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朝日新聞で「霜夜狸」が [2007年05月15日(火)]





 DVD「霜夜狸」はお近くの本屋さんで申し込めます。







 八ヶ岳山麓のアトリエでの石田良介画伯



 小欄でおなじみの石田良介画伯の名前を、朝日新聞(夕刊、5月14日付)のコラム「窓−論説委員室から」で見つけた。



  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃

 寒風に凍(こご)えて一夜の暖を求めた古狸と、先立った息子をしのび山番をつづける老人。その心の交流を描いたDVD「霜夜狸(しもよだぬき)」を堪能した。
 人里はなれた山中での心温まる情景や式の移り変わりが、森繁久弥さんの一人語りと、石田良介さんの細密な切り絵「剪画」で展開される。アニメと紙芝居が融合したような作品だ。

 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃


 コラムはまだまだ続くが、それは紙面でご覧いただきたい。

 筆者の荻野博司論説委員が「堪能した」と書いているくらい、情感のこもった、感動的な作品である。

 忌まわしい事件が連日のように報道される中にあって、「自らも長男を失い、逆縁の悲しさに耐えた森繁さん」、今月で94歳になられたそうだ。

「もちろん今なおご健在です」と石田画伯からお話を聞いたばかり。この作品のすばらしい出来上がりで、きっと喜んでおられるに違いない。

 願わくば、朗読した他の作品についても、石田画伯の剪画で、甦らせてほしいと、私は期待している。拙著『歌い継ぐ日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)など、表紙のすばらしさをはじめ、ほとんど、石田画伯の剪画で売れたようなものであることをよく知っているからだ。
ツシマヤマネコ [2007年05月15日(火)]







 ツシマヤマネコ。対馬野生生物保護センターのHPから



 
 日本の領土を総合的に紹介しようとしている。ついては、動植物についても、できる限り触れてみたい。

 イリオモテヤマネコについては今さら語ることもあるまい。

 沖縄県石垣島のすぐ西に位置する西表(いりおもて)島にのみ生息する野獣、ノウサギなど肉食を好む。

  西表島には「日本最南端・最西端の温泉」がある。
その名も、「やまねこの湯」。

「沖縄独特の赤瓦を使った屋根と素朴な岩風呂が
ジャングルの雰囲気を一層引きたてる露天風呂」というのがウリ。

 イリオモテヤマネコが絶滅の危険から
要保護動物になって久しいが、
同じヤマネコという名の動物で、
やはりしっかり保護しなくてはいけないものに、
ツシマヤマネコがいる。

 毎日新聞(2007年5月9日付)では、
環境省と長崎県が8日、
同県対馬南部の下島(しもじま)で、
国の天然記念物「ツシマヤマネコ」の生息を
自動カメラによる撮影で確認したと発表したことを報じている。

 対馬にだけ分布し、
1980年代以降は減少して絶滅の危機にあるツシマヤマネコは、
2つある対馬の上島(かみじま)での生息は確認されていたが、
下島での確認は、
84年5月に交通事故による死体が発見されて以来
23年ぶりである。
このため、下島では絶滅の恐れも指摘されていた。

 同紙はさらに詳しく、以下のように報道している。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 環境省の委託を受け、調査している(長崎)県が、
今年1月17日から対馬市厳原(いずはら)町の
内山周辺の林内3カ所にカメラを設置。

 3月2日未明に撮影したフィルム(4月26日回収)を
土肥昭夫・長崎大教授(動物生態学)と
伊澤雅子・琉球大教授(同)が分析した結果、
成獣のツシマヤマネコ1匹が写った連続写真2枚が
あった。性別は不明だが、
体形や毛並みから栄養状態は良好とみられるという。

 県は撮影場所の周辺などで
ツシマヤマネコのものとみられるフン51個も採取。
これらをDNA鑑定し、
ツシマヤマネコのフンかどうかを確認するとともに、
他にも生息していないかも調べる。

 ツシマヤマネコは、
モンゴル、中国北部、朝鮮半島、済州島、
そして対馬に分布している。

 これほど広範囲に生息している動物を、
「対馬」の名を冠して呼ぶのは適切ではないとして、
「チョウセンヤマネコ」または
「マンシュウヤマネコ」と呼ぶこともあるというが、
これはいかがなものか。

 タイにいてもインド象である。
 何かにつけて対立するパキスタンでさえ、
インド象と言っている。

 要は、どこが最初に学術的に紹介したか
ということではないのだろうか。

 このツシマヤマネコ、
60年代には全島で300匹程度の生息が推定されていたが、
動物の絶滅を防ごうとして作成されているレッドデータブックでは、
最もその恐れの高い種に分類されている。

 今度は、
これを保護しないと
対馬のそして日本の恥になるということになる。
講演会へのお誘い [2007年05月15日(火)]




「虎ノ門フォーラム」開催のおしらせです。

 ユーラシア21研究所では、下記の文書を発送して、新しく始める「虎ノ門フォーラム」開催のご案内をしています。どなたでも参加できますので、お誘い合わせの上、ご出席ください。

 なお、今後のあり方については、そのときにみなさまにおはかりしたいと思います。

 以下がご案内状です。出席ご希望の方は、下記ユーラシア21研究所まで、ファックスもしくはメールにてご連絡いただけましたら幸いです。みなさまのご参加をお待ちしております。


   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


謹 啓
薫風の候 各位におかれましては、ご壮健にてご活躍のことと拝察いたします。

東京財団在職中は、虎ノ門DOJO(道場)にご協力くださいまして、まことにありがとうございます。満5年間、虎ノ門DOJOを毎週開催できましたことは、社会的な意義があったと、お励まし下さる方も少なくなく、恐縮いたしております。

既に皆様にはご理解いただいているかと思いますが、私は昨年末をもって東京財団を円満退職し、日本財団の多大なご支援によりこのほど、虎ノ門にユーラシア21研究所を開設することができました。ロシア研究と日露関係についての政策提言、情報発信が主たる活動でございます。

つきましては、外交・安全保障などにご関心とご高見をお持ちの皆様にお集まりいただき、率直な意見交換の場を設けさせていただきたく、第1回虎ノ門フォーラムのご案内をお送りいたします。

なお、当面は随時に開催することになると存じますが、今後の運営の仕方につきましては、みなさまにご相談しつつ、有意義な場にしてまいりたいと考えておりますので、よろしくご協力をお願い申しあげます。

時節柄、一層のご健勝を祈念いたします。
                           敬 具

             記

講  師: 木村  汎 (当研究所理事、北海道大学名誉教授)
コメンテーター: 袴田 茂樹 (当研究所理事、青山学院大学教授)
テ ー マ: 「プーチン・ロシアの今後--日本のしかるべき対応」
と  き: 2007年5月31日(木) 14:00〜15:30 (開場13:30)
と こ ろ: 海洋船舶ビル10階ホール
港区虎ノ門1-15-16 Tel: 03-3500-1215
                           以 上


*聴講は無料です。ご参加をご希望の方は下記の事項をご記載の上、MailまたはFaxにてお知らせください。
   Mail: info@eri-21.or.jp
   Fax: 03-3500-0215
   記載事項: 氏名(ふりがな)、
 連絡先(メールアドレスもしくはFax番号をご記入ください)
 所属・役職(現職・元職別)
   ・件名は「虎ノ門フォーラム参加希望」としてください。
   ・今後のご案内は、MailもしくはFaxのみといたしたいと存じますので、
    恐れ入りますが、連絡先を必ずご記入くださいますようお願い申し上げます。

*会場は定員100名のため、出席希望者多数の場合は立ち見となる可能性がございますので、あらかじめご了承ください。


サイパンの歴史 [2007年05月15日(火)]




 Saipan Information CenterのHPから



  サイパン島は太平洋の航海上の要路にあり、これまで、300年に及ぶスペインの支配を受けた後、ドイツ、日本の統治を受け、そして現在はアメリカの支配下にある。

  サイパンの歴史を年表で示そう。

1521年3月6日 マゼランがマリアナ諸島を発見。

1565年、スペインがマリアナ諸島の領有を布告。以後3世紀、スペインの統治下に。

1668年、イエズス会の伝道使節団(サンヴィトレス神父)グアム島へ。

1670年1月、サイパン島で島民による伝道師殺害事件が発生。その後十数年に及ぶスペイン=チャモロ戦争に発展。スペイン軍が島民を虐殺。

1695年、アナタハン、アグリハン両島などスペインがサイパン以北のマリアナ諸島の住民をサイパン島に強制移住。

1698年にサイパン島の全住民がグアム島へ強制移住、以後、サイパンは無人島。

1815年にカロリン諸島(現ミクロネシア連邦)のサタワル環礁から、アグラグ酋長以下の一団が移住。チャモロ人の帰島も認められ、サイパンは有人島へ。

1898年、米西戦争で破れたスペインはサイパンはじめマリアナ諸島をドイツに売却。流刑地に。

1914年7月、第一次世界大戦勃発。
    10月14日、日本、赤道以北の南洋諸島全体を占領。
1920年、国際連盟の委任統治領となり、事実上、日本の支配下に。
同年、日本政府は南洋庁サイパン支庁(本庁はパラオに)を設置、内地から南洋への玄関口となる。

1943年8月現在、台湾人、朝鮮人含む日本人29348人、チャモロ人、カナカ人3926人、外国人11人との統計が残っている。

1944年6月、激戦を経て、米軍の軍政下に入った。当時、B29爆撃機がサイパンから発進し、ほぼ日本全土を爆撃して帰還できるため、太平洋戦争の勝敗を決した戦いといっても過言はない。

  硫黄島はサイパンと東京の中間点にあり、空爆に向かう米軍機としては、その滑走路の自由使用が戦争遂行上きわめて重要であった。

1947年、国連のアメリカ信託統治領。

1981年1月9日、北マリアナ諸島としてアメリカの自治領となる。但し、周辺の北マリアナ諸島以外の島々(パラオ、ミクロネシア、マーシャル)は次々と分離独立する道を選んだ。

  第1次世界大戦後25年間、日本が統治していただけあって、現地の言葉には事務用語、教育・交通関係用語など、日本語の単語が数百も入り、いずれも親日的であり、かつ、日本から3時間程度という便利さもあり、マリン・スポーツを楽しむ人など、日本からの観光客がとても多い。
両陛下のサイパンご訪問A [2007年05月15日(火)]
   
    


  2005年に行われた、天皇皇后両陛下のサイパンご訪問については、一部に、相変わらずの批判もあったが、私は大変有意義なものだったと確信している。

  さまざまな記事やHPを拝見したが、「サイパン私的指南」www.gosaipan.com/from-saipan/from-saipan-050815.html と題する、在留邦人の方のが、一番公平で、素直な報告だと思うので、ご紹介したい。


    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★    

 天皇皇后両陛下のサイパン慰霊旅行には、賛否両論ありました。事実、韓国人は太平洋戦争中、日本からサイパンに連れて来られ、多くの人々が日本人同様犠牲になりました。

 そういった背景から、感情的な発言とか運動がなされたようです。太平洋戦争で家族を亡くされた方々の間でも、(形式だけの慰霊旅行に)批判的な方も少なくなかったようです。


 それでも、天皇皇后両陛下は、サイパンを訪れました。

 スーサイドクリフやバンザイクリフにて、両陛下が頭をさげ、犠牲になった方々へ黙祷を捧げたあの姿を見た時、私は感動せざるを得ませんでした。

 私は別に天皇崇拝でも何でもありませんが、あの姿はとても印象的でした。

 前日の予行演習では予定に入っていなかった、韓国人の墓碑にも立ち寄り、黙祷を捧げるという事があり、シークレットサービスが慌てたという話も後で聞きました(日本のテレビでもニュースになりましたよね)。

 サイパン来島反対派の多かった韓国人協会などが、後日、天皇皇后両陛下に対して感謝の意を込めた謝辞を新聞に掲載をしたことも、私たちをほっとさせました。

 この時期、多くの報道陣がサイパンに集まり、何人かの方とお話する機会がありました。

 天皇陛下は

「数々の犠牲になった尊い命があったからこそ、現在の日本の繁栄があり、その犠牲になった方々を慰霊することこそ、自分自身の生涯をかけての仕事である」

とお考えだということを、伺いました。
 
 今まで何の興味も無かった「天皇」に対し、今回のサイパン慰霊旅行を通して、その誠実さと自己への謙虚な姿勢を、ものすごく身近に感じることができたことは、一日本人として、個人的にも非常に良かったと思っています。

 激戦地となったここサイパン島。両陛下の初の慰霊訪問を終え、8月15日は、今年で60回めを迎える日本人の終戦記念日です。天皇皇后両陛下のご来島により、サイパンで亡くなられた多くの戦争犠牲者が供養されたことを、ゴーサイパンスタッフ一同、信じてやみません。


両陛下のサイパンご訪問@ [2007年05月15日(火)]



 サイパン島(ウィキペディアより)





 小笠原への今上陛下のご訪問は、1994年のことでした。

 父島、母島、そして硫黄島まで巡幸されたのです。

 これは前年の復帰25周年を祝ってのことでしたが、このあと、2005(平成17年)年になって、両陛下は、サイパン島を訪ねられなました。

  以下は、それに先立つ6月27日の天皇陛下のお言葉です。その中にあるように、1919年から終戦まで、サイパンは国際連盟の委任統治領として、事実上、日本の統治下にありました。

  日本の領土について記すには、どうしてもサイパンのことについて触れておかねばならないような気がします。


   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 終戦60年に当たり,サイパン島を訪問いたします。

 サイパン島は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領になり,沖縄県民を始めとする多くの人々が島に渡り,島民と共にさとうきび栽培や製糖業に携わるなど,豊かな暮らしを目指して発展してきました。

  しかし先の大戦によりこの平和な島の姿は大きく変わりました。

  昭和19年6月15日には米軍が上陸し,孤立していた日本軍との間に,二十日以上にわたり戦闘が続きました。

  61年前の今日も,島では壮絶な戦いが続けられていました。

  食料や水もなく,負傷に対する手当てもない所で戦った人々のことを思うとき,心が痛みます。

 亡くなった日本人は5万5千人に及び,その中には子供を含む1万2千人の一般の人々がありました。

  同時に,この戦いにおいて,米軍も3千5百人近くの戦死者を出したこと,また,いたいけな幼児を含む9百人を超える島民が戦闘の犠牲となったことも決して忘れてはならないと思います。
 
  私どもは10年前,終戦50年に当たり先の大戦で特に大きな災禍を受けた東京,広島,長崎,沖縄の慰霊の施設を巡拝し,戦没者をしのび,尽きることのない悲しみと共に過ごしてきた遺族に思いを致しました。

  また,その前年には小笠原を訪れ,硫黄島において厳しい戦闘の果てに玉砕した人々をしのびました。
 
  この度,海外の地において,改めて,先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。
 
 私ども皆が,今日の我が国が,このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを,これからも常に心して歩んでいきたいものと思います。
 
 終わりに,この訪問に当たり,尽力された内閣総理大臣始め我が国の関係者,また,この度の私どもの訪問を受け入れるべく力を尽くされた米国並びに北マリアナ諸島の関係者に深く感謝いたします。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

  2005年のこのサイパンへのご訪問は、まさに慰霊の旅でした。米軍に追い詰められた日本兵や民間人が「天皇陛下、万歳」と叫びながら絶壁から飛び込み、自決したとされる「バンザイクリフ」の情景は、今でも時々、放映されることがありますが、私はそのつど涙が止まりません。

  いまはとて島果ての崖(がけ)踏みけりし
     をみなの足裏(あうら)思へばかなし
 
  これはこのときの皇后様のお歌。

  私は未だサイパンを訪れたことはありません。そう遠くないうちに、あのクリフに立ち、「をみなの足裏」を確かめつつ合掌して期待と思っています。
日本領になれた小笠原 [2007年05月15日(火)]




 
幕府が1861(文久元)年に、咸臨丸を小笠原島に派遣したころの父島
(小笠原嶋図絵より)






  日本の最東端・南鳥島を含む小笠原の島々は
あやうく、欧米の領土になるところだったのです。

  小笠原村のHPに以下のように記されています。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

  小笠原諸島は1593(文禄2)年、
信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により
発見されたと伝えられています。

  人が最初に定住したのは江戸時代後期の1830(文政13)年、
欧米人とハワイの先住民でした。

  その後、江戸幕府や明治政府の調査、開拓により
1876(明治9)年には国際的に日本領土として認められます。

  大正から昭和初期には、
亜熱帯気候を活かした果樹や冬野菜の栽培が盛んになり、
漁業ではカツオ、マグロ漁に加え、
捕鯨やサンゴ漁などを中心に栄え、
人口も七千人余を数えるなど小笠原の最盛期を迎えました。

  豊かで平和な島「小笠原」は、
太平洋戦争により大きな転機を迎えることになります。

  昭和19年、戦局の悪化により、
軍属等として残された825人を除く
全島民6,886人が内地へ強制疎開させられました。

  敗戦により、小笠原は米軍の占領下に
置かれることになります。

  昭和21年、欧米系の島民に限り帰島を許されましたが、
他の大多数の島民は故郷への帰島は許されず、
慣れない土地での苦しい生活を強いられることになります。

  昭和43年6月、小笠原諸島は日本に返還され、
島民の帰島がようやくかなうことになりました。
戦後23年間にも及んだ空白を埋めるために、
国の特別措置法のもと様々な公共事業が推進され、
新しい村づくりが進められています。

  太平洋戦争の激戦地となった硫黄島では壮絶な戦いの末、
日本軍が玉砕し、
日米両軍合わせて二万余名もの尊い命が失われました。
返還後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから
硫黄島への帰島は実現せず、
現在は自衛隊基地及びその関係者だけが在島しています。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 簡潔明瞭、これに尽きるといえばそれでおしまいですが
、ことはそう簡単ではありません。

 私はホンネの部分で、江戸幕府や明治政府は
よくぞ、小笠原を日本の領土にしてくれたと、
その功績を讃美したいのです。

 まず、「小笠原貞頼により発見」といいますが、
当時の「信州深志城主の曾孫」にそんな名前の人は
いないのです。
ま、国際法上、
発見は大した問題ではないということもできましょう。

 では、日本は先占したのでしょうか。

 これも怪しいものです。
1830年、白人5人とハワイの先住移民20数人が父島に上陸、
最初の居住者となったのです。
この後も、ハワイからの移住者や、
捕鯨船、探検船の乗組員で
そのまま住み着いてしまった人たちも結構いるのです。

 ですから、ペリーが1853年、浦賀に来る直前に立ち寄ったとき、
十分英語が通じ、
住民代表のセーボリーらと薪炭の
引渡しの約定まで交わしているのです。

 その後、各国がこの島の領有に関心を持ち、
イギリスは領有の宣言までしました。

 そこで、幕府は、大慌てに懸命に開発を図りました。
八丈島から50人が出かけて行ったり、
咸臨丸が立ち寄ったりもしました。
今でも旗立山と呼ばれている父島の二見湾の上に、
大きな日の丸を掲げるということもしました。

 結局、日本のものであることがはっきりしたのは
1876(明治9)年のことでした。
これで収まったのにはいくつか理由があります。
第1は、各国ともあまり実際の支配に熱心でなかったこと、
第2は領有に関心を抱く国が複数だったこと、

 しかし、3番目の理由が一番、決定的だったのです。
それは、この島々を英語で、
Bonin Islandと呼んでいたことです。
 
 Boninは無人(むにん)が訛ったもの
と考えられたからです。
陸島と洋島 [2007年05月15日(火)]



   日本の典型的なサンゴ礁である、
最東端の島・南鳥島。周辺は深海である。
(海上保安庁提供)





 日本の東西南北端からはじまって、
辺境の島々について、小欄では積極的に書いてきたし、
これからも書くつもりだ。
 そこに、ある国際政治学者である読者の方から
世界と日本の島の生成構造について
一度、触れておいたほうが理解が進むよ
との助言をいただいた。

 そこで早速・・・。

 島を大別すると、基本的に「陸島」と「洋島」
とに分けられる。

大陸の近くに並ぶのが「陸島」、
かつて大陸と陸続きであった島々
、「大陸島」ともいう。

一方、広大な大洋上に散在し、
過去に大陸と地続きになったことがない島々が「洋島」。
「大洋島」ともいう。

「洋島」はその形状によってさらに幾つかに分類されるが、
成立の基本は海底火山である。

日本列島は大まかに言えば「陸島」であり、
環太平洋造山帯に属し、
度重なる造山運動と火山の噴火によって形成されたとされる。
ミクロネシアのマリアナ諸島、メラネシアの大部分、
ニュージーランドも「陸島」である。

 これに対し、
「洋島」は海面下数千mの海底からマグマが噴出し、
火山となり、
ついには、海面から顔を出し、
玄武岩質の島を形成する火山島となったものだ。

 岩からなる沿岸にはサンゴが生育し、
やがてサンゴ礁を造成する。
裾礁(フリンジ・リーフ)である。

 火山島はそれ自体巨大ではあるが、
日本の近くでは、
さらに巨大な大平洋プレート上にあるので、
年に数センチずつとはいえ、西に移動し、
やがて水中に没するのがほとんどだ。
明神礁がその典型である。

 さらに時間が経つと中央の火山島が海没し、
周辺のサンゴ礁島だけが海上に姿をとどめる。

 これが環礁(アトゥール)であり、
中央にできた水域が礁湖(ラグーン)である。

 これがさらに進み、最終的には礁湖も消滅し、
卓礁(テーブル・リーフ)が残る。

 ツバル共和国、モルジブ共和国をはじめ、
こうした島々が地球の温暖化による海面の上昇で
水没の危険にさらされているのは憂慮すべきことだ。

 しかし、原爆実験で世界に知られたビキニ環礁(マーシャル共和国)では、
水没した火山の上に、780mにも及ぶサンゴ層の堆積が
確認されているのだそうだ。
 
 地殻変動で隆起することもある。これを隆起サンゴ礁という。

 ポリネシアのハワイイ諸島、サモア諸島、
クック南方諸島、ソシエテ諸島、オーストラル諸島、
マルキーズ諸島等の主要島は火山島だ。

「洋島」はしばしば海鳥の中継地となっている。
このため頂上付近の台地が
鳥の糞で埋め尽くされている島々もある。

ミクロネシアのオーシャン島や
ナウル共和国のナウル島に代表される。

「洋島」には、
@花の種子のように
風や鳥によって運び込まれて分散し成長できる生物と、
A渡り鳥のように自力で飛翔移動ができる生物、
B海流に乗って漂着した生物で、
一般的な生育条件にかなうものだけが
生息し、生育している。

 注目すべきは、
これらの生物が基本的に陸地と隔離されたまま
独自の進化を遂げてきているため、
固有の生物相がみられることだ。

 日本の代表的な「洋島」は小笠原諸島。

 父島、母島、硫黄島、南鳥島などである。

 専門家は
「陸上植物の約4割、陸鳥のほぼ全て、
陸産貝類(カタツムリ類など陸域を主な生活空間とする貝類)の
約4分の3が小笠原諸島の固有種となっている」
としている。

 それだけに、環境保護が優先され、
父島には依然、空港ができていない。
 
 1994(平成6)年、前年の復帰25周年を祝い、
両陛下は、父島、母島、硫黄島をご訪問されたが、
その場合でも、父島、母島へは、
飛行艇で行かれ、海上に着水した。