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春爛漫、菜の花の極めつけ [2007年05月05日(土)]











   石田良介画伯作「春爛漫」。これぞ、菜の花と日本の春の極めつけ。実際の作品は横数メートルという大きなものです。

  石田画伯の特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





                               

   石田良介画伯。八ヶ岳山麓の戸田城址公園で。
朧月夜 [2007年05月05日(土)]


















  菜の花畑に 入日薄れ
 見渡す山の端 霞深し
 春風 そよ吹く 空を見れば
 夕月かかりて にほひ淡し

 ご存知『朧月夜』(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)、
2、3日前に満月だった。

 美しかった。

 そんな夕方かな、この詩の光景は。高野は長野県北部の出身だから、いまごろのような気がする。

 数年前、私は『歌い継ぎたい日本の歌−愛唱歌とっておきの話』(海竜社)を上梓した。音楽の素人がこんな本を書くなんてと顰蹙を買いそうなものだが、幸い、各紙で取り上げられ、好評だった。

 しかし、この本を書こうと思ったのは、『朧月夜』の歌を、当時のわがゼミ生で知らない学生がいたというショックからだった。ゼミでは国際政治を指導していたのだが、「それどころではない」という、日本について知らない若者の現実の切実さを感じてのことだった。

 爾来、菜の花に出会うと、私は今の日本社会が心配になる。これもトラウマの一種か。  

 菜の花の写真は、風景写真が4月22日、茨城県のひたち海浜公園で、アップは5月5日、八ヶ岳山麓で撮影。黄色い花はこの季節、特にきれいなように思う。
母親と息子 [2007年05月05日(土)]




二羽いるからニワトリ? ニワトリに足何本?




  大阪在住の「妙齢の美女」Qさんから、かつて自分が教えた高校生が、今春、東京大学に入学したことについて、こんな感想を寄せてこられました。

   ☆ ――――――――― ★

 昨日は終日、新東大一年生の親子と行動を共にしました。

 子供とは、母親とは、父親とはを観察しました。

 母親の一念で12年間、東大を目指した三人家族。

 入学式を終えた息子はロングランで息切れした様子も全くありませんでした。
 一抹の不安を持っていた私はホッとしました。
 神戸から一人で上京です。

 この家族のこれからの課題は母親の子離れです。
 息子は「 兎に角、東京に出たかったので」と嬉しそうに語ります。

 母親の夢を叶えた彼を、母親は、これからはそっと見守って欲しいと思いました。

 彼女も頭では重々分かっているようです。

 でも息子を呼んだ朝の着信履歴が60回。
 私は彼女の気持ちは理解します。私なら100回もかけたかも。
 
 私あてに母親が書いた手紙に、
「ゆっくりと絆創膏をはがすように
息子の成長を妨げないように離れていこうと思っています」
とありました。頑張って素晴らしい母を貫いて欲しいです。

 今日は神戸に戻っている息子はだれかと外出。
 母親の「だれと行くのー?」の質問に
「お答え出来ません」。ヤッパリ東大生、頭の良い子です。

   ☆ ――――――――― ★

 お母さん、今度はあなたが試練の時です、と私なら言いそうです。

 世のお母様たち、息子を自立させてください。
 東大を出ようと、どこを出ようと、
 @生卵が割れない
 A靴の紐を結べない
 Bタオルを絞れない
 Cリンゴの皮がむけない
 Dニワトリの絵を描かせると4本足

 自分でニワトリを絞められるかとまでは言いませんが、
幸い息子さんは「五月病」にもなっていないようです。

 息子さんが努力したように、今度は、夫婦で、新しい人生を
歩んでください。

 お父さま、今度はあなたの出番でもあるのですよ。


犬に弱い話 [2007年05月05日(土)]






 だから猫は大丈夫なのです。


 京都府在住の「妙齢の美女」からのメールです。

 ☆―――――― ・・・ ―――――― ・・・

今日は子供の日。
昨年末に亡くなったワンコが大好きだった場所に
五月人形のように凛として一輪の野の花が咲いていました。




 以下は、2ヶ月ほど前に書いたものの採録です。

  ☆ ――――――――― ★

 告白するが(とうほどの話でもありませんが)、私は(電気と美人と)犬に弱いのです。

 とりわけ犬には弱い。本当に、物理的に、というか動物的に恐怖感を感じるのである。

 原因は、トラウマ。おそらく戦時中か、終戦直後であったかと思うが、秋田市保戸野(ほどの)橋の袂の牛乳屋さんの前で、「かわいい子ども」だった(はずの)私は、雪に埋もれた穴に陥ちだのです。

 こんこんと降り続ける雪までは覚えています。

 突然、穴の上から大きな口をあけた犬が、私に向かって吼えるのです。

 私は食べられてしまうのではないかと、恐れおののき、そのまま気を失ったようです。

 それ以来、きょう今日まで、犬はダメなんです。

「戌年」なら美女でもダメです、というのはウソですが、道であっても遠回りするか、はるかさきから反対側の道路にわたりすれ違わないようにします。

 ところが、私も多少成長しました。50歳を過ぎてから、ある日、ふと気づいたのです。

 もしかしてあの犬は、「かわしい子ども」がここに落ちて困っているよ、と大人に知らせようとしていたのではないのかなと。

 でもそれまでの年月はあまりに長く、習い性となって、今日に及んでいます。

 もし、そうだったらあのときの犬には申し訳なかったな、と時々、思います。

 私もおとなになったものだ、「立場的思考」ができるようになったんだという思いとともに。


      ☆ ――――――――― ★

 あらためて、亡き愛犬の御霊に合掌。


八ヶ岳山麓にも春 [2007年05月05日(土)]














 待ちに待った季節。風薫る5月。

 八ヶ岳山麓にもようやく春。山登りや散策には絶好の季節。
新芽のふくらみ [2007年05月05日(土)]




    南アルプスに聳える日本第2の高峰・北岳(3192m)










  いい季節、水も空気もおいしく、森林浴もいい気分。

  NHKの大河ドラマ「風林火山」で、山梨県は大変な観光ブーム。普段はめったに人が通らないという、諏訪との間の抜け道「信玄棒道」もなかなかの人気だ。

 棒道とその周辺からは、富士山、北岳、甲斐駒ケ岳、八ヶ岳が臨め、道端では、湧水からの小川がせせらぎ、新芽はすこやかに、日々ふくらみを増している。
日露戦争と捕虜 (27) [2007年05月05日(土)]




●「マツヤマ!」と叫び降伏
 
 先に述べた桜井忠温(ただよし 1979〜65)は
『哀しきものの記録』(1954)で、
その松山がいかにロシア兵に知れわたっていたか、
次のように書いている。

 「松山!」「松山!」と手をあげて飛びこんで来る。
「松山」というのは「降参」といふことなのである。
それほど「松山」がいつのまにか露兵の間に有名になった。
「松山は海に近く、山あり、温泉あり、美人あり」と
写真入りのビラを撒いたが、これくらゐ効き目があると
面白いみたい。その「松山」組が、ゾロゾロと松山へ送られてくる。
伊予の松山は昔から捕虜の引受所だった。
……捕虜は続々と送られてくる。
むろん「松山」組ばかりではない。
船着き場の高浜港にはアーチが立てられ、
町の人々は紋付き羽織で出迎えるのだった。
自分達の兄弟や子供が戦死してゐるかも知れぬ。
それでも捕はれの身となれば
可哀想だからといふので心よく迎へてやった。


●捕虜厚遇の行き過ぎ」を批判した水野廣徳

 ところで、日本におけるロシア人捕虜の優遇について
、中にはその行き過ぎに眉を顰めるめる人々もいた。

 もっとも有名なのは、水野廣徳である。
代表作『此一戦』で、松山収容所を具体例として、
こんなやり方では捕虜収容所のある地方で育った少年たちは
捕虜を恥辱とみなさず、
後でとりかえしのつかないことになると、
次のように警鐘を鳴らした。

  露国俘虜に至りては、我が待遇の寛なるに依るか、
将俘虜の鉄面皮なるに依るか、
将校の如きは青衣紅帽、美服を纏うて
、傲然狭き大道を闊歩し、
或は白昼妓楼に登つて豪遊を極め、
或は妾を囲うて自由居住を為し、
或は妻子を招いて同棲し、
人をして俘虜か、外賓かを疑はしむるばかりであつた。

 水野は特に、「神聖なる学校」を参観させ、
何も知らない小学生に
美しい軍服を着たロシア人捕虜の姿をさらすのは
「俘虜の何たるか」を誤解せしめることで
最もいけないことだと説き、
「抑々(そもそも)俘虜の待遇法に関しては、
国際法上一定の規約ありて、猥に虐待、凌辱を許さない
。併し決して国民性を害して迄も、
之を優遇せよとは要求して居ないのである」と、
「行き過ぎ」を厳しく戒めている。
『此一戦』が日本人の捕虜観に
大きな影響を与えたことは特記していい。

 これより前、福岡日々新聞(1905年6月13日付)は
「柳町の俘虜登楼拒絶−楼主会の決議」と報じている。

 それによれば、旅順の捕虜は比較的謹慎しているが、
奉天の捕虜は横着だとし、
「酒色に飢えたる彼らは散歩許可と同時に遊郭に入り、
酒に飽き色を買はんとし」
それに呼応した楼主らはこれを
「奇貨」として歓迎するものさえあるのはけしからん
と主張している。
「名古屋の俘虜一将校は早くも芸妓小三なるものを
落籍の珍談を伝へ、
其の他の一二風俗壊乱技師の称ある芸妓が彼等に売淫したとか、
せざりしとか」
「伊予道後温泉場の如きは…全く俘虜の専有に化し」
蹂躙された。

 小倉収容所の捕虜は
「日々獰猊(どうげい)悪相の珍客三々五々出入し…」などと
各地から伝えられる話を列挙し、
「我が出征軍人は開戦以来酷暑と言わず、
想像も及ばざる艱難辛苦をなめ、
厳重なる軍律の下に立ちて血を流し、
命を投げ打ちて勇戦しつつある今日」、
柳町楼主会は俘虜の登楼を断じて拒絶すると決し、
「各娼妓にも夫々此の趣を告げ聞かせるに、
何れも安堵の色を現はしたるよし、
流石に侠気ある博多ッ子といふべし」と結んでいる。



  
水野廣徳(1875〜1945)。海軍軍人、後に評論家。愛媛県和気郡広町(現・松山市)出身。日露戦争の旅順口閉塞や日本海海戦に参加。軍人としての活動のかたわら、軍事関係の著述活動も行う。1911(明治44)年に出版した『此一戦』は、桜井忠温の『肉弾』とともに戦記文学の双璧とされ、版を重ねた。第一次世界大戦直後にヨーロッパへ留学、戦争の惨禍を目の当たりにし、人道的平和主義者へと大転換。退役後も筆を休ませることなく、太平洋戦争に向かう社会情勢の中で、日米の対立激化を憂慮するような著述を出し続けた。