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若かりしころの恋人 [2007年03月04日(Sun)]


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 左は、今は懐かしい?ソ連の国旗。右は帝政ロシアの国旗であり、1991年にソ連が崩壊して以降のロシア連邦の国旗。



 ラオスとロシアの関係は単純にして複雑だ。「若かりしころの恋人」のようなものだ。

 1975年末のラオス革命直後には、2千人ものソ連人がラオスにやってきて「指導」にあたり、他方、ラオスからも大勢が出稼ぎや「学習」のためソ連の各地に赴いた。

 この間、私自身モスクワをはじめ、ソ連の各地で多くのラオス人やベトナム人に会ったことがある。

 ラオスがソ連圏のメンバーであったということである。

 しかし、1991年末のソ連邦の崩壊と民主国家・市場原理導入国家となってから、こういう関係は完全に消滅した。それでも一定期間、ラオス人民革命党のリーダーたちの多くはモスクワに留学していたこともあり、「依然、ある程度の影響力は保持していますよ」と桂大使は語っていた。

 ラオス人民革命党の党旗(日本共産党もほぼ同様だが)は、依然、旧ソ連国旗とよく似た、「鎌と槌」のついた赤旗である。ヴィエンチャンの街角でもよく見かけた。

今も不発弾が100万発 [2007年03月04日(Sun)]




 不発弾の残骸を踏む筆者。2月26日、ヴィエンチャンの国立リハビリテーションセンター内の難民を助ける会車椅子工房前庭で。



 ラオスとアメリカの関係も単純ではない。

 ラオスがフランスの支配下を脱した1953年以降、冷戦期にあったアメリカはラオスでは中立派や右派を支援した。ベトナムで南ベトナム政権を強力にバックアップしたのと同じだ。

 加えて、ベトナム戦争時に「ホーチミンルート」がラオスを通っていたため、アメリカはその周辺を猛爆撃し、ラオスは否応なしに、戦争に巻き込まれる形になった。

 このため75年末の政変以降、ラオスとアメリカの関係は急速に冷却し、ラオスはソ連・ベトナムに大きく傾いた。

 ラオスとアメリカの関係でもう一つ重要な懸案が、シエンクアン州を中心とする米軍のUXO(不発弾)問題である。その数100万個ともいわれている。それとともに、米軍の行方不明兵士の遺骨問題など、こうした面を通じ、両国関係は次第に正常化しつつある。

 2004年12月になって、米国議会はようやくラオスに「通常貿易待遇」を与えた。ちなみに、アメリカがこうした待遇を付与していないままの国はキューバと北朝鮮のみとなった。

 加えて、アメリカにはラオス難民が50万人もいる。そのうち、約半分が、ベトナム戦争中、米軍に協力したモン族といわれる山岳民族である。ミズーリ州には特に多く、上院議員の一人がモン族出身の女性である。

 ラオス政府は最近になって、在米ラオス人等の帰国を促進するよう法の改正を行なった。「経済力と英語が魅力なんですよ」と消息通は言う。アメリカからの直接投資は、13位、外国からの投資総額の0.3%に過ぎない。

 ラオスにとってアメリカは未だ遠い国ではあるようだ。
ラオスとフランス [2007年03月04日(Sun)]
  


 ラオスとフランス。両国旗を並べてみれば・・・



 映画「インドシナ」の冒頭で、カトリーヌ・ド・ヌーヴが「インドシナは永遠にフランスである」と述べる。

 この映画、なんと1992年の作というから、決して古いものではない。ベトナム戦争が終わったのが1975年、それから17年も経って、なお、こういうセリフがあったのである。

 フランスは今、フランス語圏、正確に言えばかつてフランスの植民地や支配下にあった国々との関係を重視している。ODAのほとんどはそうした国々へだし、毎年、フランス語の維持と普及のための大規模な会議を、こうした国々の代表を大勢集めてパリで開催している。

 1893年から1954年のジュネーブ協定まで、約60年間、ラオス、ベトナム、カンボジアのインドシナ3国はフランスの支配下にあった。そして1975年の共産化まで、フランスはラオスを徹底してフランス化した。

 教育から始めた。小学校からフランス語での教育であった。いまでも中年以上のインテリはみなフランス語を解すといっても過言ではない。

 私が多年、親しくしてきたウドム・ラタナボン麗澤大学教授はいわゆる定住難民であるが、大学での講座はまずフランス語からだった。日本名は、竹原茂。「故郷ラオスは竹の国。それがすばらしく茂るように発展してほしいから」という。

 ヴィエンチャンは3年前には「本屋のない町」だった。それが今度は目抜き通りに一軒見つけた。並んでいる多くがフランス語の本だった。言語や文化の面で依然、多きな影響力を保持しているのがフランスであり、援助国としても常に5指に入っている。特に、人材育成や保健面での協力が大きいという。
ラオスと中国 [2007年03月04日(Sun)]












 ヴィエンチャン3景





 ラオスと中国の関係も微妙である。1979年の中越戦争のときにラオスがベトナム側に立ったことから、両国関係は難しくなった。

 しかし、最近のラオス政府の方針は、ベトナムとの「特別な関係」に次ぐものとして「中国をはじめとする社会主義国との全面的協力関係」を挙げている。雲南省とは国境を接してもいる。

 中国は、昨年、ヴィエンチャンの中心部にひときわ目立つ「文化会館」を建設、寄贈した。また、2002、03年度には、日本に次ぐ第2のドナーであった。このように中国は次第にラオスにおけるプレゼンスを増しつつあるのは確かだ。

 中国にとって、ラオスの地政学的重要性にようやく注目し始めたのであろう。

 ただ、街を歩いていてもホテルでも中国人とは会わなかった。山手線の中の方が、最近では、はるかに中国語が聞こえてくる。
国際化進むラオス [2007年03月04日(Sun)]




 首都の街角で



 ラオス国民の約60%が、低地ラオ族と呼ばれる人々で、他に計49族が、日本の本州と同じ24万平方キロメートルの国土に住んでいる。

 ラオスで今一番通じる外国語は、タイ語である。もともと、ラオス人は、ほとんど苦労することなくタイ語の放送が理解できるのだそうだ。特に、東北タイの人々とは民族も同根で、言語もほとんどそのまま通ずるという。ラオ族がタイの王朝だったときもあるし、1500万人ものラオ族がタイの領内にいるとも言われている。

 とにかく川一本で向こう岸はタイという関係である。19世紀末のフランス支配に入るまで、ラオスはタイの属国であった。1975年末にラオスが共産化した当時は、タイとの間にかなりの緊張感があったが、いまでは、経済的にタイなくしては成り立たないほど密接な関係にある。

 ラオスの輸出入、外国からの投資のいずれにおいてもタイはその半分近くを占めている。60倍の経済規模の国と隣接しており、「圧迫感さえ感じる」という人は多い。

 近年、ラオスは近隣諸国との友好関係の維持拡大に転じ、1997年7月にはASEANに加盟、2004年末にはその首脳会議をヴィエンチャンのメコン川のほとりに新築したドンチャンホテルで開催した。

 こうした動きとコンピューターの普及、そして欧米、特にアメリカに逃れたラオス難民の帰還や接点などもあって今や英語がラオスの第一外国語になりかけているように私には思えた。

 市内で、ルクセンブルク人やエチオピア人と偶然話す機会があった。ラオスは今、少なくとも首都では国際化が大きく進展しているようだ。
「微妙な国」ラオス [2007年03月04日(Sun)]




 現在のラオスの国旗。赤は革命の血と社会主義、青はメコン川、白い丸は月と国花の統一を表す。




 国花プルメリア




 プルメリアをデザインしたTシャツも人気だ。




 ラオスは1975年の12月2日までは王政だった。その年の暮、左派であるパテト・ラオによる「革命」によって王政が倒され、人民民主共和国となった。革命勢力は、今、人民革命党と称し、91年の憲法で、一党独裁であるとし、マルクス・レーニン主義を標榜している。
 
 この「革命」は、75年4月30日にサイゴンが陥落してベトナム戦争が終焉し、それに伴うインドシナ全体の政変といっていい。かつてアメリカの学者や為政者たちが唱えていた「ドミノ理論」はその意味で、ラオスに関しては正しかったといっていいが、タイは社会主義勢力に対する強力な防波堤になった。

 ラオスの国旗は王政時代の「赤地に3頭の白像」から現在の国旗に変わったが、国花は昔も今もプルメリア、なんとも美しく家々の庭先などに樹木となって咲いている。

 75年以降、即勢力を伸ばしてきたのはソ連だった。今回、私の自動車を運転してくれたシモン氏(50代前半)は、76年から83年まで「ソ連のウクライナ」で電気技師として働いていたので、ロシア語ができる。

 政府高官でもロシア語に通じている人は結構いる。

 もっとも、フランス語の浸透は依然続いている。50歳以上のインテリなら全員、フランス語が出来るといっていい。街にもフランス語の看板がたくさんある。

 ロシア語世代の次がベトナム語世代である。ベトナムによる強力な後押しがあってこその、一党独裁なのである。人民革命党はベトナム共産党の「弟分」と断じていい。政府も公然と「ベトナムとは特別の関係にある」という。

 1979年2月の中越戦争では、ラオスはベトナムを支持した。今、ベトナムは乏しい中からラオスに経済技術協力をしている。

 政治的・軍事的には完全にベトナム寄りだが、経済的にはタイのバーツ経済圏にある。ベトナムでは「ドイモイ(刷新)政策」で急速に市場経済化が進められ、発展途上にあるとはいえ、8200万人の人口の個人所得(GDP)ようやく700ドルを超えたばかり。6400万人の人口のタイはそれが2600ドル。

 つまり、タイは経済規模においてラオスの60倍以上にもなるという、地域経済大国なのである。
「兄弟」を確信 [2007年03月04日(Sun)]



   兄・忠晴4歳、私が1歳か? 右は母・タヱ。秋田市土手長町の川辺で。



 採血してくれた看護婦からは「1週間から10日ほどで医師から結果をご連絡します」と言いわれましたが、それから1ヶ月ほど、病院からは何の連絡もなく、堪忍袋の緒が切れた私は12月26日、年末もぎりぎりに、担当医に詰問する口調で電話しました。

 返事は「HLAは完全に一致していた」。

 何たる無神経、こっちは今か今かと、文字通り、日々祈る気持ちで連絡を待っていたのに。当然、医師にストレートに不満をぶつけました。

 私自身、長年、大学に関係していましたので、「専門バカはバカ専門」と「社会的責任欠落症」にならぬよう気遣い、それなりに自戒して来たつもりでした。この医師の社会人としてのお粗末さは私以上? 正直、唖然としました。

 ただ、この怒鳴りつけが効いたのか、その後はメールや郵便での連絡が頻繁になり、すべてが順調に進みました。本来、すばらしい医師であり人格者なのでしょう。以後の対応は完璧で、今では素直に頭を下げたくなる気持ちです。

 結局、3年近くたって、この医師に再び治療を受け、とても親切にしていただきました。

 わが兄弟は、私以外、全員、全国大会や国体に何度も出場するスポーツマン。発病した兄の次女は数年前、パリでの女子レスリングの世界選手権に出場したほど。それに比べて私としたことに、小学生の頃、「お前の兄貴は7段の跳び箱を跳んで空中転回していた。なのにお前は何で4段も跳べないのか」と教師にイジメ?られ、体育落ちこぼれ組の典型。中学で軟式(ソフト)テニス部に入りましたが、「市内大会で3回戦まで行った」と嬉しそうに報告しても、「フン、それがどうした」という雰囲気。兄弟はみな県大会、東北大会、全国大会…と進み(次兄は軟式テニスで日本と東洋の選手権者だった)、家にはカップやトロフィーがゴーロゴロという状況でした。

 発病半年近く前の3月23、24の両日、日本武道館で行われた、東京卓球連盟主催の大会で、60歳以上男子の部Aクラスに出場して優勝、また、40代と60代のペアによる男子ダブルスでは、上海オープンの覇者だったこともある徐向東組を破ってこれまた優勝している。

 体形も違い、忠晴は、メタボリック系の私とは正反対。だから、心のどこかに、私はもしかして・・・という気持ちがなかった訳ではありません。そうでも思わなくてはこの「体育無能力症候群」は納得のしようがなかったのです。

「兄弟でも4、5人に1人」というと割りに「打率」が高いようですが、さて、どうでしょう。今の時代、そしてこれから、そんなに兄弟がたくさんいる家族は、珍しいでしょうから、1人でも多くの方がこぞってドナー登録をして、お互いの身を守るほかないのではないでしょうか。

 骨髄バンクには今17万人ほどが登録しているようですが、これが30万人になると、ほとんどのレシピエント(ドナーから造血幹細胞移植を受ける人)に適合する登録者がいることになるというのです。
 
兄の発病 [2007年03月04日(Sun)]



「ほし柿」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 私は6人兄弟の末っ子、内、すぐ上の忠晴だけが私とは母親ともいっしょ(他の兄姉は父の最初の妻の子で、その母親が亡くなって3年後に父は私と忠晴の母となる人と再婚)という構成です。

 兄は、身長も大きく、痩身で、私とは体形もまるで違います。

 兄は小さな頃からなぜか「ほし柿」が大好きでした。私は熟柿をスプーンですくって食べるほうが好きでした。ことほど左様に何もかも違った兄でした。

 小さい頃から卓球の全国大会レベルの選手であり、次女はアマチュアレスリングのパリで開かれた世界選手権で銅メダルという、運動神経ぶりです。スポーツのほかに、手品のタネや仕掛けを考えるのが大好きで、手先もしんじられないほど起用でした。

 兄の職業は手品(奇術)師です。初代の引田天功とは無二の親友といってもいい関係でした。

 遊技やスポーツでオチこぼれの私とはエライ違いで、学校時代やその後もモテモテの人でした。特に幼子たちや少年に囲まれると、頼まれもしないのにカードを出したりして、子どもたちは興奮し、もう大変な騒ぎでした。老人施設への慰問も終生、続けていました。

 もっとも、それだけは私が高校生のときJRC(青少年赤十字)の活動の一環として施設をまわっていたとき、協力してもらったのが最初です。

 2003年9月、演技の途中に突然、体調を崩し、翌日、自分で運転してとりあえず、足立区の自宅近くのクリニックに行きました。そこでは診断がつかない?まま、血液内科のある専門病院を紹介されましたが、そこでもはっきりしなかったようです。

 ひと通りの検査を終え、帰宅しようとした兄を看護師(どうにも最近変ったこの言葉が好きでないので、以後、敬意と親しみを込めつつ従来どおり、看護婦と呼ばせていただきます)が駐車場まで追いかけてきて、「運転はいけません」と止めてくれたそうです。

 これが兄にとってツキの始まりでした。兄の病状はかなり悪かったのです。しかし、そこでも対応しかねて、東京女子医大付属病院を紹介されました。

 ところが3番目の東京女子医大付属病院でも手におえない様子で、「これはより高度の専門 医のいるところがいい」とか言われて、都立駒込病院に回されました。

 この病院は「エイズといえば駒込」と言われるくらい、「血液」には強いといわれているところです。それでも血液内科は新人を含めわずか7人の医師が交替で勤務しているという、それはそれは多忙を極めている雰囲気のところでした。

 さすがに都立駒込病院、一発で骨髄異成形症候群と診断し、そこから医師、患者、家族、そして私ども弟夫婦が一体になって、本格的な「傾向と対策」が始まりました。

 実は、私どもの父親も60代半ばで喉頭癌を発病、1960年に秋田日赤病院でそのように診断されました。昔のことですから、今とは医学の水準が月とスッポンくらいの違いだったのではないでしょうか。しつこく病名開示を求めた父に、医師はずいぶん困惑したようです。でも、最後は、きちんと告知してくれました。そこで、父は単身、東京に出てきて、大塚の癌研究会付属病院に通院し、コバルト60の照射をふた月近く受けて、根治したようです。6年ほど後に、別の病気で亡くなりました。

 兄も同様に告知を希望し、若い担当医はその強い意志を確認し、すべてを本人と家族に知らせました。

「このままでは半年か、長くて1年程度」
「骨髄移植しかない。それにはドナーを探さなくてはいけない」
「HLA抗原(白血球の型)は2万種類くらいあり、兄弟でも4人に1人しか完全には一致しない」
「骨髄バンクに登録している人は17万人ほどいるが、HLA抗原が完全に合うという人はめったにいない」
「また、合致してもいろいろ事情もあり簡単に応じてくれるか、応じられるかは不明である」・・・

 2003年11月19日、駒込病院で、まず私がHLA検査を受けました。ドックで採血されるのと同じ要領で右腕から20ml程度の血液を採られました。

 このあとの本格的な大量採血で自分の血液を作ってゆくく細胞(造血幹細胞)が体内から出て行くということに、不安がないといえばウソになりますが、これで直接、一人の命を救えるのだと思えば、なんともいえない喜びが、湧き上がってきました。

 検査の結果、私との、HLA抗原が完全に一致することがわかり、一安心したのでした。

 いまさらながら兄弟であることを確信しつつも、たまたま一致したからいいようなものの、これからの少子化時代、ドナーを探すのは大変なことだろうなと、心配になった。

  


白血病の兄へ移植 [2007年03月04日(Sun)]







 剪画、挿画とも石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。





 3年前のきょう3月4日、私は骨髄異成型症候群を患った兄・忠晴(当時66歳)に造血幹細胞(つまり赤血球や白血球を製造する細胞ですが)の「末梢血幹細胞ミニ移植」を行うため、築地の国立がんセンター中央病院で必要な採取を受けました。

 その兄が、医師をはじめとする医療スタッフの懸命な努力と二人の娘の看病も空しく、旧臘19日に亡くなりました。

 発病後、よくて半年と言われた命がとにかく、3年近く持ちました。この間、私の分身である造血幹細胞は兄の体内で確実に増殖し、兄はO型からB型に血液型も変わり、「寛解」というところにも至り、あるいは完全回復もあろうかとの期待も抱かせてくれました。

 この治療はまだ最先端医療で、臨床例も少ないのですが、3年存命率は37.4%といわれています。残念ながら、兄は、この、イチローの打率以上の%の中に加わることが出来ず、この世を去りました。

 今でも、毎日、兄の遺影に手を合わせるのですが、思い出ばかりが湧いてきて、現実に世を分かつところにいるとは信じられません。

 以下、私と兄の体験をお伝えし、先端医療のさらなる進歩・発展を期待したいと思います。

☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 この造血幹細胞移植というのは、終わってみれば、私の右腕に太い針を刺して自分の血液の22倍程度(約100リットル)の量を採血され、不要なものを左腕に返してもらう、いわばそれだけのことなんです。

 2時間半ほど、医療用安楽椅子のようなものに座り、映画「釣りバカ日誌・第14作」を見ていただけなのですが、造血幹細胞を急増するための事前の注射の副作用で、「老骨」はギシギシと痛み、1週間たっても、まだホカロンで腰をあたためていました。

 それでも退院4日後には「勇ましくも」アエロフロートのエコノミークラスに搭乗、モスクワでの国際会議に向かいました。気分爽快。最先端医療の進歩に参画したような、ほんのちょっとした誇りのようなものを感じつつ、ロシアの学者や政治家たちと、北方領土問題や日ロ平和条約について激論を交わして来ました。

 この3年、ほんとうにいい年を過ごしたような気がします。兄も副作用や余病に耐え、最後まで、よく頑張りました。私にはとても出来なかったような気がします。

 そしてこの3年間、実にいろいろなことを体験しました。順を追ってお話しましょう。
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