日露戦争と捕虜 (28) [2007年05月08日(Tue)]
拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)●「おかわいそうに」
前回は、日露戦争当時のロシア人捕虜たちを迎えた日本人について書いた。捕虜が到着する港にはアーチが立てられ、町の人々は紋付き羽織で出迎えたのだ。自分達の兄弟や子供が戦死しているかもしれない状況にあっても、捕らわれの身となった捕虜たちを可哀想に思い、心よく迎えたのであった。
捕虜を可哀想と思うのはきわめて自然の感情であろう。
だからこそ、太平洋戦争の最中、1942年秋、一婦人が囚われの米英人捕虜をみて「おかわいそうに」と嘆じたことを取り上げ、かかる戦時にこういう感情を抱いてはならぬと戒める放送であった。
もっともこの有名な“事件”の真相を知りたいという朝日新聞の「特集・戦争」欄(1990年7月5日付)での私の問いかけに、戦時中、それは間違った感情であると放送した秋山邦雄元中佐(放送時は陸軍報道部員、終戦時は大佐。1899〜1997)本人から回答があった。
ただし、誰が「おかわいそうに」といったかの結論は示してもらえなかった。 そこで、紙面での回答の直後に私は調布にお住まいの秋山の自宅をお訪ねした。
1942年から加藤楸邨に師事し、自らも『山岳集』(1974)、『合掌』(1981)の句集を上梓している俳人でもある。
南方総軍報道部長としてフィリピン比島の山岳で終戦を迎えた経験がこの表題になった。
作句が生涯、自分に平常心を保たせ、人生を支えたという。高齢ながらお元気で、牧車の俳号で句会「寒雷」を指導していた。
「比島では停戦後も下山まで新聞を出し続けました。武藤章参謀長の意を受け、紙面を通じ自決するな、切込みをやめよ。われらは祖国再興の力である、と何度も訴えました。そのときの句です」と言って、
幾夜寝覚めし岩岩を打つ谷出水
を示された。『山岳集』の200に及ぶ句は、戦陣でのもの。
国家とは、戦争とはといったこととともに、そこにおける「人」そのものを考えさせられ、身の震えを感じさせられる
しかし、本題についてさまざまなデータを示して質問してみたが、 「爵位を持つ前の内閣の閣僚の奥様」 「品川の捕虜収容所の近くにすんでおられた」 と話してくれるのが精一杯で、明快な回答を頂戴することはできなかった。
もちろんその条件に適う人を数代の内閣に遡って調べてみたが、合致する人はいなかった。歴代の閣僚名簿をお見せすると、一瞥し、微笑みながら頷かれる。
目が「判るね」と語っていた。私は包み込まれたようなある種の敗北感とともに辞した。
しかし、秋山元中佐はその後も引き続き私には目をかけてくださり、貴重な蔵書をたくさん私に遺すとの遺言とともに、長いお別れとなった。
秋山元中佐については、その戦後の生き方を含め、あまりに尊敬する点が多く、私は人間的に圧倒される思いで、その後、本件の追及を放棄した。これについてはいずれ稿をあらためて詳述したい。
しかし、その放送はその後も国民全体に大きな影響を与え、「おかわいそうに」は、戦後の1956年に英国人であり香港で捕虜となったルイス・ブッシュ(元旧制山形・弘前高校教諭)が自らの捕虜体験を書いたベストセラーの表題にまでなった。
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Posted by
吹浦 忠正
at 23:18 |
捕虜 |
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サクラとハナミズキ [2007年05月08日(Tue)]
憲政記念館正面の尾崎行雄像。 憲政記念館のある国会前公園は、 衆議院が管理するというめずらしい公園。 夕方5時まで開園しているのに、めったに訪れる人がいない。
しかし、少なくとも、サクラとハナミズキの名所である。
憲政記念館はかつて尾崎行雄記念館と称した。 「憲政の神様」と称えられている尾崎行雄の功績を顕彰して、 1960(昭和35)年、旧参謀本部跡地に記念館が建築され、 公園が整備された。
歴史は語っている。1912(明治45)年、 東京市長であった尾崎は日米友好のしるしとして 米国の首都ワシントンDCにサクラをおくった。 そのときの苦労については、 拙著『ニッポン国際人流志』でも触れた。
その返礼として1915(大正14)年、 米国政府はハナミズキの原木を日本に贈った。
尾崎行雄記念館が竣工した時、 米国政府はさらに250本のハナミズキを贈ってきた。
この公園でもその大きく育ったものがついこの間、 4月まで、今年も白い花を咲かせていた。
同じころ、尾崎の三女・相馬雪香難民を助ける会会長(95歳)が 今年もワシントンDCを訪問し、 ポトマック河畔の「サクラ祭り」に参加した。
日米友好をめざそうという交流は 今も活発に続いている。
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標高測定の基準点 [2007年05月08日(Tue)]
先に「地点距離」について多少説明をしましたが、 話を「標高」に戻したい。 そのほうがはるかに日常的であるからだ。
日本水準原点が東京都千代田区永田町1-1-1の 憲政記念館(電話:03-3581-1651)の構内に設置されており、 日本の標高はこの地点との比較で決定している。
かつては加藤清正、井伊直弼が住んでいた肥後藩、 彦根藩の上屋敷であったところ。
終戦まで陸軍参謀本部だった場所。 1891(明治24)年にわが国の標高基準を示すものとして 設置された。関東大震災で若干地盤沈下があったが、 現在はその地点が標高24.4140mとされている。
前回お伝えしたように、日本の標高は東京湾の 海面の平均値が基準であるが、実際の測量の便宜から この水準原点が標高測量の基点とされる。
ユーラシア21研究所から近いので、 念のため、さきほど久々に訪問してみた。もちろん、 水準原点そのものは標庫内に隔離されているため 見ることはできなかった。
この場所に設置された理由は、 別に国会議事堂正門前といったことからではなく、 地盤が比較的安定していることとともに、 測量を行っていた、参謀本部の陸地測量部の 構内だったためと思われる。
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Posted by
吹浦 忠正
at 15:30 |
日本 |
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台湾に事務所、与那国が [2007年05月08日(Tue)]
パイビスカスはさまざまな色で、 与那国でも台湾でもたくさん咲いている。
尊敬する許世楷台北駐日経済文化代表処長(大使)は、 早稲田でもわがゼミの7年先輩。 おなじく尊敬する田里千代基氏は、 このほど、日本の市町村で初めての海外事務所を開設すべく、 台湾の花蓮市に着任した。 新しい「国境の町」行政が始まろうとしている。 日本最西端の与那国と台湾の花蓮とは、虎ノ門から御殿場までと同じ。 まことに目と鼻の先の関係にある。 沖縄県与那国町が台湾の花蓮市と長い交流を重ねた末、 ついに同町が日本の市町村としては初めて、 海外に事務所を開設することになった。 その政治決断を高く評価したい。
その初代事務所長として予定されている、 畏友・田里千代基同町参事がこのほど花蓮に着任した。
以下は、これに関する「花蓮市役所の公式発表」 (2007年5月1日付)を翻訳したものだ。
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花蓮市の姉妹都市である、 日本の与那国町からの交換所局員田里千代基氏は、 1日、花蓮市役所に到着し、 3ヶ月間にわたり花蓮市行政についての実地視察を行う。
これまで 花蓮市と良好な関係を維持している姉妹都市である与那国町は、 両都市間の友好と各種の交流活動を強化するために、 1日、田里氏を同町の代表として花蓮市に派遣して、 3ヶ月間の花蓮市行政実地視察を行わせ、 このほか、 同町が花蓮市に開設しようとしている 「与那国町在花蓮市連絡事務所」について、 関係事項について事前協議を行う予定である。
到着初日に、田里氏は、 職員月例会議に出席したほか、 市役所で毎週一度行われている主管報告会議にも 求めに応じて参加した。
蔡啓塔花蓮市長によると、 花蓮市が姉妹都市を締結している5つの都市の内、 北緯24度27分、東経122度56分、 花蓮市から約120キロ離れている与那国島は、 本市から最も近い姉妹都市であり、 両都市は、1982年に姉妹都市を締結してから、 双方の職員が相互に訪問して密接な関係であり、 去年10月末には市長自ら代表団を率いて与那国町を訪問し、 双方は、今年姉妹都市締結25周年の際に 一層各種の交流を拡大することについての 意見の一致をみたが、交換職員の相互派遣は この交流活動の一項目である。 蔡市長の説明によると、 本日訪問した交換職員の田里氏は与那国町役場の財政課長を経、 現在は与那国町外間守吉町長の特命秘書であり、 本市に3ヶ月滞在の予定である。
そして、この間、 田里氏が市役所各課室で事務の視察を行うように アレンジするほか、 田里氏のために車をアレンジして、 花蓮市長と市役所が日常的に行なっている 各種の市行政業務遂行の実情について よく理解をいただけるようにしたいと考えている。 現在、市役所では、優秀で日本語をよく理解している職員を選定し、 市役所代表として与那国町に相互訪問を行うように検討している。 市長の指摘に拠れば、 両都市は永年準備をしてきた相互に連絡事務所を設置することについては、 今年内に設立する目処がたっているが、 与那国町町長は、 「与那国町在花蓮市連絡事務所」開設の際は自ら代表団を率いて来訪し、 花蓮市役所と共同で開所式を行うことについて承諾している。
来訪中の田里氏によると、 11万人の人口を擁する花蓮市役所が雇用している公務員の数と 島民がわずか1800人余りの与那国町役場の職員数とほぼ同じであり、 花蓮市役所の近年の市行政の実績は驚くべきものであり、 このため、 町長の命によって、 特に花蓮市役所で実地視察を行い、 与那国町が将来業務を行う時の参考にしたい由。
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Posted by
吹浦 忠正
at 11:42 |
政治・社会 |
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台湾のWHO入りを支持 [2007年05月08日(Tue)]
沖縄県与那国島西崎灯台付近から臨む台湾。 この対岸地域が、WHOに加盟できない地域あるということは、 日本の国益上、きわめてまずい、ないし危険なことである。 台湾のWHO(世界保健機構)入り支持を訴えるデモが、 6日、都内で行なわれた。「日本李登輝友の会」の主催だ。
台湾は1997年からWHOの年次総会に オブザーバーとしての参加を求めてきたが、 中国の反対で実現していない。
先月、台湾はWHOへの正式加盟を申請したが、 これには、 従来、オブザーバー参加を指示してきた米国さえ、 「不支持」を表明している。
私は台湾のWHO加盟を支持する。 しかし、それは、台湾のためかどうかでの判断ではない。 日本の利益のためだ。
台湾は「南の隣国」。小欄では何度も書いたが、 わが国の最西端・与那国島とは111キロしか離れていない。 そこが公衆衛生上、 きちんと国際的なネットワークに入っていてくれないと 困るのは日本そのものなのである。
ノロウイルス、鳥インフルエンザなど、 あらたな感染症がいつどのようなのような形で わが国を侵略してくるかわからないのである。
アメリカと日本とではおかれている位置関係が まるで違う。 それをさしおいて、 日本が台湾の公衆衛生上の問題、 医学、細菌学の問題に政治をはさんではいけないのである。
日本の国益上、 私は台湾がすみやかにWHOに加入を 果たしてほしいと願っている。
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