東京と占守島 連載A [2007年05月23日(Wed)]
1875年から70年間にもわたり わが国最北端の領土だった 占守(しゅむしゅ)島について、 そこで生まれ終戦までの38年間を過ごした 別所二郎蔵さんの手記を引き続き、転載してご紹介します。
この手記は、 『望郷の島々―千島・樺太引揚げ者の記録』(第三文明社) に掲載されている貴重な一文です。
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この方面が開拓されはじめたのは明治の26年からで、 それ以前はクリル人という人たちが 住んでいたのだそうです。
クリル人は明治17(1885)年、 外交上の理由から全員が南千島の色丹島に移され、 そこへ明治26年に報效義会という わずか100名足らずの開拓団が 最初にわたってきたのです。
当時のロシアの国境に接する島々ということと、 また外国の密漁船などが 四六時中にわたり出没していたために 開拓団の人びとはみな武装しておりました。
それから11年した明治37年(1904年)、 日露戦争勃発です。
開拓団の大部分は内地に引揚げましたが、 一部は残留しました。
そして、その残留組にはいっていたのが この私の両親であったわけで、 私の家はいわば島の草分けということになるのでしょう。
日露戦争から多くの人びとが引揚げてしまったこともあって 島は一時さびれますが、 私はそうした明治40(1907)年に生まれ、 やがて漁師たちがわたってくるにつれて 次第に活気をおびる占守島、 そして北千島となっていきました。
島が急激に発展するのは 私が25、6の昭和8年ごろ。
近海でサケ・マスの大きな“魚道”が発見されてからです。
それがどれほど急激なものであったか。
北千島だけの漁獲高が 北海道のそれに並ぶときもあったくらいです。
漁期がやってくると 毎年、2万人もの漁師が大挙して島に乗り込んできました。
しかし、意外なことには だからといって島に居住するという人は少なく、 その当時でも占守島には私の家とそのほかに 2、3の家族しかいなかったのです。
私の家についてもう少し述べますと、 前に記したとおり私は明治40年に占守島の片岡で生まれ、 父の代から西海岸の別飛というところで サケやマスの川漁をしたり、 そのかたわらに馬を飼ったり 野菜を作ったりしていたのです。
私が28歳になった昭和10年に父が亡くなり、 母は東京にいる私の妹と 一緒に暮らすようになりました。
これまで日本の最北端での話ばかりしておいて、 ここでいきなり“東京”という言葉が飛びだすのは いかにも突然で奇異でもありましょうが、 どんなに東京から遠く離れた 北の小島に住んでいるとはいっても、 当時の占守島における私どもの心の中で “東京”はけっして遠くはなかったのです。
それどころか、私たちのなかに 東京は確たる位置をしめておりました。 これほどまでの東京の影響力というか、 また中央集権の強力さというのか。
近ごろでは何やら地方文化だとか 土着だとかいわれているようでありますが、 そんな掛け声ぐらいでは 東京という一点に向かされた日本中の人びとの眼というのは そう簡単に換えられないのではないでしょうか。
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吹浦 忠正
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外国人労働者問題のシンポ [2007年05月23日(Wed)]
3月に都内のパストラルで行われた 内閣府経済社会総合研究所主催による 「外国人労働者問題に関するセミナー」の議事録が掲載されています。
私も報告者や司会者として出ています。 ご関心のある方は、下のリンク先をお開記ください。 下のほうに議事録や資料が添付されています。 ↓ http://www.esri.go.jp/jp/workshop/070301/070301main.html
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吹浦 忠正
at 13:29 |
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わが師・末次一郎 [2007年05月23日(Wed)]
わが師・末次一郎が亡くなった年の2001(平成13)年3月をもって私は、日赤の橋本祐子(さちこ)先生にご紹介いただいて以来、28年あまり、直接お世話になり、日々薫陶を受けた末次の事務所を退いていた。
その3年ほど前から、埼玉県立大学教授として招聘されており、満60歳までに就任しなくてはならなかったからだ。
その後は、遠藤時子(現在、日本外国語専門学校の中堅幹部)、山岸丈良(「救う会」事務局次長)、松下薫(東京財団に勤務)、馬場めぐみ(PR関係会社に勤務)といった面々を中心に、若い石川雅子(現在、保健関係の会社員)、小林等(といっても今は葛飾区の区議会議員)や浜野真牟(現在、日本経団連勤務)らと最晩年の末次が活動を全うする上で献身的に活動した。
私も、最も長期間お世話になった者として、もちろん、その後も事務所のことにはいろいろ関わってきたし、末次やご家族の相談も受けてきた。また、家族以外では、最初に虎ノ門病院の臨終のベッドに駆けつけることができた。
その日のことは鮮明に覚えているが、検死のあと、次第に集まってきた上記メンバーらと、故人にゆかりの場所や故人が思いをこめた場所を周遊して、世田谷の自宅にお帰りいただいた。詳しくは、2002年1月号の雑誌「文藝春秋」に「最後の国士・末次一郎」の題で拙稿を掲載しているので、ごらんいただきたい。
私は現在、日本財団の特段のご理解とご厚意により、虎ノ門にユーラシア21研究所を主宰しているが、その主たる活動は、北方4島の返還を実現して日露関係の抜本的な改善を図ること。末次が1973年の初訪ロ以来晩年の情熱を傾けた仕事である。
故人を思うにつけ、わが力不足を痛感する。しかし、「こういう具合なんです。こうしようかと思いますが、いかがでしょう?」と、心の中で問える師匠がいるということは、なんとありがたいことか。
きょうも合掌した。
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吹浦 忠正
at 11:02 |
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旧最北端占守島の手記@ [2007年05月23日(Wed)]
小笠原の父島のことを書いたり、北方領土のことを書いたりしたため、あるいは読者の方に困惑されておられるむきもあろうかと思いますが、申し訳ございません。
筆者としての私は、幕末以来の日本の領土の変遷を人工衛星から見ているような気分で書いていますので、ご迷惑をもかけするかもしれません。
今一度、戦前の日本の領土、1875(明治8)年にロシアから日本に引き渡された領土である、千島列島、その最先端の占守(しゅむしゅ)島に話を戻したいと思います。
今回の文章は、占守島といえば、「別所一家」といわれるほど、この島の主のような存在だった別所家のかかわりについて、ご当主が書かれたものです。数回続きますが、まずはお読みください。
私は、終戦の直前に引き揚げられたと聞いておりましたが、それは間違いでした。終戦まで滞在し、ソ連軍を迎え、苦心の末に引き揚げてこられたのでした。
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戦争すんで平和の消えた占守島
別所 二郎蔵(終戦当時38歳)
私たち一家は戦前、千島列島の占守島に住んでおりました。 シュムシュ島というのは数多い千島列島のなかでも いちばん北の端にある面積が230平方キロにすぎない小さな島です。 当時の樺太でさえその最北端は北緯50度なわけですが、 私の島はそれより北の 北緯およそ51度というところにありましたから 戦前の日本の領土では文字どおり もっとも北側に位置する島だったのです。
ここから船でもうしばらく行けば ソ連領のカムチャツカ半島のロパートカ岬はすぐでした。
面積の230平方キロというのはどれくらいかというと、 これは佐渡ヶ島のちょうど4分の1の大きさと 思っていただければよいでしょうか。 そして、これといって高い山のない平らかな島でした。
また、付近には幌筵(ぱらむしる)と 阿頼度(あらいと)という2つの島があり、 シュムシュ島とあわせて 私たちはこれを北千島と呼んでいたものです。
そのパラムシル島とシュムシュ島とは せまい海峡(パラムシル海峡)をへだてて向かいあい、 片岡湾という良い港がありました。
片岡の向かいになるあちらのパラムシル側は 柏原湾でここも大きな港湾です。
千島列島において北緯50度を越して 北にあるのはこの北千島、 すなわち3つの島々だけですが、 このようにさきほどから私が何回となく 北にある島だとか最北端に位置する島だ とか書いていることから想像して、 どんなに寒い島だったのだろうと 思われる方もいるかもしれませんけれども、 しかし、実際はそのわりでもなく 雪もそんなに積もりませんし、 場所から想像されるような冬の寒さではなかったのです。
ただ、風が強いだけでした。 夏になると湿原や草原に一面に花が咲き、 いろいろな鳥が島にわたってまいります。 そして、周知のように近海では サケ、マス、タラ、カレイ、ニシン、タラバガニなどが どっさりとれ、世界三大漁場の一つでした。
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:38 |
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