南十字星がおかしい? [2007年05月25日(Fri)]
国旗は上から、ブラジル、オーストラリア、ポルトガル。 拙著『世界の国旗(最新版)』(学習研究社)より。 先日、日本の有人最南端・波照間島で 南十字星が見える話を書いたとき、 ブラジルとオーストラリアの国旗の南十字星では、 星の配置が違うということに触れたままになっている、 との指摘が、福岡の読者の方からいただいた。
上の図で一目瞭然。
つまり、小さな星(3.6等星)の位置が左右逆なのである。
ブラジルの国旗の星座は 1822年9月7日にポルトガルから独立したその夜、 天空に輝いた星空を描いたものとなっている。
27個の星は26の州と首都ブラジリアを表わす。
配列は、アメリカの星条旗のように 星をデザイン的に並べたものではなく、 宇宙をそのまま写し取ったデザインなのである。
ところが、オーストラリアと違うのは、 オーストラリアの南十字星は、 地上から見たままを描いたもので、 ブラジルの星座は、天球儀、 つまり、「夜空を神様が1つに見た場合」を球状にしたかたちで 描いたものなのである。このために、結果として左右が違ってくる。
しかし、ブラジルでは正式はこの部分を裏表縫い合わせて、 「秩序と発展」という国標と星座が逆にならないように、 国旗を製造するようにしている。
ところで、この天球儀、 実は、ブラジルの旧宗主国・ポルトガルの国旗にも 大きく描かれている。
大航海時代、ポルトガルやスペインが 天球儀を活用していたことに由来するのはいうまでもない。
この南十字星の「逆」の話のように、 国旗の相互関係や違いに気づくのは実に楽しいことである。 筆者は、中学生の頃、 この南十字星の描き方の違いを「発見」して、 国旗の研究にはまったようなものだ。
長じて、」1964年の東京五輪のための国旗を準備していたとき、 当時、世界の国旗の製造については 最大のメーカーであった日本信号旗の尾花良二さんという 学者のような方(後、日本国連協会に転進)に、 この話をしたところ、「気づかなかった」とえらく感心されたことがある。
「若者はこういう場面に出くわすと、 いい気分になって、のちのち張り切るものである」 ということもこのとき、学んだ。
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吹浦 忠正
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戦前の日本・東西南北端 [2007年05月25日(Fri)]
 ●日本の領土、現在の東西南北端については何度か書いたように、 東・・・南鳥島 (東経153度59分00秒) 西・・・与那国島 (東経122度56分03秒) 南・・・沖ノ鳥島 (北緯 20度25分03秒) 北・・・択捉島 (北緯 45度33分03秒)
●但し、日本人が居住しているところというと、 東・・・南鳥島 (東経153度) 海保、海自、気象庁の職員のみ 西・・・与那国島 (東経122度) 単独の町。住民1700人 南・・・波照間島 (北緯 24度) 沖縄県竹富町の一部。人口約600人 北・・・稚内市 (北緯 45度31分14秒) 宗谷岬
● 戦前の日本はさらに広大で、植民地や租借地まで含むと 東・・・占守島 (東経156度) 別所一家など居住。第91師団も。 西・・・新南群島 (東経112度) 南沙(スプラトリー)諸島。 南・・・同 上 (北緯 4度) 1939年にフランスから譲渡 北・・・阿頼度島 (北緯 51度) 千島の最北端。居住者なし。
樺太の北部(北緯 50度0分0秒)は、ポーツマス条約で画定した日本の領土であったが、占守島よりやや南である。
● 加えて、国際連盟の委任統治領があった。これを含むと 東・・・ノックス環礁(東経172度) 現・マーシャル諸島共和国 西・・・新南群島 (東経112度) 南沙(スプラトリー)諸島。 南・・・ヌクオロ岩礁(北緯 4度) 現・ミクロネシア連邦 北・・・阿頼度島 (北緯 51度)
占守島(しゅむしゅとう)は、面積230平方kuで、カムチャツカ半島とは千島海峡で、南の幌筵島とはパラムシル海峡で隔てられている。
海抜200m度の丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。 夏季でも摂氏15度くらいまでしか気温が上昇しない。 冬季はマイナス15度になる。猛吹雪に襲われることが多い。
現在、ロシア名バイコーヴァという集落があるのみで、民間人の人口は100人以下であり、しかも定住人口ではないという(参照「ウィキペディア」)。
但し、戦前は、 海軍大尉郡司成忠(幸田露伴の実兄)が報効義会を結成し、 占守島に入植し、 漁場の開拓にあたった。
日露戦争では約30人を率い、カムチャツカ半島にに進攻し、 ロシア軍の捕虜となった。
別所家はこの系統に属し、 第2次世界大戦末期の1944年間まで、滞在した。
翌年8月15日を過ぎた18日、 ソ連軍は同島の竹田浜に猛攻を加えて上陸した。 しかし、堤 不夾貴(ふさき)中将率いる第91師団が迎え撃ち、 日本側大勝利のまま、3日後、停戦となった。
TBSが報道したビデオによれば、 現在でも、当時の日本軍の戦車9台の残骸があるなど、 往時を偲ばせるものがある。
阿頼度島はアライトと読む。ロシアでは18世紀の探検家、ヴラジーミル・ヴァシーリヴィチ・アトラソフの名を取って、アトラソワ島(アトラソヴァ島=о.Атласова)と呼んでいる。
日本統治時代、この島の「最北埼」(北緯50度55分30秒・東経155度32分)が日本の最北端(北緯50度55分30秒)であった。住民はなく、漁業関係者が立ち寄る程度であった。
阿頼度富士は秀麗な山で、千島列島の最高峰でもある。海抜2339m.
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吹浦 忠正
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別所さんの「戦後」E [2007年05月25日(Fri)]
占守島の対ソ戦で活躍した日本軍の三八式野砲の残骸 http://www006.upp.so-net.ne.jp/yamako/houheikatuyaku.htmより。 国端崎(こくたんさき)に始まる(占守島での) ソ連軍の侵略による戦闘は こうして4日間つづいたことになりますが、 シュムシュ島の北端、 つまり当時の日本の国の端から攻めてきたソ連軍に対し 私たちのような非戦闘民は なるべく南へ避難するのみでありました。
戦闘のはじまった18日、 私のところでは 6人の家族全員でパラムシル海峡に面したほうへと 退避したのです。そしてさらに、 柏原湾の近くで仲間を集め 2隻の漁船に分乗して北海道方面への脱出をこころみました。 しかしなんとか1隻だけは首尾よく成功したものの 私たちの乗った船は機関の調子がわるく、 なかなか出発できません。
気はあせれど機械は動かず・・・・・・ まごまごしているうちにソ連の監視船に発見されてしまい、 とうとう柏原まで連れもどされてしまったのです。
樺太ではこうした場合のほとんどが銃殺であったようですが、 私たちはそれから漁師仲間ら約2500人の人たちと一緒に、 柏原にて収容生活をはじめることとなったのでした。
で、その後の2年間というもの ソ連側の仕事をあれこれとやらされはしましたけれど、 食糧がそのわりには充分だったので さほどの苦労はしなかったように思います。 しかしながら、 脱走の現場をおさえられ パラムシル島の収容所に連行された当初は、 北海道へ逃げてしまった仲間がうらめしく、 また自分の不運を悔やんだりもした私であります。
そんな私が自分に勝る不運を知ったのは引揚げてからのこと。 樺太の人びとの悲惨な最後を聞いて わが身のまだ幸せだったことを 痛感せずにはいられませんでした。
その引揚げは、連行から2年後の 忘れもしない昭和22年9月19日、ソ連船に乗船。 樺太の真岡(まおか、現ホルムスク)を経由し、 そこから日本への引揚船「雲仙丸」で 無事に函館へ上陸することができたのです。
10月17日がその日でありました。
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別府二郎蔵さんは、1907(明治40年)占守島の片岡の生まれ。明治天皇が片岡侍従を派遣して日本の最北端を視察・報告させたことから、この名がある。別所家は、多年、同島で漁業と農業を営むが戦時中は、ここにあるように海軍の嘱託として活躍。終戦後は2年間、同島南隣のパラムシル島に収容され、47(昭和22)年10月17日、函館へ引揚げた。その後、根室市に移って酪農を経営していた。
来週は、その北千島周辺で漁業労働者として働いた人たちのことをご紹介したい。
わが郷里・秋田県の刈和野町の出身者が特段に多いのである。
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吹浦 忠正
at 08:43 |
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ソ連軍、終戦後に来襲D [2007年05月25日(Fri)]
明治以来、 日本の最北端・千島列島の占守(しゅむしゅ)島開拓を 引き継いだ別所家の、別所二郎蔵さん(終戦時38歳)の手記を 続ける。
国境の島を日本人は いかにして開拓し、 守り抜こうとしたかを学ぶ一助にしたい。
☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆
私はこれまでの文章において わが占守島をふくむ北千島の歴史―― 明治26年の開拓団の渡島から昭和20年の終戦までの 半世紀を上まわる歴史を書いてきたわけですが、 それを一言にまとめてみれば、 北千島はまったく平和な島々であった、 戦争のときでさえ平和な島であった、 と要約できましょう。
で、8月15日をもって戦争は終ってしまったのですから その平和はさらなる半世紀を目ざしてつづいて しかるべきだったのであります。
ところが、 終戦になった北千島に待ちうけていたものは いったいなんだったでありましょうか。
平和の到来ならぬ平和の消滅がそれだったのです――。
52年におよぶ島の平和がうち破られる、 島はじまって以来の最大の悲劇がおきたのは、 終戦から3日になろうとする 8月18日の未明のことでした。
突然、敵軍が島に上陸するなり 激烈な地上戦がはじまって、 それが小一日つづけられたのです。
北千島に対するそれまでの攻撃から考えて 私は最初、アメリカ軍が侵入したのだとばかり 思っていました。
が、私たちの島を襲ったのは ソビエト軍だったのであります。
日本は3日前に無条件降伏をしたのに 何を今さら・・・・・・、 しかもアメリカ軍でないソ連軍がどうして・・・・・・。
私はなにからなにまで すっかりわからなくなってしまいました。
なにせ8月18日の朝の暗いうちに、 どちらかといえばまだ夜にちかい時分に 大砲や小銃をうちならしながら 最初から攻撃してきたのです。
これがいわゆる国端崎(こくたんざき)戦闘と 呼ばれるものであり、 これによって日本軍は600人あまり ソ連軍では数千人を超す戦死者をだしました。
したがって まさに壮烈な戦いが繰り広げられたわけですが、 結局は終戦後の無意義な戦闘ということもあって 日本の北千島守備隊は8月22日、 陸海軍の全員がソ連軍に降伏し 武装解除となった次第です。
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Posted by
吹浦 忠正
at 08:32 |
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