日米サクラ交流 @ [2007年05月10日(木)]
相馬雪香会長。2007年3月撮影。
先日、難民を助ける会の相馬雪香会長(95歳)とご尊父・尾崎行雄(咢堂)について触れたとき、相馬会長がこの4月にワシントンのサクラ祭りに参加したことを書きました。
そのときのことが4月8日付「ワシントン・ポスト」紙に出ていました。パメラ・コンステイブル記者の書いたものです。邦訳は、難民を助ける会。
日米友好に尽くす、尾崎一家についてのすばらしい記事ですので、3回に分けてご紹介しましょう。
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桜花と絆を受け継いで
日本からのお客様は小柄できゃしゃ、そしてお顔には沢山のしわがあり、トルコブルーのツィードのスーツをきちんとお召しになっている。96才(原文のママ)の彼女は、耳は遠く、お声も聞きとるのがやっと、というくらいだ。
しかし、Tidal Basin近くでの桜植樹式に於いて、相馬雪香さんは驚くほど力強くピンクのリボンをかけられたショベルを差し込んだ。95年前、彼女の父が、この地に3,000本余の桜を最初に贈ったのである。
彼女の口調は優雅であるが、第2次世界大戦や、緊張関係にあった他の時期を通して、日本とアメリカの架け橋を静かに築いてきた女性の不屈の精神をも感じとれる。
彼女の訪米はナショナル・チェリー・ブロッサム・フェスティバルとワシントン南西部にあるマンダリン・オリエンタル・ホテルの招聘によるものだが、これは1912年ワシントン市に3,020本の桜の木を友好のしるしとして贈った、当時の東京市市長尾崎行雄氏の精神に基づいている。
繊細なピンクの花をつける桜の木々は、今や首都の最も愛される景色の一つとなっている。先週、これらの花は満開となり、何万人もの見物客が訪れた。現在は、雨や風で花は散り、枝々は昨日早朝の雪をかぶっている。
「人はねばり強くあるべきね」と、マンダリン・オリエンタル・ホテルの椅子に腰をおろして、相馬女史は植樹式後に語った。
「戦争中、桜の木は切ってしまえ、と言う人々がいた時でさえ、それをやめさせた女性が何人かいらしたのよ。私達が心を開いてさえいれば、きっと何かいいことができるわよ」。
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Posted by
吹浦 忠正
at 15:08
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平和は目的ではない [2007年05月10日(木)]
私の見るところ、どうもわが国の“平和運動”は、あたかも平和を人類の最終到達目標のように考えているように思える。
私は平和は、人間の幸福にとって必要条件であり十分条件ではないと考える。
目標ではなく当面の手段といってもいい。
平和の維持はもちろん重要だが、平和の質の向上が重要なのだ。
わかりやすい例を1つだけ挙げよう。
平和が到来しても、地雷や小型武器ががはびこっていては平和の価値が低くなり、決して幸福ではない。
アンゴラは日本の国土の3倍も広い国だが、実にその3分の2が地雷原のままである。
これは国土の環境破壊であり、これでは広大な土地が使えないままなのだ。
かつて、ローマは第3次ポエニ戦争(BC149〜146)でカルタゴを滅ぼした時、広大な地域に塩をまいて、作物を育てることをできなくした。以後、百年は人が住めなかったという。今日の地雷はそれと同じことで、これでは平和は意味をなさなくなる。
また、平和の名のもとで、貧困が生活を悲惨たらしめ、病気や差別がはびこり、水や空気が汚染されるなどが続けば、人間が人間らしく生き、幸福であるというわけにはいかないのである。平和はしばしば経済、健康、環境の「3K」を無視している。
小欄でも何度か紹介したように私たちは、96年9月以来、対人地雷撤去キャンペーン絵本『地雷ではなく花をください』を刊行し続け、多くのみなさまにご理解、ご協力をいただいて来ている。おかげさまで発行部数も57万になった。
その裏表紙に「平和だけではダメ! PEACE IS NOT ENOUGH! 」と大きく書き込んだのは、こうした考え方による。
以前、広島での国際シンポジウムで基調講演者である明石康先輩(わが高校の10年先輩)がこう話していた。
「現状維持という意味での<消極的平和>を目指すのではなく、全ての人がより人間らしく生きられる明確な価値観と人間観に立った<能動的な平和>を目指さねばならない」と、日本と日本人が、平和のために具体的な役割を担うことによって、より意味のある平和に貢献しなくてはならないというのだ。同感である。
「平和は目的ではない」という私の考え方にはかなりの反対者がいることを重々承知で書いている。私に言わせれば「平和を最終目的に掲げるのは美名に隠れた欺瞞」である。
幸福はもっとたくさんの要素から成り立っているのだ。
より詳しくは、拙著『平和の歴史』(光文社新書)をご高覧ください。
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Posted by
吹浦 忠正
at 10:38
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巨匠についての私論 [2007年05月10日(木)]
5月8日はフォリップ・アントルモンのピアノ演奏を紀尾井ホールで聴いた。主催したMUSICAの社長・高澤ご夫妻と親しくさせていただいており、お招きをいただいた。まずもって、ご夫妻に心から感謝したい。
演奏は、モーツアルト(第11番)とベートーベン(「熱情」)のソナタを各一曲、15分の休憩をはさんで、ラヴェル、ドビューシーなどフランス人作曲家の、名曲と言われる小品をいくつか、そしてショパンの「ノクターン第7番」「スケルツォ第2番」、さらにアンコールを3曲。
73歳のまさに達人の至芸、ピアノをころがすように弾きこなしていた。少々のミスも「oh, I’m sorry.」の一言で何事もなかったかのように弾き続ける。
聴衆は大満足。私も気分爽快。花も星も、月も風も忘れ(空腹だけは少々気にしつつ)、帰路をゆっくり歩いて、音を振り返り、雰囲気の残響のようなものを味わった。
ところで、いただいたプログラムに「フランス音楽界屈指の巨匠」とあった。いや、今夜は、これも納得である。
ただ、巨匠ってどういう人を言うのか、考えてしまった。
戦後活躍したピアニストでいうなら、リヒテル、ルービンシュタイン、ホロビッツ、グールド、バーンスタイン、ミケランジェリといったあたりか。現役はもう少ない。
指揮者でいうなら、トスカニーニ、フルトベングラー、ストコフスキー、ベーム、カラヤン・・・
バイオリニストでなら、ハイフェッツ、オイストラフ、シゲッティ、フランチェスカッティ、スターン、コーガン、チェリストならカザルス、そして先日亡くなったロストロポービチといったところか。するとロストロさんが最後の巨匠となってしまう。
日本人でなら、小澤征爾と年齢不足の中村紘子御両人か。現役で活躍しておられるのが嬉しい。
巨匠の定義や資格は何だろう。
実力はもちろんだが、ほかにも年齢、年季、貫禄、風格、知名度、正当派、広範な支持者、世界的な評価・・・などが加算されなくてはなるまい。女性にはあまり巨匠という言葉を使わないような気もする。
名人・上手はいくらでもいそうだが、やはり巨匠というのは別格だ。第一人者、泰斗、マエストロ、最高、超一流・・・巨星は亡くなった時だけ「落つ」をつけて見出しにする言葉か。
どれをつけても演奏家にはなんとなく巨匠が一番似合うように思うが、これは私の偏見か。
みなさまのご意見、ご推薦をお待ちしたい。
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Posted by
吹浦 忠正
at 07:27
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音楽
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