朝日新聞で「霜夜狸」が [2007年05月15日(火)]
DVD「霜夜狸」はお近くの本屋さんで申し込めます。
八ヶ岳山麓のアトリエでの石田良介画伯
小欄でおなじみの石田良介画伯の名前を、朝日新聞(夕刊、5月14日付)のコラム「窓−論説委員室から」で見つけた。
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寒風に凍(こご)えて一夜の暖を求めた古狸と、先立った息子をしのび山番をつづける老人。その心の交流を描いたDVD「霜夜狸(しもよだぬき)」を堪能した。
人里はなれた山中での心温まる情景や式の移り変わりが、森繁久弥さんの一人語りと、石田良介さんの細密な切り絵「剪画」で展開される。アニメと紙芝居が融合したような作品だ。
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コラムはまだまだ続くが、それは紙面でご覧いただきたい。
筆者の荻野博司論説委員が「堪能した」と書いているくらい、情感のこもった、感動的な作品である。
忌まわしい事件が連日のように報道される中にあって、「自らも長男を失い、逆縁の悲しさに耐えた森繁さん」、今月で94歳になられたそうだ。
「もちろん今なおご健在です」と石田画伯からお話を聞いたばかり。この作品のすばらしい出来上がりで、きっと喜んでおられるに違いない。
願わくば、朗読した他の作品についても、石田画伯の剪画で、甦らせてほしいと、私は期待している。拙著『歌い継ぐ日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)など、表紙のすばらしさをはじめ、ほとんど、石田画伯の剪画で売れたようなものであることをよく知っているからだ。
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吹浦 忠正
at 23:13
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講演会へのお誘い [2007年05月15日(火)]
「虎ノ門フォーラム」開催のおしらせです。
ユーラシア21研究所では、下記の文書を発送して、新しく始める「虎ノ門フォーラム」開催のご案内をしています。どなたでも参加できますので、お誘い合わせの上、ご出席ください。
なお、今後のあり方については、そのときにみなさまにおはかりしたいと思います。
以下がご案内状です。出席ご希望の方は、下記ユーラシア21研究所まで、ファックスもしくはメールにてご連絡いただけましたら幸いです。みなさまのご参加をお待ちしております。
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謹 啓
薫風の候 各位におかれましては、ご壮健にてご活躍のことと拝察いたします。
東京財団在職中は、虎ノ門DOJO(道場)にご協力くださいまして、まことにありがとうございます。満5年間、虎ノ門DOJOを毎週開催できましたことは、社会的な意義があったと、お励まし下さる方も少なくなく、恐縮いたしております。
既に皆様にはご理解いただいているかと思いますが、私は昨年末をもって東京財団を円満退職し、日本財団の多大なご支援によりこのほど、虎ノ門にユーラシア21研究所を開設することができました。ロシア研究と日露関係についての政策提言、情報発信が主たる活動でございます。
つきましては、外交・安全保障などにご関心とご高見をお持ちの皆様にお集まりいただき、率直な意見交換の場を設けさせていただきたく、第1回虎ノ門フォーラムのご案内をお送りいたします。
なお、当面は随時に開催することになると存じますが、今後の運営の仕方につきましては、みなさまにご相談しつつ、有意義な場にしてまいりたいと考えておりますので、よろしくご協力をお願い申しあげます。
時節柄、一層のご健勝を祈念いたします。
敬 具
記
講 師: 木村 汎 (当研究所理事、北海道大学名誉教授)
コメンテーター: 袴田 茂樹 (当研究所理事、青山学院大学教授)
テ ー マ: 「プーチン・ロシアの今後--日本のしかるべき対応」
と き: 2007年5月31日(木) 14:00〜15:30 (開場13:30)
と こ ろ: 海洋船舶ビル10階ホール
港区虎ノ門1-15-16 Tel: 03-3500-1215
以 上
*聴講は無料です。ご参加をご希望の方は下記の事項をご記載の上、MailまたはFaxにてお知らせください。
Mail: info@eri-21.or.jp
Fax: 03-3500-0215
記載事項: 氏名(ふりがな)、
連絡先(メールアドレスもしくはFax番号をご記入ください)
所属・役職(現職・元職別)
・件名は「虎ノ門フォーラム参加希望」としてください。
・今後のご案内は、MailもしくはFaxのみといたしたいと存じますので、
恐れ入りますが、連絡先を必ずご記入くださいますようお願い申し上げます。
*会場は定員100名のため、出席希望者多数の場合は立ち見となる可能性がございますので、あらかじめご了承ください。
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両陛下のサイパンご訪問A [2007年05月15日(火)]
2005年に行われた、天皇皇后両陛下のサイパンご訪問については、一部に、相変わらずの批判もあったが、私は大変有意義なものだったと確信している。
さまざまな記事やHPを拝見したが、「サイパン私的指南」www.gosaipan.com/from-saipan/from-saipan-050815.html と題する、在留邦人の方のが、一番公平で、素直な報告だと思うので、ご紹介したい。
☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ ★★★
天皇皇后両陛下のサイパン慰霊旅行には、賛否両論ありました。事実、韓国人は太平洋戦争中、日本からサイパンに連れて来られ、多くの人々が日本人同様犠牲になりました。
そういった背景から、感情的な発言とか運動がなされたようです。太平洋戦争で家族を亡くされた方々の間でも、(形式だけの慰霊旅行に)批判的な方も少なくなかったようです。
それでも、天皇皇后両陛下は、サイパンを訪れました。
スーサイドクリフやバンザイクリフにて、両陛下が頭をさげ、犠牲になった方々へ黙祷を捧げたあの姿を見た時、私は感動せざるを得ませんでした。
私は別に天皇崇拝でも何でもありませんが、あの姿はとても印象的でした。
前日の予行演習では予定に入っていなかった、韓国人の墓碑にも立ち寄り、黙祷を捧げるという事があり、シークレットサービスが慌てたという話も後で聞きました(日本のテレビでもニュースになりましたよね)。
サイパン来島反対派の多かった韓国人協会などが、後日、天皇皇后両陛下に対して感謝の意を込めた謝辞を新聞に掲載をしたことも、私たちをほっとさせました。
この時期、多くの報道陣がサイパンに集まり、何人かの方とお話する機会がありました。
天皇陛下は
「数々の犠牲になった尊い命があったからこそ、現在の日本の繁栄があり、その犠牲になった方々を慰霊することこそ、自分自身の生涯をかけての仕事である」
とお考えだということを、伺いました。
今まで何の興味も無かった「天皇」に対し、今回のサイパン慰霊旅行を通して、その誠実さと自己への謙虚な姿勢を、ものすごく身近に感じることができたことは、一日本人として、個人的にも非常に良かったと思っています。
激戦地となったここサイパン島。両陛下の初の慰霊訪問を終え、8月15日は、今年で60回めを迎える日本人の終戦記念日です。天皇皇后両陛下のご来島により、サイパンで亡くなられた多くの戦争犠牲者が供養されたことを、ゴーサイパンスタッフ一同、信じてやみません。
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吹浦 忠正
at 16:13
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日本
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両陛下のサイパンご訪問@ [2007年05月15日(火)]
サイパン島(ウィキペディアより)
小笠原への今上陛下のご訪問は、1994年のことでした。
父島、母島、そして硫黄島まで巡幸されたのです。
これは前年の復帰25周年を祝ってのことでしたが、このあと、2005(平成17年)年になって、両陛下は、サイパン島を訪ねられなました。
以下は、それに先立つ6月27日の天皇陛下のお言葉です。その中にあるように、1919年から終戦まで、サイパンは国際連盟の委任統治領として、事実上、日本の統治下にありました。
日本の領土について記すには、どうしてもサイパンのことについて触れておかねばならないような気がします。
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終戦60年に当たり,サイパン島を訪問いたします。
サイパン島は第一次世界大戦後,国際連盟の下で,日本の委任統治領になり,沖縄県民を始めとする多くの人々が島に渡り,島民と共にさとうきび栽培や製糖業に携わるなど,豊かな暮らしを目指して発展してきました。
しかし先の大戦によりこの平和な島の姿は大きく変わりました。
昭和19年6月15日には米軍が上陸し,孤立していた日本軍との間に,二十日以上にわたり戦闘が続きました。
61年前の今日も,島では壮絶な戦いが続けられていました。
食料や水もなく,負傷に対する手当てもない所で戦った人々のことを思うとき,心が痛みます。
亡くなった日本人は5万5千人に及び,その中には子供を含む1万2千人の一般の人々がありました。
同時に,この戦いにおいて,米軍も3千5百人近くの戦死者を出したこと,また,いたいけな幼児を含む9百人を超える島民が戦闘の犠牲となったことも決して忘れてはならないと思います。
私どもは10年前,終戦50年に当たり先の大戦で特に大きな災禍を受けた東京,広島,長崎,沖縄の慰霊の施設を巡拝し,戦没者をしのび,尽きることのない悲しみと共に過ごしてきた遺族に思いを致しました。
また,その前年には小笠原を訪れ,硫黄島において厳しい戦闘の果てに玉砕した人々をしのびました。
この度,海外の地において,改めて,先の大戦によって命を失ったすべての人々を追悼し,遺族の歩んできた苦難の道をしのび,世界の平和を祈りたいと思います。
私ども皆が,今日の我が国が,このような多くの人々の犠牲の上に築かれていることを,これからも常に心して歩んでいきたいものと思います。
終わりに,この訪問に当たり,尽力された内閣総理大臣始め我が国の関係者,また,この度の私どもの訪問を受け入れるべく力を尽くされた米国並びに北マリアナ諸島の関係者に深く感謝いたします。
☆☆☆ ★★★ ☆☆☆ ★★★
2005年のこのサイパンへのご訪問は、まさに慰霊の旅でした。米軍に追い詰められた日本兵や民間人が「天皇陛下、万歳」と叫びながら絶壁から飛び込み、自決したとされる「バンザイクリフ」の情景は、今でも時々、放映されることがありますが、私はそのつど涙が止まりません。
いまはとて島果ての崖(がけ)踏みけりし
をみなの足裏(あうら)思へばかなし
これはこのときの皇后様のお歌。
私は未だサイパンを訪れたことはありません。そう遠くないうちに、あのクリフに立ち、「をみなの足裏」を確かめつつ合掌して期待と思っています。
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吹浦 忠正
at 16:01
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日本領になれた小笠原 [2007年05月15日(火)]
幕府が1861(文久元)年に、咸臨丸を小笠原島に派遣したころの父島
(小笠原嶋図絵より)
日本の最東端・南鳥島を含む小笠原の島々は
あやうく、欧米の領土になるところだったのです。
小笠原村のHPに以下のように記されています。
☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜
小笠原諸島は1593(文禄2)年、
信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により
発見されたと伝えられています。
人が最初に定住したのは江戸時代後期の1830(文政13)年、
欧米人とハワイの先住民でした。
その後、江戸幕府や明治政府の調査、開拓により
1876(明治9)年には国際的に日本領土として認められます。
大正から昭和初期には、
亜熱帯気候を活かした果樹や冬野菜の栽培が盛んになり、
漁業ではカツオ、マグロ漁に加え、
捕鯨やサンゴ漁などを中心に栄え、
人口も七千人余を数えるなど小笠原の最盛期を迎えました。
豊かで平和な島「小笠原」は、
太平洋戦争により大きな転機を迎えることになります。
昭和19年、戦局の悪化により、
軍属等として残された825人を除く
全島民6,886人が内地へ強制疎開させられました。
敗戦により、小笠原は米軍の占領下に
置かれることになります。
昭和21年、欧米系の島民に限り帰島を許されましたが、
他の大多数の島民は故郷への帰島は許されず、
慣れない土地での苦しい生活を強いられることになります。
昭和43年6月、小笠原諸島は日本に返還され、
島民の帰島がようやくかなうことになりました。
戦後23年間にも及んだ空白を埋めるために、
国の特別措置法のもと様々な公共事業が推進され、
新しい村づくりが進められています。
太平洋戦争の激戦地となった硫黄島では壮絶な戦いの末、
日本軍が玉砕し、
日米両軍合わせて二万余名もの尊い命が失われました。
返還後も火山活動などによる自然条件が厳しいことから
硫黄島への帰島は実現せず、
現在は自衛隊基地及びその関係者だけが在島しています。
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簡潔明瞭、これに尽きるといえばそれでおしまいですが
、ことはそう簡単ではありません。
私はホンネの部分で、江戸幕府や明治政府は
よくぞ、小笠原を日本の領土にしてくれたと、
その功績を讃美したいのです。
まず、「小笠原貞頼により発見」といいますが、
当時の「信州深志城主の曾孫」にそんな名前の人は
いないのです。
ま、国際法上、
発見は大した問題ではないということもできましょう。
では、日本は先占したのでしょうか。
これも怪しいものです。
1830年、白人5人とハワイの先住移民20数人が父島に上陸、
最初の居住者となったのです。
この後も、ハワイからの移住者や、
捕鯨船、探検船の乗組員で
そのまま住み着いてしまった人たちも結構いるのです。
ですから、ペリーが1853年、浦賀に来る直前に立ち寄ったとき、
十分英語が通じ、
住民代表のセーボリーらと薪炭の
引渡しの約定まで交わしているのです。
その後、各国がこの島の領有に関心を持ち、
イギリスは領有の宣言までしました。
そこで、幕府は、大慌てに懸命に開発を図りました。
八丈島から50人が出かけて行ったり、
咸臨丸が立ち寄ったりもしました。
今でも旗立山と呼ばれている父島の二見湾の上に、
大きな日の丸を掲げるということもしました。
結局、日本のものであることがはっきりしたのは
1876(明治9)年のことでした。
これで収まったのにはいくつか理由があります。
第1は、各国ともあまり実際の支配に熱心でなかったこと、
第2は領有に関心を抱く国が複数だったこと、
しかし、3番目の理由が一番、決定的だったのです。
それは、この島々を英語で、
Bonin Islandと呼んでいたことです。
Boninは無人(むにん)が訛ったもの
と考えられたからです。
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Posted by
吹浦 忠正
at 15:23
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領土問題
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