南アW杯、北京五輪に不安 [2007年05月11日(Fri)]
  先日、六本木ヒルズで、南ア映画「ツォツィ」を見た。簡単に人を殺める男が、逃走に使った自動車に赤ん坊がいたことから人間性を取り戻すという話で、それはそれで考えさせられるものがあるが、アパルトヘイトの終焉から15年もなるという今、南アの治安の悪さが推し量られて、いささか不安になった。
というのも3年後のサッカーW杯はその南アで開催される予定になっているからだ。
折から、共同通信が4月30日、次のような記事を配信していた。
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日本も代替開催地の候補 10年W杯でFIFA会長
【ローマ30日共同】国際サッカー連盟(FIFA)のブラッター会長は、2010年ワールドカップ(W杯)が不測の事態で南アフリカでの開催が不可能になった場合、代替開催地の候補の一つは日本であると語った。英BBC放送(電子版)が30日、伝えた。
ブラッター会長は「南アで自然災害などが起こった場合」と前置きした上で「何とか南ア開催の方法を探るが、無理な場合は別の国でやらなければならない」と、日本のほかイングランド、米国、メキシコ、スペインを候補地に挙げた。
FIFA関係者の一部には、南アでのW杯は治安面などから開催能力を疑問視する声もある。
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「ツォツィ」を見た人は、きっと同じことを感じるに違いない。あれでは、新たなテロや拉致、ハイジャックが起きないほうが不自然なくらいだ。
ところが、今朝の「産経新聞」の古森義久特別記者の報道に拠れば、9日、米下院の108人の議員が中国の胡錦涛主席にあてて「中国はダルフールで虐殺をしているスーダン政府を支援している」「中国が十分な対応をしない場合は北京五輪のボイコットにもつながる」という趣旨の書簡を送ったとのことだ。
南アの場合は治安であり、中国の場合は外交政策なので、一概に言うのは避けたいが、私は南アでのW杯も北京五輪も成功してほしいと願ってはいるが、こうした世界的な行事をこなし、支える基本的な条件が両国に十分備わっているのかと言わざるを得ない。
同時代に生きる者として「ツォツィ」を見てほしいし、ハリウッド女優のミア・ファローの「中国五輪阻止論」にも耳を傾けたいものだ。
「ダルフールでは40万人が殺され、250万人が居住区から追放されている。中国は(スーダンの石油を一手に輸入しようとして)虐殺の実行者であるスーダン政府を全面的に支持してきた」。
米国の女優には、時々、こうして敢然と立ち上がる人がいる。敬意を評したい。
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南鳥島は10分の1の領域 [2007年05月11日(Fri)]
南鳥島の航空写真。海上保安庁提供。 南鳥島(マーカス島)は 北緯24度16分59秒、 東経153度59分11秒に位置し、 日本の最東端にあたります。
最高地点の標高が20m、 海岸の延長線が約6キロ、 そして 面積が1.1平方キロに過ぎない 小さな島です。
東京都小笠原村に所属しますが、 戦後は、 海上保安庁、気象庁、海上自衛隊の 最小要員しかいません。 民間人の一般的な入域は禁止されています。
「そんなちっぽけな島」と言うなかれ。 その周辺には12海里の領海、 200海里のEEZ(排他的経済水域)が 付属するのです。毎時1海里の速度をノットといいます。 すなわち、1ノットは毎時1852メートル進む早さです。
中学で習いましたよね。円の面積。「半径の二乗×円周率」。
なぜ、そういう式になるのかは、 今もってわかりませんが、 とにかくその数字をいれてみますと・・・ 1海里は、1852mです。すると、
(200海里×1852m)2×円周率(3.14…) =431,000平方`
これは半端な数字ではありません。
排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)は、 国連海洋法条約に基づいて設定されたもので、 沿岸国の経済的な主権がおよぶ水域のことを指します。
沿岸国は 自国の沿岸から200海里の範囲内の水産資源 および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に 関する権利を得られる代わり、 資源の管理や海洋汚染防止の義務を負うこと になったのです。
日本では1977年に改正された領海法と 漁業水域に関する暫定措置法が施行されたことにより 設定されました。
日本の領域は領海(含:内水)とEEZを合わせて 約447万km2となります。
ですから、日本の国土は約38万km2で、 世界第60位です。
しかし、 EEZの広さでは、 米、仏、豪、露、加に継ぎ、世界6位になります。
また、これに領土を含めた比較では、 露、米、豪、加、伯、仏、中、印に次ぎ、日本は第9位です。 要するに、南鳥島1島で、 日本のEEZの10分の1もあるということなのです。
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吹浦 忠正
at 15:29 |
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文部科学省が一新? [2007年05月11日(Fri)]
工事は今こんな進み具合です。 わがユーラシア21研究所前からの撮影。 敗戦直後の文部省。 戦時中はこのビルに外務省や大蔵省も同居していた。 今回の新しいビルが竣工後も、 大改装して継続使用する。 その意気!、その意気!! 憲政記念館からの帰路、 官庁街を歩いて虎ノ門のユーラシア21研究所に戻った。
この季節、さわやかで、とても気分がいい。
そこで見たのは、 財務省(旧大蔵省)の前庭の美しい花壇と その隣に建設中の文部省(現・文部科学省)の 新しいビルの工事。
まずは、「花よりビル」で 文部省をご紹介しよう。
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吹浦 忠正
at 10:37 |
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尾崎行雄と相馬雪香 B [2007年05月11日(Fri)]
相馬雪香会長 尾崎行雄像(憲政記念館正面) 相馬会長のワシントン訪問を報じる「ワシントンポスト」の記事
4月8日付「ワシントンポスト」紙の記事の翻訳、 最終回をお届けしたい。その前に一言蛇足を。 相馬夫人というのは、 難民を助ける会の相馬雪香会長のことで、 「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の三女にあたる。 尾崎記念財団、憲政記念館、日韓女性親善協会、退職女教師会、 さぽうと21、日本MRA協会などの 要職を兼任ないし歴任している。
尾崎は、戦前戦後60年間にわたり国会に議席を占め、 軍部の独走に反対し続けた人。
国会議事堂正面玄関に、 伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像があるが、 三権分離でいうなら、 尾崎行雄の銅像こそ、 空いているもう一隅に置かれるべきではないのか という声は大きい。
他方、 「尾崎を顕彰するために、国会前に大きな公園を開設し、 憲政記念館の正面に大きな銅像がある」 「空いている一隅には議員生活50年以上の 三木武夫、中曽根康弘の両元首相の どちらかの銅像であるべきだ」という声もある。
お二人に薫陶を受けた者として、 また今でも 中曽根元首相には特段のお世話になっている者として、 これ以上の微妙な話は遠慮したい。
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相馬夫人は昨日のイベントではジョークに笑い、 植樹式では孫の手を借りてゆっくりと歩いた。
ホテルは接待に心をくだいた。 サイドテーブルには蘭の花が置かれ、 お盆にはサクランボのお菓子が並べられた。
有名な桜の木さえ 迫害にあう日米間の歴史の困難な時期を修正するには、 この両者の真心にそったサブテキストがある。
例えば、パールハーバー攻撃後、 何本かは夜間に切られ、 残りは“東洋桜”と改名された。
戦後5年たって、尾崎が雪の日にワシントンを訪れた時、 頭上の桜を讃え、 同時に自然、人間両方のもろさを暗示している詩を書き、詠じた。
彼の孫娘・原夫人はその詩を昨日朗読した。
私はめざめているのだろうか あるいは夢見ているのだろうか ここにこんなにも寛大に迎え入れられるのは 見えるがままのやさしさか それとも消えてしまうまぼろしなのか
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吹浦 忠正
at 10:10 |
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尾崎行雄と相馬雪香 A [2007年05月11日(Fri)]
相馬雪香会長 東京から相馬夫人につきそってきた、娘の原ふじ子さん(67歳)は、自分の祖父が1950年にワシントンを再訪した時のことを語った。
「祖父は、スピーチの中で、日米はかたい絆で結ばれており道徳的同盟を創るべきだ」。
「私の母は、祖父は戦争反対者ということで、裏切り者だと世間から思われていたと言っていました。農家でさえも、祖父には野菜を売ってくれなかったのです」。
この母子2人は、尾崎から氏のサクラの贈り物の世話をしたウィリアム・ホアード・タフト大統領の孫娘・ヘレン・タフト・ハンター夫人(85歳)といっしょになった。
ハンター夫人は、実際には3,000本の桜はアメリカ到着時に、病気にかかっているのではと恐れたアメリカ農業事務官が焼却処分にしてしまったと述べている。
「母は、父は大統領として、法律を変えるとか、事務官秘書を叱りとばすことができたのに、とたいへん怒っていました」とちょっと笑って言った。
式典後、相馬夫人のインタビューの中での回顧談は日本の現代史と尾崎行雄の特性をうかがわせた。
尾崎は日本で女性が働くことが考えられない時代に、英語の通訳として自分の娘が働くことを許し、大学が女性に門戸を開いていなかったので、娘を研修旅行として海外に伴い、より貧困層の人々から親しくなるべきと勇気づけた。
社会的には一匹狼のような存在だったと相馬夫人は言う。
「私の父は、他の人達とは違っていました。彼は常に、新しい日本を作りたいと思っていたのです」。
1931年、第2次世界大戦へとなだれ込んでいく領土拡張論者達の動きの中で、今は中国の一領土である満州を日本が侵略した時、尾崎氏は歯に衣きせぬ戦争反対論のせいで殺されそうになった。
当時20才であった相馬夫人は、カーテンの陰から自称暗殺者達が車2台に乗せられて連れていかれるのをこわごわのぞいていたのを思いだすと言う。
多分驚くことではないが、彼女はスキー場で知りあった“普通ではない”男性と結婚した。彼は日本の旧家、子爵家の人間であった。
父と同じく、今は亡き夫も、彼女が働くのを励まし、旧弊な家制度を日本が一体化できるよき制度へ変えるよう働いた。この夫婦は4人の子供をもうけた。
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:47 |
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