日本財団公益コミュニティサイト CANPAN CANPANブログ:公益法人,NPO,CSR,社会貢献活動のための無料ブログ
« 2007年05月23日 | Main | 2007年05月25日»
2007年05月
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
占守島の8月15日C [2007年05月24日(木)]





 1943(昭和18)年ごろともなると、
わが国の戦争の旗色は
だいぶあやしくなっておったのですが、
私たちの北千島の戦備が本格化して、
いわゆる北千島要塞のできあがったのも
この昭和18年でした。

 島の漁師たちも協力して飛行場がいくつもでき
大砲や戦車もつぎからつぎへと送りこまれ、
兵隊さんは陸海あわせると4万人にもなったとかで、
南の沖縄なみの軍備だったそうです。

 軍への協力といえば漁師たちのほかに
私も例外ではなく、
この昭和18年から川の漁のほうを友人にまかせ
私は海軍の嘱託になって、
占守島の気候風土などの案内役をつとめました。

 当時の海軍の司令部は
私の生まれたところでもある片岡にあり、
陸軍のほうはその向かいがわの
パラムシル島の柏原で、
私は海軍だけではなしに柏原の陸軍司令部からも
しばしば呼び出され、
そのたびにパラムシル海峡をわたったものです。
 
 また、すでに記した
アリューシャン列島を基地とするアメリカ軍の攻撃は
アッツ島やキスカ島だけにかぎらず、
私たちの北千島までおよび、
島の上では空中戦を何度も見かけました。

 しかし、心配されていた
アメリカ軍の上陸という非常事態はなく、
昭和19年、同20年と爆撃や艦砲射撃などの
小ぜりあいをつづけながら、
ついに8月15日の終戦をむかえるに至ったわけです。



ゴルフはスポーツか? [2007年05月24日(木)]





 ウィニングボールを応援席に投げる工藤投手。日刊スポーツ紙より。





 ゴルフ・ツアーで15歳の少年・石川遼くんが優勝した。まずはおめでとうといいたい。

 以下、いささか暴論を吐きたい。

 いったいプロは何をしていたのか。「36ホールというのが体力的にきつかった」「17番ホールで石川がラッキーだった」・・・

 いろいろあろうが、これは全部、負け惜しみ。ああ、恥ずかしい。みっともない。恥を知れ!!!

 ところで、15歳が全国的な大会で優勝できるというゴルフというのはスポーツかいな?

 今後は、ゲーム(遊技)やプレイ(お遊び)と呼ばせていただきたい。マッチではない。スポーツではない。

 野球は、「体力を考慮して」高校生は金属バットである。15歳は完成された肉体ではない。それに対して36ホールがどうのとは論外だ。プロとはそんなに虚弱な身体の持ち主たちなのか。

 運? 「運も実力のウチ」だ。

 プロを自称するものはすべからく、今週からは丸坊主になって練習に励むべし。15歳に勝てそうだったら、はじめて、プロとしての料金を手にせよ。

 昨5月23日、プロ野球横浜の工藤公康投手が44歳で、移籍後初勝利、通算216勝目をあげた。これまた「おめでとう」。

 これぞ、プロである。一流選手である。プロ・ゴルファーとやら、工藤の写真でも掲げて合掌すべし。
体育の日は感動の日 [2007年05月24日(木)]


 東京オリンピック開会式。公式報告書より。






 1964年10月10日、国立競技場での筆者。




 選挙が近づくと、永田町では軽挙妄動が始まる。

「秋にもGWを」というのだ。10月10日の「体育の日」を11月1日にずらし、2日を意味のない単なる「国民の休日」にしようと、自民・公明両党が鋭意、検討しているようだ。

 私は反対である。

 祝日にはその日が祝日になった意味がある。元旦、建国記念日、春分の日、昭和の日(昭和天皇の誕生日)、秋分の日、文化の日(明治天皇の誕生日)、勤労感謝の日(皇室神事の新嘗祭の日)などは、天文学や皇室が絡んで変えられない。だから、「体育の日」をかえようという話だ。

 1964(昭和39)年10月10日、私は、財団法人オリンピック東京大会組織委員会の最年少職員(国旗担当専門職員)として、国立競技場にいた(写真)。だから、私がこういう反対論をいうといささか私利私欲、我田引水の感なしとしないが、そういう気持ちで反対しているのではない。

 この日は、日本の復興記念日のようなものだ。平和国家を目指し、われわれの先輩は文字通り懸命になって、国土の再興を図ったのだ。そしてこの日までに、新幹線、高速道路だ開通し、沖縄や小笠原、北方領土は復帰していなかったが、日本の大部分では、あきらかに「国家再建なる」の喜びを満喫した日である。

 そういう雰囲気があったればこそ、われわれ直接、東京オリンピックに関わった者は、上から下まで、万遺漏なく、これまた日夜懸命に、誇りを胸に、献身的に準備に当たることができたのだった。

 どうか、政治家の皆さん、軽はずみはよしてほしい。いまや、国民の多くは、少なくともサラリーマンの大部分は、昔と違って、気楽に有給休暇を活用して、あちこちに出かけているのだ。

 私などこれまで一度も、部下にこのことでいやな顔をしたことはない。国に与えられねば休暇を取得できないような社会を改善することが政治家の仕事ではないか。


赤十字マークの誤用 [2007年05月24日(木)]








 赤十字のマークを使っているこのイラストの入ったチラシが100万枚回収された。




 赤十字の標章(マーク)は、
創立者アンリ・デュナンの祖国であり、
その創設に尽力したスイス政府に敬意を表し、
スイスの国旗の色を逆にしたものである。

 このマークはジュネーブ条約
(現行の同条約は1949年に締結、日本は51年に加入)により、
戦時で特別な保護徽章とされるため、
各国で厳重に管理されている。

 わが国では、
「赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律」で 
日本赤十字社と自衛隊の衛生部門でしか使用できない。

 ところが、朝日新聞(5月23日付)によれば、
中日本と西日本の高速道路2社が
電通関西支社に制作を依頼したチラシに、
この使用禁止の赤十字マークが印刷されており、
回収されつつあるという。

 名神高速道路と東名阪自動車道の集中工事を知らせるため配布した
2種類のチラシ計約100万枚に
赤十字マークが使われていたというのだ。

 赤十字マークの使用制限について、
電通関西支社の担当者は知らなかったという。

 この一件は、14日、西日本高速道路への匿名電話で発覚。
同社などは日本赤十字社に謝罪し、
「数百万円」かけてつくり直したチラシを、
誤ったチラシの回収袋とともに
関係先に郵送する作業を続けているのだそうだ。

 一方、テレビで流す工事の告知CMにも赤十字マークが入っていたため、
21日からの放送直前に急きょ差し替えたという。

 私は20年近く前に、
この関係の論文を日赤中央女史短大の「紀要」に
執筆したことがある。

 そのときに調べたのだが、
都内でも動物病院、薬局、クリニックなど、
さまざまなところで赤十字のマークは誤用されていた。
 
 いまでも、誤用は時々、目に付く。

 私は例の「安全第1」の緑十字のマークも
条約の精神から言えば芳しくないと考える。

 少なくとも色覚障害者には赤十字となんら区別ができない。

 また、赤十字のマークはスイス国旗の逆なので
本来、「白地赤十字」でなくてはならない。

 なんらかの都合でそれができない場合には、
「白で縁取られた赤十字」でなくてはならない。

 このことも日赤本社をはじめ、
日赤の各施設できちんと守られていないのは、
遺憾である。

 重要なことは、今回も匿名の方からの指摘だというが、
日赤自体が、もっと標章の管理に責任を持ち、
使用に関する広報に努め、
場合によっては個別に警告ないし申し入れをすべきである。

 100万枚も作成して、
日赤関係者の目に入らなかったわけがない。


キスカから撤退した日本軍B [2007年05月24日(木)]






 占守島に終戦までいた、別所二郎蔵さんの手記です。その3回目。

  ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
 
 こうして母は東京へ行ってしまい
島には私が残ったのです。

 そして妻をむかえ、やがて子供もつぎつぎと生まれました。

 北千島での漁業はあいかわらず盛んでした。
おそらく、
漁業がいちばん手っとり早かったからなのでしょうが、
それに対して農業や牧畜はふるわず、
だれひとりとして見むきもしません。

 そんなこともあって私は、
だれもやろうとしない方面に手をつけ開拓しようと
毎日、張りをもった
生き甲斐のある生活を送っていたものです。

 ところがその一方では、

 昭和6年(1931年)の満州事変から
国際情勢がだんだんものさわがしく悪化しはじめ、
北千島に陸軍の小部隊が守備についたのは昭和15(1940)年、
あの太平洋戦争のはじまる前年でした。

 このすこし前より
海軍も飛行場をつくったり重油タンクを建設したりしたはずです。
 
 昭和16(1941)年12月8日に太平洋戦争に突入した日本軍は
翌17年アリューシャン作戦と称して、
6月にアリューシャン列島の
アッツ島とキスカ島に上陸しました。

こうした日本軍の動きに対しソ連は警戒を厳しくさせ、
カムチャッカ半島や北樺太の防備を強化するようになり、
またアメリカは同じアリューシャン列島の
アダック島やアムチトカ島に、
航空基地を
昭和17年の8月から18年の2月ごろにかけて
造っていったのです。

 そして、同18年の5月12日に
アメリカ軍のアッツ上陸が開始され、
そこの日本軍は同29日に全滅したのでした。

 アメリカの攻勢を前にした日本軍は
さらにキスカ島からも後退を余儀なくされて、
日本軍のキスカ守備隊は
昭和18年7月31日に北千島の幌筵(ぱらむしる)島に後退したわけです。


末次一郎の追悼会 [2007年05月24日(木)]











    故末次一郎のお墓参りをするエフゲニー・プリマコフ元ロシア首相。後ろは、ロシュコフ駐日大使(当時、現。6カ国協議ロシア代表)





  わが師匠である末次一郎が亡くなったのは2001(平成13)年7月11日。

 このほど、門人たち相集い、貴賓をお迎えして末次の追悼会を行うことになった。

 6月3日(日)午後1時から、代々木のオリンピック記念青少年総合センター国際会議場でである。末次は、同センターの創立と運営に多年、深く関わり、また、最後に声涙下る熱弁をふるったのもそこであった。

 会場は、常備されている椅子は200とのことだが、既に全国から350を超える人々が参集することがわかっている。

 清子夫人ら御遺族の献花に始まり、代表呼びかけ人として、渡邉五郎三郎先生が献花をし、挨拶をする。

 同先生は、東洋哲学者。戦時中、豊橋の予備士官学校で末次を指導し、戦後は、ともに日本健青会を創設、その中心となられた方である。現在は、福島新樹会代表幹事であり、安岡正篤門下生の最長老か。

 ついで、中曽根康弘、海部俊樹の両元首相、仲井眞弘多沖縄県知事らが登壇する。

 このあと、
戦後まもなくの独立青年同盟以来の友人である宇佐美忠信元ゼンセン同盟会長、
健青会の上村文三青少年育成国民会議副会長、
シベリア抑留から帰還したときに舞鶴で末次に迎えられて以来という板垣正元参議院議員、沖縄返還運動以来の稲嶺惠一前沖縄県知事、
1968年の日米京都会議以来の衞藤瀋吉東大名誉教授、
北方領土問題やロシア関係では
佐瀬昌盛安全保障問題研究会会長と袴田茂樹青山学院大学教授、
末次が創立者の一人である青年海外協力隊からは大塚正明事務局長、
同じく末次が創設した日本青年奉仕協会からは祐成善次会長、
青少年教育関係では川崎繁元文部省青少年教育課長、
首相官邸関係では川島廣守本官房副長官(前プロ野球コミッショナー)が、
各界を代表して献花し、思い出を語る。

 そして、友人を代表して
植木光教元総理府総務長官が献杯の発声をする予定である。

 ここにあげた方々の平均年齢が高いのはやむを得ないが、会場には、「われら」青年も各地から参集する。

 なお、末次の墓所は、早稲田大学正門前の龍善寺の境内にある。ロシアのエフゲニー・プリマコフ元首相は、来日のたびにおまいりに行く。

 ご連絡漏れもあろうことかと思い、あえて小欄で触れた次第である。