スイセン(水仙)B [2007年05月04日(金)]
まだまだあります。これもスイセンです。
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吹浦 忠正
at 21:21
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動植物
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スイセン(水仙)A [2007年05月04日(金)]
いろいろなスイセンを見ました。いろいろなアングルで見ました。

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吹浦 忠正
at 21:12
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動植物
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スイセン(水仙)@ [2007年05月04日(金)]
挿画は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
この季節、まだまだ美しい花が競うように各地で咲き誇ります。
都内、茨城、山梨で出会ったスイセンです。
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吹浦 忠正
at 20:58
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動植物
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新緑の候は桜の候 [2007年05月04日(金)]
「実相寺春爛漫」。挿画は、石田良介画伯作。特段のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
さまざまの 事おもひだす 桜かな

山路きて 何やらゆかし すみれ草

いずれも芭蕉の句。
GW、好天に恵まれました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
小欄の挿画でおなじみの石田良介画伯のご厚意で、私は八ヶ岳山麓の標高1100m付近を散策しています。桜やすみれはちょうど満開、楢やブナなどはいっせいに芽を吹き始めました。
桜は今月末に根室の清隆寺のチシマザクラまで北上を続けます。日本の春が満開、新しい力を感じさせる季節です。
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吹浦 忠正
at 18:29
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季節
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南鳥島、あやうく米国領に [2007年05月04日(金)]
南鳥島唯一の船着場
今にのこる旧島民の墓地
写真はいずれも海上保安庁提供。以後も同じ
南鳥島についての2回目の話。
19世紀になると、米国を始め欧米各国の船が
盛んに太平洋を航行するようになった。
しかし、
南鳥島はあまりに小さく、低い島で目立たず、
それでいて上陸が至難で、
飲料水も容易に入手できない無人島であったことから、
さして強い関心の対象とならなった。
この頃の捕鯨船によるレポートが2〜3あるようだが、
島の位置や名称がまったく曖昧で、
果たして今の同じ島のことを指しているかさえ、
定かではない。
1864(元治元)年、米国船モーニングスター号で
Captain Gelettが現在の南鳥島に来訪したことが
記録されている最初。
このとき、島の英語名をマーカス島とした。
ただ、これについては、は当時独立国だったハワイ王国の宣教師の船だ
という説もある。
また、より重要な点は、この行為は国際法でいう
先占にはあたらないため、
同島は無主の地と見なされていたことである。
次いで1868(明治元)年5月 、
Captain Kilton が
「デイヴィド・ホードレー David Hoadley 号」で
この島を訪れ、
「樹木と藪で覆われた低い砂浜の島である」
と報告した。
その後1874(明治7)年には、米国の測量船
「トゥスカローラ "Tuscarora 号」 (Belknap 艦長)が
島の位置を初めて天測し、
北緯24度14分、東経154度とした。
さらに、1880(明治13)年には、
フランス海軍の「エクレヨーEclai-Ieu 号」(フォルニ艦長)
が北緯24度30分、東経153度57分と発表した。
日本人として南鳥島を訪れた記録は、
1883年(明治16年)11月、
高知の人・信崎常太郎らが英国船「エター号」 で近づき、
上陸したのが最初とされている。
さらに、明治35年7月26日付の東京新聞では、
1879(明治12)年に静岡の人・斎藤清左衛門が、
この島に上陸したと報道されている。
1889年(明治22年)6月には、
米国籍帆船のローズヒル A.Rosehill船長がこの島を発見、
上陸して無人島であることを確認した。
その結果、我こそは島の発見者であると、星条旗を掲げた。
ローズヒルはホノルルに帰港後、
この地にいた米国公使を経て、国務省に報告書を送り、
グアノ(燐鉱)の採取権を与えるよう申請した。
しかし、米政府はなぜか、その申請を13年間も
放置してしまった。
しかし、実際に開拓にあたったのは水谷新六。
水谷は1853年、三重県桑名市生まれの
今でいう商社員と実業家を兼ねたような人物。
水谷は、太平洋の彼方にあるとされた伝説の島
グランパス諸島を発見せよという、
所属する金中社の社命を受け、
帆船天祐丸で出航したが、
グランパス島に到達することは出来ず、
苦難の挙句は、風雨に遭遇、
かろうじて1895(明治28)年12月3日、
ほとんど偶然に南鳥島に漂着した。
水谷は小笠原の母島から数十名の人夫らを率いて、
1896(明治29)年6月30日に上陸した。
やがて集落を形成、「水谷村」と命名し、
グアノの採掘、アホウドリの羽毛採集、漁業、
ヤシ栽培などに従事した。
報告を聞いた日本政府は98年7月19に、
正式に日本領に編入し、南鳥島と命名した。
爾来、行政上の所属は東京府小笠原島村とされ、
今日に至っている。
水谷が提出した地図は同島に関する最初の実測図で、東京朝日新聞の1900(明治35)年7月29日付に掲載された。
水谷は、日本政府から10年間、同島の貸与を受けて開発にあたることになった。その後、横浜の貿易商・上滝七五郎らも参画し、島の開拓は少しずつ進捗した。
これに対し、ローズヒルは、
1902年7月11日、米国国務省から同島での
開拓と経営の権利を認められ、
ジュリア・ウェイレンJulia E. Whalen号でホノルルを出港した。
情報をキャッチした日本政府は、
同月23日、後、大正期に大隈内閣の外務大臣として、
「石井=ランシング協定」をまとめたことで知られている、
外務省の石井菊次郎(1866〜1945)通信課長を、
海軍陸戦隊を乗船させた巡洋艦笠置(4900t)で派遣した。
一行は27日に同島に到着、座礁の危険のために
投錨できず、
やむなく秋本秀太郎海軍中尉以下17人の陸戦隊員に
三ヶ月分の食糧を置いて残置せしめ、横須賀へ引き返した。
30日、ローズヒルが到着した。
秋本中尉は石井書記官の英文覚書や、
紛争回避を求めたA・E・バック駐日アメリカ公使の
書簡などを手交し、退去を迫った。
米側一行は8月7日、ホノルルへと引き上げざるを得なかった。
その後も、ローズヒルは米国政府に、
日本側から400万ドルの賠償金を取るべきだと
法的手続きを準備したという話があるが、
結局、米政府はそれ以上動かず、
事態はあいまいなまま、日本の領土として確定していった。
世に、「南鳥島事件」として伝えられる一件である。
このときに、
もし日本政府がこうした毅然たる態度を取らなかったら、
今、南鳥島とその周辺200海里という
膨大なEEZ(排他的経済水域)は米国に帰属していた
であろう。
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Posted by
吹浦 忠正
at 16:35
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領土問題
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豪州より東に日本が @ [2007年05月04日(金)]
●オーストラリアより東に日本の領土
最東端は、東京都小笠原村南鳥島である。
北緯24度17分、東経153度58分。
つまり、北回帰線のスグ北にあって、経度で見るなら、オーストラリアの最東端ブリスベーンよりさらに東にある、正真正銘の日本の領土なのである。
約20万年前に地殻が変動して、海底の山となり、その上に珊瑚礁が出来たもの。
海抜は最高地点で約8m、周囲は約6km、面積は約1.51ku という、小さくて平坦な、絶海の孤島である。
海上保安庁作製の海図によれば、島を囲む海は海岸からすぐ深海になっている。
日本の硫黄島とアメリカ領であるウェーク島から1,300km程度の等距離にある。このため、太平洋戦争時には、日本軍はこの島を要塞化した。
米軍の上陸や島での陸上戦闘は起きなかったが、開戦から4ヶ月にも満たない1942(昭和17)年3月4日というきわめて早い時期から爆撃が行なわれ、日本軍にかなりの死傷者が出た。
また、攻撃にあたった米軍側にも搭乗機が撃墜されて捕虜になった者がいた。
今でも島には旧日本軍の戦車や大砲などの残骸が残っている。
現在、気象庁(南鳥島気象観測所)、海上保安庁(南鳥島ロランC局)、海上自衛隊(南鳥島航空派遣隊)が施設を持っており、居住者はこれら機関の職員のみで一般の定住者や外国人はいない。
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吹浦 忠正
at 10:04
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日本
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日露戦争と捕虜 (26) [2007年05月04日(金)]
拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)の一部を加筆修正して連載している。
●ロシア人捕虜の不満
松山の収容所をはじめ各地の収容所で、のちには捕虜の自由外出、将校には本国からやってきた夫人の同伴も許され、借家住まいができるようになった。
それでも捕虜側にはさまざまな不満が続いた。
松山で捕虜生活を送ったクプチンスキーは『松山収容所日記』で「あらゆる欠陥をひっぱり出し、意識的無頓着さだときめつけて、日本人を責める意図は毛頭ない。わが敵の名誉のために弁護するなら……日本人は自分の力でできることはなんでもやった」としながらも、次のように述べている。
「日本人の教養のない振舞い、将校の自制心の喪失、癇癪玉の破裂……」、つまらぬトラブルから松山収容所長河野春庵大佐(第2期士官生徒)が「捕虜の大佐の足、腰、頭を鞘に入ったままのサーベルで殴り歩行困難となっても人力車をよぶことが許されなかった」「若い准尉が侮辱された」こともあった。「日本人将校は准尉のセント・ゲオルギー勲章をひきちぎって足で踏みつけた。准尉の不服従に立腹したためである」といった内容だ。
すぐ営倉に送りこむことも恐怖をもたらしたとあり、その営倉の「寒さと不潔さは我慢ならないひどさだった」。
フランス語やロシア語の新聞をとることは禁じられた。
「日本人好みの員数計算の繰返し、せせこましさ、融通のなさ、杓子定規にはうんざりした。佐世保で携帯品、衣類、人体の消毒があった。裸で寒さが身にしみる。抗議しても分かってくれない」…といった内容だ。
若くてクセのあるこういう人物が針小棒大に書き上げて自己の存在をアピールした部分が大いにあったような記述ではあるが、あえて紹介した。
逆に、クプチンスキーを最大限満足させたのは日本赤十字社の看護婦たちだった。
「わが負傷兵に惜しみなく示された優しい、献身的な世話、肉体的苦痛と精神的苦悩をやわらげようとする親切な看護は決して忘れることはないであろう。情け容赦なき血なまぐさい戦争を背景に、敵兵を献身的に世話するこの優しく、柔和な、素直な、勤勉な、そして誠実な日本女性はめったにいない嬉しい例外である!」と賛辞を惜しまない。
同様の記述が、ロシアで過ごした日本人捕虜たちの記録や回想録にも多々あるのは、嬉しい限りである。
しかし、多くの若手将校たちと同様、クプチンスキーもまた祖国ロシアの現状に満足せず、政情不安を危惧していた。「一、二年で戦争は終るかも知れない。そしたら捕虜は自由になれる。しかし、ロシアの官憲の横暴、ロシア専制の手中にある囚人同様の国民の境遇はいつ終わるだろうか」と「自由への夢」の一節で述べている。
福知山俘虜収容所を管轄した留守第10師団(姫路)の参謀長だった小原(おはら)正恒歩兵大佐(歩兵第1連隊長として旅順戦を戦い南山で重傷を負い帰国。後1907年5月7日に少将任官、即日予備役)は『自叙伝』で、日露戦争当時の収容所の様子を次のように述べている。
俘虜の取扱いは従来に例なきに因り、注意して給与に不自由なからしめ、以って十分慰安を与えたり、而(しこう)して彼らの自弁は努めて節約せしめたり、故に俘虜も亦大(またおおい)にその徳を感ぜしものの如し、元来、露西亜人は性質純朴にして無邪気なるも、怠慢不潔にして掃除を怠り洗濯を嫌う、故に食後の運動を除く外は、概ね室内に安坐して何事もなさず、所謂(いはゆる)小人閑居して不善を為すの譬えに洩れず、或は逃亡を謀り、或は勝手なる要求をなし、許さざれば不平を鳴らす。
福知山の収容所の中には法学士で1年志願のロシア人捕虜が二人いたようで、この二人が、「衣服が悪い靴が歪んで居る」「もっと厚遇せよ」「講和がなればロシアがその費用を払うのであるから日本の負担にならぬ」などと言い、何かにつけて欧州各国の例を引いたりして収容所長を苦しめた。
これに対し所長は、日本軍将兵の質素な衣食を示して訓戒し、漸く納得させたという。
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Posted by
吹浦 忠正
at 08:07
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捕虜
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