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小笠原と佐藤信淵 [2007年05月21日(Mon)]




佐藤信淵は江戸時代後期の経世家で農政学者。今風に言うなら、かなりスケール大きな「アイディアマン」だったといえよう。



 これは、わが母校・秋田県立秋田高校の校歌である。1922(大正11)年制定というから、もちろん当時は秋田中学といっていた時代だ。

 作詞は、「荒城の月」の土井晩翠、作曲は「城ヶ島の雨」の梁田 貞だから、さぞかしい優美な歌かと想像されるかもしれないが、それは違う。質実剛健を図ったのか、「ピョンコ節」の典型である。せめて「ヨナ抜き」でないのが救いというくらい、私は嫌いな曲だった。

1. 天上はるかに太平山の
姿はけだけし三千余尺
長江流れて六十幾里
海へと馳せ行く雄物川波

2. 高きと長きと無言の教へ
紅顔日に日に顧み思ふ
わが生わが世の天職いかに
秋田の高校一千健児

3. 篤胤 信淵 二つの巨霊
生れし秋田の土こそ薫れ
先蹤追いつゝ未来の望み
ゆたかに健児は其途進む

4. 金鉄つらぬく陽気の如く
精神奮いて学びてやまず
敬天愛人理想を高く
おのれを修めて世のためつくす

5. ああ友 桜の旭日ににほふ
園の名「千秋」君また遠く
故山の伝統光をはなち
母校の誉れを拡げよ 四方に

 この「篤胤 信淵 二つの巨霊」にはどうも惹かれなかったし、
はっきり言って何をした人かもよくわからなかった。
 
 野球のライバル校である秋田商業高校の校歌は、
秋田出身の成田為三、
「浜辺の歌」で知られるメロディストであり、
いつもそっちの校歌にあこがれ,
全部覚えていた。

 しかし、今ごろになって、
その信淵と、小笠原の話で関わるとは
思いもよらなかった。

 佐藤信淵、「のぶひろ」と読む。
1769年、出羽国雄勝郡馬音内(現在の秋田県羽後町)生まれ。

 佐藤家は代々鉱山農業の学問を研究していたが、
16歳で父に死別して後、
江戸で蘭学、儒学、天文地理暦算測量を学ぶ。
諸方を遍歴して再び江戸に出、
吉川源十郎や平田篤胤から神道などを学ぶ。
農政経済論を説き、
『農政本論』『経済要録』『復古法』『防海策』『混同秘策』などを著し、
経済統制による統一国家の推進など
西洋の絶対王政のような
空想的な社会改革の必要性を論じた。1850年没。

 その、1820年代の『混同秘策』で、
「青島より又船を出して南海中なる無人諸島、
所謂小笠原島を開発すべし」と説き、
さらにそこを拠点に
南の「強盗島(マリアナ諸島)」や「ヒリピナ」諸島を
開発すべきだと言っているのだ。

  鎖国時代にあってここまで言うというのは、
並大抵なことではない。
「空想的な」といわば言え。

 私は今、当時の信淵が小笠原という無人島の情報を持ち、
関心を抱いていたこと、
そしてそこから日本の発展を夢想したということについて、
この郷里の大先輩を「校歌」が称えていることを、
あながち軽視してはならないと確信している。


欧米系の小笠原島民 [2007年05月21日(Mon)]




 この絵は、沖村で縄遊び(大縄跳び)に興ずる
欧米系の女性たちと見物人。

 後述する水野忠徳の一行に随伴した絵師・宮本元道が
『小笠原真景図』としてのこしたものの1つだ。

 こういう世界が、つまり欧米人が外国語で生活する地域が、徳川時代おいて、本土に比較的近いところに存在していたのだ。

 徳川時代、日本が小笠原をなんら経営しないでいた間に、
小笠原諸島には列強の船が次々にやって来た。

 スペイン、オランダ、イギリス、ロシア、アメリカなどである。

 江戸時代末期になって、英、米、露の3国が領土権を主張して、
自国の領土であることを宣する表示版を立てたり、
地図に記載し、
外交官が主張したりということが続いた。
これについては、別に触れる。

 中でも重要なのは
1830年6月のナサニエル・セーボリなど5名の欧米人と
、約20名のカナカ族の人たちが
ハワイから移住して来たことだ。

これらの人々は農業を営み、
寄港する捕鯨船に水や野菜、
家畜を売って生計を立てた。

 現在、小笠原村役場に勤める
ナサニエル・セーボリ・ジュニアはその7代目の子孫。
教育委員会事務局教育課長の瀬堀 孝さんだ。

 1994(平成6)年に私が訪ねたときお目にかかった。
「高校はグアムに行き、英語で学びました。
復帰後、日本語を懸命に学びましたが、
アメリカ人の血は32分の1に過ぎません」
と笑う。

 今回お電話でいろいろ教えてくださったのは、
総務課のIT推進係をしておられる上部修一さん。
欧米系の一人で、ウェッブ家につながる。
「ほかにも野沢さんといっている
ゲーラーさん(祖父ノーマン・ゲラーは
昭和天皇が1927年に父島を訪問した時、
小笠原の在郷軍人会を代表して拝謁している)や
ワシントンさんはおります。
ワシントン家は、大平、木村、松澤といった姓になっています。
1968(昭和43)年に小笠原が本土復帰した時、
姓を選ぶことができたのです」。
 
 1853年には、
かのペリー提督も日本来航の前に立ちより、
当時盛んだった捕鯨のための薪炭の貯蔵地用として欧米系の住民から50fの土地を購入、ナサニエル・セーボリを長官に任命するなどしている。

 そのペリーが書いた『日本遠征記』が批准書交換のため訪米した一行に渡され、小笠原島に欧米人が定住していることが明らかになり、幕府は大騒ぎとなった。

 急拠、1861年に外国奉行水野忠徳(1810〜68)を咸臨丸で父島に派遣、調査にあたらせた。 父島の旗立山(旭山)にわが国最初の「日の丸」を立てて、日本の領土であることを示したとも伝えられている。

 また、八丈島から38人を移住させた。しかし、国内事情や外国との関係が不安定になったため、わずか10ヵ月ほどで幕府の役人も島民は引き揚げた。

 その後、アメリカから帰ったジョン万次郎が近海で捕鯨を指導したりということもあった。

 日本が本格的に小笠原を経営し始めたのは1876(明治9 )年から。1882(同15)年になって、欧米系の島民にも全て日本国籍を与え、列強も日本の領土であることを確認している。

 爾来70年、綿花、サトウキビ、サンゴ、漁業など、それぞれの時代の主産業は変わったが、次第に人口が増え、太平洋戦争時には、7,000人の住民を数えるに至った。

 戦前は、南極探検の折、白瀬中尉の一行が立寄ったり、北原白秋が保養のため9ヵ月滞在したり、15歳のサトウハチローが父・紅緑の勘気に触れて“島流し”にさせられ、初めて施策に取り組んだり、『李陵』の中島敦が訪問するということもあった。
眼の森林浴 @ [2007年05月21日(Mon)]




















 八ヶ岳南麓にて。5月19日撮影。



 この季節、森を歩くのは快適です。

 若葉と薫風、清流と花・・・

 眼の森林浴をおたのしみください。そしてまた、

自然保護につとめましょう。


マッカーサーへの陳情 [2007年05月21日(Mon)]




 終戦時の根室町長・安藤石典(1886-1955)。北方領土返還運動に最初に立ち上がった人。鳥取県出身。1946年11月の公職追放で町長を退任、その後、「北海道附属島峡復帰懇請委員会」を結成、会長に就任し北方領土返還要求運動の基礎を築いた。




 北方領土返還運動を最初に行ったのは、安藤石典(いしすけ)であったとされる。1945(昭和20)年、終戦の年の12月2日付の下記の文書を携え、再三上京し、マッカーサー元帥に提出した。安藤は根室町長であった。

 交通至難、食料をリュッサックに詰めて列車に乗ったため、ヤミ米の移送と間違われたというエピソードも伝わっている。
  
 ここに全文を記して、拳拳服膺したい。

 安藤は北方4島でのソ連軍の暴挙をあげ、これらの地域は日本固有の地であり、ソ連軍の軍事占領ではなく米軍の保障占領下においてくれるよう陳情している。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★        

 閣下に対し余は現在ソ聯の占領に係るゴヨマイ諸島並に南千島諸島の實情に付陳情することを衷心より光栄に存じます。

一、現在ソ聯軍の占領して居りますゴヨマイ諸島は北海道根室の一部にありまして歯舞村の区域であり千島諸島の内色丹、国後、択捉の三島は日本の封建時代より日本国土でありまして住民は父子相博へて三代乃至五代位も相続して居り1873年(明治7年)日本がソ聯と千島樺太交換条約を締結の際択捉海峡以北の諸島を我領有となし樺太をソ聯の領有に帰せしめたるを以て旧來の択捉、国後を南千島と称し新に交換したる得撫島よりオンネコタン島迄を中千島と称し幌笹島、アライト島、占守島を北千島と称するに至りました。

 而して現在南千島の一に加へられて居ります色丹島はゴヨマイ諸島でありましたが千島、樺太交換条約の際被交換島嶼に居住して居りました土民は国籍選択の自由の原則に従い日本国民たることを希望したる為凡そ20戸を色丹島に移住せしめました其の為め色丹島は根室国の一部たるゴヨマイ諸島でありますのを1873年(明治7年)以後殊更南千島に付け加へ現在に及んで居ります。

二、9月1日ソ聯軍は南千島及ゴヨマイ諸島に対し武力占領を行ひました而して住民の家宅捜索を行ひ金品を掠奪され又銃殺された者等もありますので不安に駆られ小舟艇にて根室町に逃避するものが続出し現在非常な数に上り別表(略−吹浦)の通りであります。

 エトロフ島は根室町と距離遠く小舟艇にては航海不能の為め逃避し得す消息全く不明であります余等はエトロフ島民の安否を非常に気遣って居ります。

三、吾が根室港は南千島及ゴヨマイ諸島を水産圏内として水産業の中心地であります従って産業、経済、人情、風俗全く同一でありまして親子の関係にあります。

 而してその距離に致しましても別図の如く極めて近距離にして地理的にも歴史的にも北海道に附属する小諸島であります。

四、然るにソ聯は以上の小諸島に対し保障占領にあらずして軍事占領を為し住民の自由を拘束して根室港との従来交通を禁し剰へ掠奪暴行の挙に出て住民の不安極度に達しエトロフ島の如きは全然消息不明の現状であります。

 以上の小諸島は北海道でありますから速かに米国の保障占領下に置かれ住民の不安焦燥を除去し賜はらんことを切に懇願して歌まされる次第であります。

五、南千島及びゴヨマイ諸島はカニ、鮭等の生産多く戦争前は之等に依り缶詰を製造し盛んに貴国に輸出して居りました日本がポツダム宣言を忠實に履行する上からも以上の諸島を米軍の保障占領下に置かれ余等をして安んじて是等の生業に就かしめ賜はんことを重ねて嘆願する次第であります。

 以上、概要を申上げ閣下の御明鑑に憩へ一日も早く米軍の保障占領下に置かれんことを偏に梱願する次第であります。

 閣下の御健康と貴軍の御安泰を御祈り致します。
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