール [2007年05月27日(Sun)]



 前半21分、先制ゴールを決め「カズダンス」を披露する三浦。
デイリースポーツ紙より。






 白鵬が22歳ならば、横浜FCのカズ(三浦知良)は
1967(昭和42)年2月26日生まれの40歳。
昨日の大分トリニータ戦でまた得点を挙げた。
自ら持つJリーグ最年長ゴールの記録を更新し、
ひさびさに「カズダンス」まで披露した。
これまた立派。

 高木監督はDFの小村37歳とMFの山口(38歳)をはずして、
20歳以下大会の日本代表であるDF太田など若手の奮起を促し、
選手たちはその期待にも応えた。

 今月はスポーツの分野で、ベテランと若者がそれぞれに活躍し、
実にさわやかな風が流れている。

 大リーグで活躍した野茂、Jリーグの草創期のラモス、大相撲の高見山、
古くはプロレスの力道山、プロ野球初の300勝投手スタルヒン・・・
それぞれに外国出身の先駆者で、
さまざまなハンディを克服して大きな結果を出した先駆者がいる。
カズは日本人だが、まだサッカー人気が今ほどではない時期に、
よくぞ国民の目をサッカーに向けてくれた先駆者である。

 ここに挙げた人々とは少し意味が違うかもしれないが、
私はこうした先駆者たち同様、
カズについても道を拓いてくれた人の一人として尊敬する。


横綱・白鵬の誕生へ [2007年05月27日(Sun)]
 


  
      



  



  デーリースポーツ紙より。






 白鵬が14連勝で大相撲夏場所の優勝を決め、
横綱が確実になった。

 これで東西両横綱がモンゴルの出身に。
いいじゃないですか、それで。

 貴乃花より一ヶ月早くという記録更新もいいことだ。

 私の世代は大相撲で「ハクホウ」といえば、柏戸と大鵬。
大相撲人気の復活を夢見て、
「白鵬」あらため「柏鵬」としたらといった意見もあるようだが、
間違えてもそんなことにはしないでほしい。

 郷愁はそれぞれの人のもの。ロンジンのそんな思いにすがって
大相撲人気の復活をというのが間違い。
日本人力士の強化もできればそれに越したことはない。

 要は、横審とは別に、相撲人気回復のための
50歳以下の人たちの知恵を集約することではないか。
伝統を守るというだけでは発展しない。
いままで、4本柱の廃止を始め、
伝統は常に変えて磨き上げてこそ、光るものであるはずだ。

 例えば、先日も書いたように、露鵬の「待った」について、
審判長が説明をするとか、
場内に大型画面で今終えたばかりの勝負を上映するとか、
国民全体の体位向上に合わせて枡席をあと10センチ拡大するとか、
いろいろ工夫の余地があるように私は思う。

 何はともあれ、白鵬の相撲内容、風格、
大横綱になりそうな期待が持てる。
おめでとう。



もう一枚、富士山を [2007年05月27日(Sun)]




 元旦の朝、もう一枚、撮していました。

  しかし、私は「頭を雲の上に出し・・・」と「真白き富士の嶺・・・」の
2つくらいしか富士山を歌った唱歌・童謡を知らないのですが、
この、古来、日本中に愛されている山の歌、もっとたくさんあっていいですよね。

 富士山に負けてしまうのかな?
富士は日本一の山 [2007年05月27日(Sun)]
 自分で撮影したとは思えないほどきれいに撮れた富士山。
今年の元旦の初日の出直前です。場所は、山梨県北斗市小荒間。

「富士は日本一の山」ですし、美しさなら「世界一」ではないでしょうか。

 ですから、以前にも書いたことを繰り返しますが、
「富士山はユネスコの世界遺産に登録されなくてもいい」のです。

 ユネスコより富士山が信用もあるし、知られているんじゃないでしょうか。

 その運動の会長をしている中曽根康弘元首相や畏友・河合弘之弁護士には悪いですが、これが私の矜持です。





富士山がきれいでした [2007年05月27日(Sun)]





















 今朝の朝日新聞に拠れば、
全国的に晴れ渡った26日、
東北から九州にかけての広い範囲で
黄砂が観測されたとのこと。

 中国や四国、九州では
視界が5キロ程度まで悪くなり、
気象庁は車の運転や航空機の運航などに
支障が出ることもあると
注意を呼びかけているのだそうだ。

 私は昨日正午前、福岡空港から羽田に戻ってきたが、
上空はまったく見晴らしがよく、
富士山も久々によく見えた。

 だからといって別に報道をどうこう言うつもりはない。
あえて朝日の報道に言うなら、
この記事、「東アジアの砂漠域などの黄砂が」と書いてある。
もう少し判り易く書いてもらいたい。

 私なら、「中国など東アジアの」と書くか、
「中国やモンゴルなど」といった具合に具体的に書くべきだと思うが、
如何?

 何か国名を挙げては具合が悪いことでもあるのだろうか。
北方領土の地権 [2007年05月27日(Sun)]




 国後島。挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 鳥取県在住の山本邦彦氏(邦道師)から、こういう質問をいただきました。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 吹浦先生、質問です。一昨年、色丹・択捉をビザ無し交流で訪問し、墓参もしました。

 北方領土は日本固有の領土ですから、墓地だけではなく、今は草原・原野ですが当然に日本人の所有する領土(つまり、所有する地番があります。

 地籍図・土地台帳・固定資産台帳など)ですから、それぞれに日本人所有者があるはずです。

 今、不法に占拠されている北方領土は、ロシア人のそれぞれの地番に対する所有権がロシア政府によって保障されているのでしょうか?

 私が北方領土に上陸させていただいて感じたのは、アパートのような住居、耕作を許された畑が存在したことは理解しましたが、それが住人固有の資産とは理解しませんでした。

 つまり、在住の個人に所有権があるとは思えない状況と認識しましたが、実際はどうでしょうか。

 このことは、実質日本に返還された時に重要な問題になるように思いますが・・?学校も日本の援助、発電所も日本の援助。所有権はどうなっているのでしょうか。それによって返還時に保障問題が生じると思うのですが・・?よろしくご指導ください。合掌。
 

  〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃

 これについての私の回答です。

 これは、北方領土の返還時に、もっとも大きな問題の1つかと存じます。
小笠原に出かけて研究した大きな課題もこのあたりです。つまり、港に近い、道路が整備されている、高台で日当たりがいい、風の通り道だ・・・などなど、一番使い勝手のいい土地には、先に戻った人が住みついていたのです。このため裁判沙汰もたくさん起きました。解決までに時間もかかりました。

 小笠原の場合、欧米系の島民が終戦直後に戻ってから23年後に血統的日本人が戻ったわけですから、とくに、みなが集まり易い教会の土地問題が長く尾を引きました。
 
 北方領土の場合は、日本に返還されたら、自動的にロシア側の地権はすべて消失します。日本人が台湾、朝鮮に持っていた権利と同じです。そのことをロシア政府が個々に保証するか否かは、ロシア側が決めることであり、関知しません。

 ただ、実際に日露共住となった場合、根室の法務局に登記されたままの旧島民(日本人)の権利が復活したとしても、その個々の居住地からロシア人を追い出すというのは、21世紀の今では、非人道的というそしりを免れ得ないでしょう。

 ですから、代替地を与える、居住区をつくる、サハリンや大陸に引き揚げる人への補償のようなものを手厚くすることにより、帰還を促進するなど、さまざまな施策が考えられます。

 それでも島に留まりたいという人に、「ならば今の住んでいる場所から自分で国有地に移り住め、土地は格安で貸与するから」というようなことは、私はすべきでないと思います。

 そこで、考えられる第1は、今の段階ですべての地権者から土地を買い上げてしまうことです。これは「言うは易く行なうは難し」かもしれませんが、そうしなくては、禍根を残すと考えます。

 返還後、現在のロシア人の居住地に関係なく、あらたに港や道路を造るというのは、これまたその場所の地権者との調整が必要になり、かつ、不自然すぎます。復帰する旧島民にしても、自分と直接的な縁のない場所では、愛着が湧かないのではないでしょうか。

 大事なことは、この問題をいままで政府が回避してきたことです。関係する専門家間の議論でも話し合いは極めて不十分です。他方、旧島民の側でもこの問題で騒ぎ過ぎるのは「却って返還を難しくする」「利己的だと避難される」「他の旧日本領土の居住者への補償問題に跳ね返る」といった遠慮のようなものがあり、タブー化しているやに聞いています。

 しかし、この問題は返還が具体化してから議論するのでは遅すぎます。道東地区の活性化の一案としてでも、早急に真摯に議論されるべき重要課題だと私は考えます。


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