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田植え [2007年05月19日(土)]
















「機械を使わないで田植えというのは、
見るからに大変そうですね」

「こういう狭い田んぼじゃ機械ではムリだよ。すみができないし、隣の苗が浮き上がっちゃうんだよ」。

 山梨県下で見た田植えの風景。懐かしさに浸っているこっちはいいが、植えている高齢者はいかにも大変な様子だ。

「米」という字は「八十八」と書く、88の手間がかかるからだと聞いたことがある。

 いつの時代にも、農家には感謝するほかない。

「収穫は?」

「10月だよ」。

 稲刈りも機械を使わないのかな。


信玄棒道歩き [2007年05月19日(土)]

   


    








 武田信玄の諏訪攻めは、ここ3、4週間のNHK大河ドラマの主要なストーリーだった。

 諏訪攻めで活用され、その後はさらに松本の先、上杉謙信の越後勢の情報を一刻も早く甲府に知らせたり、伊那や三河方面に進出するために造られた山中のバイパスが「信玄棒道」。

 上中下の3筋、さらには信州の南佐久郡にも一筋あったようだが、今残っているのは、上筋といわれるものの一部のみ。およそ海抜1100mの山裾を直進するように走り、時には、岩や石の出っ張った道になっている。

 いまでも馬に乗ったままの人や、山歩きの人、散歩や森林浴の人たちが、行き交う。決して大人数ではない。テレビの影響で、最近は訪れる人が増えているのだそうだ。

 ところどころに水源があり、小川が流れ、花や樹木が歓迎してくれる。

 写真は、江戸時代に、この信玄棒道の脇に盛んに建てられた野仏(のぼとけ)。いまでも40体くらい残っているようだ。気をつけて見ると、享保、嘉永といった年号と寄進した人の名前が彫られている。
若葉の季節 A [2007年05月19日(土)]


  花ばかりではなく、樹木も、このすばらしい季節に、
精一杯、喜びを感じています。

  窓越しに、そんな樹間の空気を感じました。

  さあ、パソコンから離れて、森を歩こう。深呼吸からです。

  小欄でおなじみの石田良介画伯のご厚意で、また、八ヶ岳山麓に来ています。

  



















若葉の季節 @ [2007年05月19日(土)]


















いずれも八ヶ岳山麓で。


 季節感をお届けしたいのです。

 日本の季節の移り変わり、日本の自然のすばらしさは、それをみなが大事にし、愛で、受け継いできたこと。これは私の愛国心の根源かもしれません。





小笠原の呼称がおかしい [2007年05月19日(土)]




 二見湾に停泊する咸臨丸。絵師・宮本元道『小笠原島真景図』より。宮本は、1862(文久元)年、外国奉行・水野忠徳の一行に「絵図方出役」として随行し、小笠原の調査にあった。



 小笠原は「発見400年」を祝ったが、
そもそもこの「発見」があやしい。

 1543年、ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えた頃、
スペイン人探検家ビラボロスがフィリピンから北上中、
今の小笠原諸島を望見している。

 1727(享保12)年、
信州深志(松本)の城主・小笠原長時の曽孫・貞頼の子孫と称する
小笠原宮内貞任(くないさだとう)が『巽無人島記』なる
怪しげな文書の写本を提出し、島への渡航の許可を求めた。

 それによると、貞頼が朝鮮の役から帰った後、
南海に出航して八丈島の南に無人島を発見、
家康に届けたところ、
「小笠原島」と命名してもらった、ということになっている。

 これを、かの南町奉行・大岡越前守がこれを認めて
渡航許可を出したのであった。

 しかし、その後、さらに奉行所が調査した結果、
貞頼の存在自体が怪しく、
いたとしても朝鮮の役の頃には幼児に過ぎず、
また、貞任は信州小笠原家とは無関係であること、
家康の肩書きが違っていることなどから、文
書は捏造であると断定された。

 このため、貞任は「重追放」に処せられ、
財産の没収、主要地域への立ち入り禁止ということになった。

 しかし、明治になって、
200数十年間も無人状態であった島を回収するにあたって、
この小笠原家による発見領有説は都合がよく、
貞任は処断されたが、
その命名した父島、母島、兄島・・・といった島の名も
そのまま定着したのであった。

 これに対して、近年、
三河の幡豆(はず)小笠原家の系統に貞頼という名があり、
その姉が御赤印船貿易で有名な
茶屋四郎次郎清延に嫁いでいるから、
確かに存在した人だという説もある。

 だが、これも都立小笠原高校の社会科教師であった
鈴木高弘氏(その後、都立足立高校教頭)がその優れた研究論文で
「その人」を発見者とするのは無理と明解に否定しているし、
他の研究書も貞任の主張を否定するものばかりだ。

 はっきりしているのは、
1670(寛文10)年1月、
阿波国海部郡浅川浦の勘左衛門の持船が勘左衛門や
荷主である紀州藤代の長右衛門など7人を乗せ、
大量の蜜柑を積んで、紀州安乗(現・有田市)を出港、
遠州灘で大西風(北西の季節風)と黒潮に流され、
ついに母島に漂着したことだ。

 苦心を重ねて生き延び、新たに船を建造し、
約3ヵ月後に下田に戻った。

 末長右衛門がきちんと記録をのこしているのだ。

 これによって、豊かな無人島が
八丈島のはるか南にあることを知った幕府は、
朱印船のによる遠洋経験の経験を持つ
堺の船頭・島谷市左衛門を登用、
大型船「富国寿丸」を新たに造り、
一行32人を父島に派遣した。

 このときは、八丈島から20日間もの探索の末、
一行は1875(延宝3)年4月29日、無事、二見湾に到着した。

 このとき、船内に飼っていたニワトリ5羽を放ち、
祠を造営し、
「此島大日本之内也」云々と記して帰還した。

 当局への報告の後、
ノヤシ、クワの丸太、鳥、コウモリなど島の産物を
4代将軍家綱に見せたと、
田中弘之『幕末の小笠原』(中公新書)にある。

 幕府と島谷らのこのときの業績は、
その後の長期間にわたる無人化にもかかわらず、
日本が領有を図る上で、かなり有効であった。


 

空港建設は夢か [2007年05月19日(土)]



上から、弟島、兄島、父島。(ウィキペディアより)




  
 小笠原は1993年秋、<発見400年・復帰25周年>を祝い、翌年の2月には天皇・皇后両陛下が訪問された。

 昨日書いたように、昭和天皇も1927(昭和2)年、ご大典の前に、小笠原を訪れている。

 両陛下は自衛隊の飛行艇で行かれた。小笠原諸島の一角を成す硫黄島をご訪問して慰霊された後、父島に向かわれた。島の人たちは両陛下を囲んでお話をしたり、握手をしたりといった具合で、島民は離島ならではの接触ができたことを、何より喜んだ。

 私には小笠原の村人たちがあちこちで、自分が撮したという身近な両陛下の写真を誇らしげに見せてくれた。金髪碧眼の欧米系の人たちも同様で、みなさん、まったくの日本人になっている。

 島には飛行場がない。

 戦前は、父島の西端・州崎地区に800bの滑走路を持つ飛行場があり、羽田と硫黄島の経由地になっていたが、今は運動場になっている。飛行場建設は小笠原島民の夢だ。

 既にこの州崎空港を海上まで延長する案や父島とは目と鼻の先の兄島に建設する案などがあり、具体的な調査も終わった。

 州崎案は滑走路の海上までの延長が難工事であり、環境破壊にもつながるという難点があり、兄島案は道路や父島までのロープウェイ建設などの付帯工事費用がかさむという問題があり、これは潰れた。

 父島まで大型高速フェリー「スカイライナー」という案もあるが、膨大な燃料費、維持費、接岸できる港の建設など課題が多く、船はできたまま、案は消えた。

 空港建設には、500億とも1,000億ともいわれる経費がかかり、その出所がない。都は歳入不足に悩み、国には住民2,000人の小笠原より居住者の多い離島がたくさんある以上、小笠原だけを優先しにくいという事情がある。

 また、空港ができたら観光客はウナギ登りに増えるという予測も可能だが、それでは今度は貴重な自然環境が保てなくなる。この難問解決に、今のところ妙案はない。
風林火山が島で [2007年05月19日(土)]





  13年前、小笠原では「おしん」ブームだった。

 毎朝8時になると、島民は衛星放送に釘付けになる。「おしん」が初めて全国放送されたのは1983(昭和58)年だったから、11年遅れということになる。

 全国放送された時、島ではまだテレビがいっさい放映されていなかった。
 
 翌年になってようやく衛星放送が映るようになり、島民の中にはBSがしばしば報道する欧米の自転車レースやアメリカのプロ・バスケットボールに妙に詳しい人がいたりする。ほかに見る楽しみが少ないからといっていた。
 
 ラジオも中波では良く聴こえないこともあるとか。
 
 新聞は3日ないし1週間遅れ。おまけに特別料金で高いものになっている。
「記録的な意味と読書欄が重宝だから」とされている。もっとも本を注文しても入手までは早くても1ヵ月とか。

 昨日、知り合いに電話で訊いてみたら、最近は「新聞は減りました。パソコンで何でも知ることが出来ますから」とのことだった。

「今は風林火山ですね。海の暮しですから、山の話には特別な関心がありますし」とも語っていた。