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ベテランの味 [2007年05月26日(土)]





 2000本安打の田中幸雄。




 5月17日、東京ドーム。日本ハムと楽天。
日本ハムの田中幸雄(39歳)が史上35人目の2000本安打、
楽天の山崎武司(38歳)が8年ぶりに2度目の一試合3本塁打。

 同じ日のヤフードーム。
オリックスの吉田修司が古巣のホークス相手に2点をおった場面で登板、
チーム逆転のお膳立てをした。

 23日、横浜ベイスターズの工藤公康(44歳)が西武戦で今季初、
移籍後初の勝利投手に。

 そしてヤンキースのクレメンス(44歳)がこの週末にも1軍に昇格して、登板する。

 これがスポーツだ。ベテランの味というものだ。

 白鵬の優勝(たぶん)は見事というほかない。横綱昇格、おめでとう。

 しかし、ベテランの奮起があってこそ、どのスポーツも面白い。
人生の機微をのぞき見るような気がするからかも。


 以上、わが身の青二才ぶりを棚に上げての率直な感想。


北方領土返還時の参考に [2007年05月26日(土)]






 根室市の納沙布(のさっぷ)岬に立つ、北方領土返還祈念シンボル像。




 沖縄返還の4年前、1968年に、
小笠原は本土復帰を果たした。

 返還後の小笠原にはまず、自治省(当時)からの
塩田章総合事務所長(後の防衛施設庁長官)など
国と都の職員がやってきて、
塩田氏に拠れば、
「南極探検にも似た集団生活をしながら」
諸条件を整えて行った。

 道路、水道、電気、電話といった公共工事の実施とともに、
米軍の撤退で職を失った欧米系の人たちの雇用、
そして、教育を日本式に替えるのが大仕事だった。

 欧米系の若い人たちは日本語を解さなかったが、
新たに赴任してきた教師たちは、
時間外に日本語の基礎を教えるボランティア活動をした。

 旧島民(血統的日本人)の所有地に
血統的欧米系の人たちが自宅を建てていたことも
トラブルの一つだった。

 こうした経験がいつの日か
北方領土が返還される過程で役に立つものと思われた。

 すなわち、北方領土は現在(2007年)、1万4千人ほどの
ロシア人が住み、ロシア語で生活している。

 しかし、そこには本来の日本人の地権者がおり、
返還時にはその間に、土地をめぐるトラブルが起こることは
容易に予想できる。

 その人たちの持っている資格や免許どう評価していいのかも
大事なテーマだ。

 私が父島を訪問したのは、そうした問題を考える際に、
欧米系の人たちだけがさきに帰島していた小笠原の復帰が
一番参考になるのではないかという動機からであった。

 そして調査結果は、
父島からの帰京後にまとめた「北方領土返還後の対応について」という
共同研究論文(代表=杉山茂雄法政大学名誉教授)を起草した際、
大いに参考になった。

 そして、中でも大事なのはその任にあたる人を得る
ということと思えた。
復帰25周年を過ぎた1994年の段階で、
復帰当時のこうした職員を慕う欧米系の人たちや
初期の帰還島民が大勢いた。

 安藤光一村長(1994年当時)が
「小笠原丸のカレンダーが小笠原のカレンダーという
観光にだけ頼る今の体質が
もう少し幅の広いものにならなくては
島の発展には限度がある。
飛行場の建設、テレビの受信、土産物の生産など課題が多い」と
島の現状を説明していたが、
何といっても飛行場の整備であろう。

 これなくしては小笠原の孤島性は基本的に変わるまい。

 それとともに、国の特別天然記念物メグロをはじめ、
小笠原にしかいないという動物や
ここだけの植物などに満ちた環境の保全と
観光をはじめとする産業開発が
今後さらに大きな課題となろう。
父島には原爆があった [2007年05月26日(土)]





 小笠原在住の欧米系の人たちが、
アメリカによる統治時代を振り返って
口々にいうのは、
父島には原爆があった、という話だ。

 米軍の支配下にあったわけだから、
核兵器に関する三原則も適用されなかったわけだが、
不気味な話だ。

 欧米系の古老の一人・ピーター・ウェッブ氏は若い頃、
板橋で大工の修業をしたという。金髪碧眼の日本人だ。

 そのせいかちゃきちゃきの江戸っ子のような話し方で、
「あの当時、米海軍の荷役の仕事は
みなわれわれがやってたもんだが、
たまに、今日は家から一歩も出るな、
荷役はすべて軍人だけでやるとちゅうんだ。
まるで戒厳令のような日だった。
あれは間違いなく原爆を島に持ち込んだり、
島から出したりしたとわれわれは確信したし、
今でもそう思うよ」。

 そう言いながら、ウェッブ氏は町外れの倉庫まで
連れて行ってくれた。

「ここに仕舞いこんでいたんだ」。
 
“仕舞いこんだ”ところは旧日本軍が残した特別製の格納庫。
縦2b余、横2.3bで奥行きはかなり深い。
しかも、以前はピカピカの銅板で内壁を護っていたという。

 「今は銅板はありませんね」
という私の問いに、
欧米系の人たちが、
「返還までの間に処分したものの一つだ」と異口同音に言う。

 要するに、日本軍が廃棄し、
米海軍が運び出さなかった残存兵器同様、
欧米系の人たちが売り飛ばしたということのようだ。

 それでも父島の最高峰中央山(318b)や、まだまだ島の各地に
飛行機の残骸、高射砲、臼砲、難破した輸送船などが
赤錆た姿をさらしている。

 また、二見湾沿いを中心に、
トーチカ跡が無数というほど口を開いており、
中がどうつながっているか判らないほどになっているそうだ。

☆ 〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆

 <追記> 
 この記事は、
1994(平成6)年5月に
私が調査のため父島を訪問したときに、
末次一郎が主宰する政策研究集団「新樹会」の
機関紙「新樹」に書いたものである。

 その後、数年経って、
毎日新聞が「復帰前の小笠原に原爆」という
「大スクープ」とやらを発表した。

「島での常識、大新聞の非常識」だったのである。

 写真は父島。moukarimakka.way-nifty.com/.../index.htmlによる。
小笠原に欧米系のみが帰島 [2007年05月26日(土)]




 聖ジョージ教会の日曜礼拝に参加する欧米系のひとたち。
 (asahi.comより)

  



 戦後すぐ、GHQは欧米系住民のみ135名を小笠原に戻した。

 以後、昭和43年に返還されるまでの23年間、
島にはこれらの人々しか民間人はいなかった。

 学校教育は英語でのみ行なわれ、
高校はグアム島へ、
大学はハワイへ行くのがコースだった。

 だから、1994年に私が訪問した頃には、
「ユー行くの? ミーやめた」といった具合に、
日本語の中に結構、
英語の単語が混じる言い方が普通に行なわれていた。

 父島には二見湾に臨む最も風光明媚な場所に、
欧米系の人たちを含む墓所がある。
墓石には十字架がついているものが多い。

 また、聖ジョージ教会の日曜礼拝は
欧米系の人々で賑わう。

 1895年に最初の教会が建って以来、
欧米系住民たちの心のよりどころであり続けてきた。

「小笠原を欧米系だけにしたことには
いくつかの狙いが考えられる」と
辻友衛氏など島の歴史研究者たちは言う。

 総合すると

@ 米太平洋艦隊の中継基地として
   アメリカが自由に使用できる
A 基地労働者として適当な数の住民が必要だ
B 返還運動の盛り上がりを未然に防ぐ
C ある程度英語の出来る者が多いので便利だ、

といった理由が考えられるということだ。

 1968(昭和43)年になって
小笠原諸島は日本に復帰を果たした。

 そして、ようやく、
血統的な日本人がほとんど4半世紀ぶりに
帰島を始めたのである。