小笠原の呼称がおかしい [2007年05月19日(土)]
二見湾に停泊する咸臨丸。絵師・宮本元道『小笠原島真景図』より。宮本は、1862(文久元)年、外国奉行・水野忠徳の一行に「絵図方出役」として随行し、小笠原の調査にあった。
小笠原は「発見400年」を祝ったが、
そもそもこの「発見」があやしい。
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えた頃、
スペイン人探検家ビラボロスがフィリピンから北上中、
今の小笠原諸島を望見している。
1727(享保12)年、
信州深志(松本)の城主・小笠原長時の曽孫・貞頼の子孫と称する
小笠原宮内貞任(くないさだとう)が『巽無人島記』なる
怪しげな文書の写本を提出し、島への渡航の許可を求めた。
それによると、貞頼が朝鮮の役から帰った後、
南海に出航して八丈島の南に無人島を発見、
家康に届けたところ、
「小笠原島」と命名してもらった、ということになっている。
これを、かの南町奉行・大岡越前守がこれを認めて
渡航許可を出したのであった。
しかし、その後、さらに奉行所が調査した結果、
貞頼の存在自体が怪しく、
いたとしても朝鮮の役の頃には幼児に過ぎず、
また、貞任は信州小笠原家とは無関係であること、
家康の肩書きが違っていることなどから、文
書は捏造であると断定された。
このため、貞任は「重追放」に処せられ、
財産の没収、主要地域への立ち入り禁止ということになった。
しかし、明治になって、
200数十年間も無人状態であった島を回収するにあたって、
この小笠原家による発見領有説は都合がよく、
貞任は処断されたが、
その命名した父島、母島、兄島・・・といった島の名も
そのまま定着したのであった。
これに対して、近年、
三河の幡豆(はず)小笠原家の系統に貞頼という名があり、
その姉が御赤印船貿易で有名な
茶屋四郎次郎清延に嫁いでいるから、
確かに存在した人だという説もある。
だが、これも都立小笠原高校の社会科教師であった
鈴木高弘氏(その後、都立足立高校教頭)がその優れた研究論文で
「その人」を発見者とするのは無理と明解に否定しているし、
他の研究書も貞任の主張を否定するものばかりだ。
はっきりしているのは、
1670(寛文10)年1月、
阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門の持船が勘左衛門や
荷主である紀州藤代の長右衛門など7人を乗せ、
大量の蜜柑を積んで、紀州安乗(現・有田市)を出港、
遠州灘で大西風(北西の季節風)と黒潮に流され、
ついに母島に漂着したことだ。
苦心を重ねて生き延び、新たに船を建造し、
約3ヵ月後に下田に戻った。
末長右衛門がきちんと記録をのこしているのだ。
これによって、豊かな無人島が
八丈島のはるか南にあることを知った幕府は、
朱印船のによる遠洋経験の経験を持つ
堺の船頭・島谷市左衛門を登用、
大型船「富国寿丸」を新たに造り、
一行32人を父島に派遣した。
このときは、八丈島から20日間もの探索の末、
一行は1875(延宝3)年4月29日、無事、二見湾に到着した。
このとき、船内に飼っていたニワトリ5羽を放ち、
祠を造営し、
「此島大日本之内也」云々と記して帰還した。
当局への報告の後、
ノヤシ、クワの丸太、鳥、コウモリなど島の産物を
4代将軍家綱に見せたと、
田中弘之『幕末の小笠原』(中公新書)にある。
幕府と島谷らのこのときの業績は、
その後の長期間にわたる無人化にもかかわらず、
日本が領有を図る上で、かなり有効であった。
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Posted by
吹浦 忠正
at 11:11
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