軍艦旗を渡されて [2007年05月18日(Fri)]
もちろんこれが日本の国旗です。寸法が小さいのは、皆さんがご存知のとおり、私に大きくするパソコン技術がないからです。あしからず。 これが旧「軍艦旗」、今は「海上自衛隊旗」 国旗の話は1つ書くと止め処がなくなるので、15分後には国会に向かわねばならない今、1つだけ書いておきたい。
1963年、ところはジュネーブ。赤十字誕生100周年記念「青少年赤十字世界大会」というのが開かれる前日。
リハーサルで手渡された日本の国旗はなんと「旭日旗」。かつての「軍艦旗」。今も当時も「海上自衛隊旗」であった。
団長だった橋本祐子(さちこ)日本赤十字社青少年課長は、 「これは国旗ではない。リハーサルでも使いたくない」と拒否。
「なんとかそういわずに我慢してほしい。もう今からでは間に合わない」 「そういう問題ではない。では、私が一晩で作って見せる」。
それからが大車輪。1.2×1.8mの「日の丸」を、原反の切り抜き・縫いつけで作るのは、並大抵のことではないのです。円が歪まずに1時間で縫えたらカップルでハワイというくらい、難しいのです。
しかし、そこはさすがに「明治の女」。やってのけたのです。
ほっと一息、風光明媚なカフェでコーヒーをというとき、目の前を日本人の(少なくとも吹浦さんよりはカッコいい)若者(当時)が通りかかった。
「キミキミ!」 「はぁ?」 「何やってるの? 名前は?」 「細川忠Wっていいます。何ってイギリスからの留学の帰り道にちょっと立寄っただけですよ」 「侍のような名前ね」 「はぁ、先祖は多少名のしれた大名でした」 「あら、じゃ、熊本のお殿様の子孫ってことよね」 「ま、そんなわけでして。ところで何か御用でも・・・」 「明日、国際赤十字の世界大会に日本代表の一人として参加しなさい。あなたカッコいいわよ。日本人としては断然大きいし。好男子!(とまで言ったかどうか・・・)
かくして、細川青年は、翌日、にわか旗手として参加したのでした。
帰国後、かねて親しい島津忠承(ただつぐ)日赤社長(当時)に今後の就職のことも相談がてらに挨拶に行くと、 「そりゃ、橋本さんに会ったら誰もかなわない。せっかくの縁だ。日赤に来ないかね。(履歴書を見ながら)ほうほう、忠Wくん、きみは5月8日生まれなんだね。この日はね、赤十字の創設者アンリ・デュナンの誕生日なんだよ。これもまた縁というものだ」。
この青年が、今、日本赤十字社の社長であるわが畏友・近衞忠Wさん。細川元首相の実弟である。
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吹浦 忠正
at 14:09 |
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「日の丸」を忘れた話 [2007年05月18日(Fri)]
テコンドー全日本協会が、18日から北京で開かれる世界選手権に、国旗と国歌のCDを忘れ、大使館から借用して一時しのぎをしたという報道が、asahi.comで流れている。
報道によれば、大会の組織委員会が「表彰式用に国旗2枚と国歌のCDを持ってくるように」と文書で通知していたが、全日本協会が見落としていたようだ。現地入りした選手団は、16日夕に初めてそのことを知り、あわてて日本大使館に頼み、規定の大きさとは違ったものの、組織委に17日、提出した。 組織委によると、日本以外にも数カ国が持ってきていなかったという。協会関係者は「せっかく借りたので、何としてでも表彰式で国旗を揚げないといけない」と自覚を新たにしているそうだ。
オリンピック憲章では、各国の国旗はequal sizeとするとある。しかし、各国に国旗を持参させると、材質、大きさ、ロープにつけるフックの形状などが異なり、組織委員会が製作するのが通常である。縦横比の違いも扱いに苦慮するところであろう。
テコンドーの場合、室内掲揚であり、あるいはフックの問題は解消されるかもしれないが、表彰式などではどうするのだろうと、1964年の東京オリンピック以来、その仕事に携わってきた者として、心配してします。
来年の北京オリンピックではどうするのか。このままでは、おそらく、いろいろ失敗や珍談奇談が出てくるのではないかと案じられる。なんなら私がボランティアで監修に行ってあげたいくらいだ。
中国さん、国旗のことは、甘く考えなさんなよ。失敗談はいくらでもあるんですから。
東京大会では私は3年間、その準備に当たったし、その前も後のオリンピックや世界選手権大会でも、担当者はみな、なみなみならぬ苦労を重ねているんだから。
それにしてもテコンドー協会のお粗末さは、情けないというほかない。ポカリとやりたいくらいだが、相手が強すぎる!?
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吹浦 忠正
at 13:46 |
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パパがパパ(父)島へ [2007年05月18日(Fri)]
父島。小笠原観光協会のHPより「パパ(父親)・ブッシュ」もまた、縁あって、最近、「パパ島」ならぬ父島を訪ねた人。
第41代米国大統領ジョージ・ブッシュは、78歳だった2002年6月18日、 「思い出の地」父島を訪問した。
同元大統領は、1944年、太平洋戦争で海軍士官として対日攻撃に参加し、搭乗した艦載機が小笠原方面で撃墜された経験をもつ。 幸い、近くにいた米潜水艦「フィンバック」に救助された。こうした功績に、航空殊勲十字章などいくつかの勲章が授与され、帰国直後の1945年1月6日に、バーバラ・ピアスさんと結婚、6人の子供をもうけた。
九死に一生を得てから58年目に、海上自衛隊の大型ヘリで父島に降り立ったブッシュ元米国大統領やベーカー駐日大使ら一行を、島民や小中学生など約350人が、手に手に日米両国旗を持ち歓迎した。
出迎えた宮澤昭一村長、村議会議員らに感謝の意を表した後、歓迎式典で、ハイビスカスのレイを贈られた。 当時の報道を総合すると、同元大統領は、到着した初日、村長主催の歓迎午餐会の後、ペリー提督記念碑のある大神山公園で、記念植樹を行った。その後、島民を前に、スピーチした。会場には欧米系島民も多数参加していた。 終了後、ブッシュ元大統領は、欧米系島民ら一人一人と握手、代表のエイプル・セーボリーさんから、記念品としてカヌーの模型を贈られた。
小笠原中学校の生徒たちは英語で「ウェルカム」を連発、元大統領は握手ぜめに笑顔で一人一人に応じていた。 ブッシュ元大統領のスピーチは概要以下の通り。
☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆
父島、母島の皆様、村長のご厚意に感謝申し上げます。 本日、私が日本政府の賓客としてこの場所に立つことが出来ましたことことを、小笠原の皆様のみならず、東京にいらっしゃる日本政府の皆様にも大変感謝申し上げます。また、私はこのことを大変名誉に思っております。
今朝ヘリポートに降り立ちました。その時に皆様から温かい歓迎を受けました。それはとても感動的でしたし、また、そのことに心から感謝いたしております。
米国人である私にとり、この小笠原諸島にいらっしゃる皆様が、日本人としての文化や伝統を護持されておられるのは当然ですが、私同様、アメリカ人が先祖の方もこの地にはいらっしゃると聞いて、大変感激しています。
1944年9月2日、私が操縦していたアメリカ海軍の雷撃機ヒーデム・アベンジャー型機は、空母から出発いたしました。前日の1日、私が父島方面の最初の任務に就いたときは、あまり対空砲火は激しくはありませんでした。ところが2日に、私が出動した時には、対空砲火で空が真っ黒に覆われていました。そして私の飛行機はその砲火を受け、ここからそんなに遠くない海面に墜落されたのでした。
同じ飛行機に乗っていた二人の戦友は、その時に亡くなりました。私は今でもそのことに責任を感じ、痛恨の念を抱いております。当時、父島と硫黄島にいた日本軍の兵士たちは、アメリカの水兵や陸軍の兵士に対して激戦を展開していました。そして私たちアメリカの軍人も当然ながら、それに対抗していました。
しかし、時というものはすべてを癒すものです。今、こうして立っている私は、日本の人々、そして小笠原の人々の皆様に対して、友情と尊敬のみを強く感じているのです。
1944年9月2日から長い月日が経ちました。そして私の長男、その時は生まれてもいなかった長男が、今はアメリカ合衆国の大統領という職務を担っております。そして私はそのことを非常に嬉しく思う父親となっております。
そして私はこのことを日本の皆様、特に父島の皆様に申し上げたい。私の息子は、今、私が感じているのと同じような尊敬と愛情を日本の皆様に抱いております。 今日集まって下さった皆様は、78歳の私、元アメリカ軍のパイロットを大変幸せにして下さっております。そしてそのことを大変感謝申し上げます。私はアメリカに帰ってからも、今日経験したことを、できるだけ多くの人々にお伝えしたいと思っております。 本日はありがとうございました。そして神の祝福を皆様に。
〃★〃☆〃☆〃☆〃★〃☆〃☆〃☆〃★
ちなみに、長男である、今の第43代大統領ジョージ・ウォーカー・ブッシュ( George Walker Bushは, 1946年7月6日生まれ。
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吹浦 忠正
at 09:20 |
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小笠原に行くには [2007年05月18日(Fri)]
1994(平成6)年のGWを活用して、小笠原の父島に行った。
もう13年も前になり、もちろん、その後の変化もあるが、基本的に小笠原の置かれている状況や問題は変わっていないようだ。
以下は、当時、「新樹」という、月刊の政策研究・国民運動紙(末次一郎発行、私はその新樹会事務局長で「新樹」の編集長であった)に寄稿したものがベースであり、それに大幅な加筆修正をしたものである。
一般の人にとって小笠原との交通手段は3,552dの小笠原丸(小笠原海運)に限られる。
東京・竹芝桟橋を午前10時に出ると翌日の午後3時に父島の二見港に着くというのが日程表の時間だが、私の乗った時はこれが1時間以上遅れた。
ともあれ、東京から船で30時間近くはかかるということになる。 無理もない。父島までは南に約1,050`、母島はさらに南に50`、離れている“孤群島”なのだ。
スタビライザー(自動船揺れ調整装置)がついて、揺れが少ないのはありがたい。 乗り合わせた船客は約800人、遊泳中の鯨を眺めるホエール・ウォッチングとスキューバー・ダイビング(海中遊泳)、サーフィンを楽しもうという若者たちがほとんど。お似合いのカップルもたくさんいた。 私の渡航目的は、北方領土問題を考える上で参考となることがないかとの調査であった。だから、かなりの量の書類や資料を抱えて乗り込んだ。そんな無粋な乗客は、まず見当たらなかった。
小笠原への観光客は1979(昭和54)年に年間2万人を突破、これがその後あまり伸びないのはこの距離と船旅という時間、船酔い、宿舎などハード面に限界があることによる。
宿舎の点はその後やや改善されたが、依然、船旅が続いている。
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吹浦 忠正
at 08:06 |
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