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防衛省の呼称はいいが [2007年01月09日(Tue)]





 2006年海上自衛隊観艦式で撮影。向こう側の自衛艦には安倍首相が乗艦




 創設53年目にして防衛「庁」が「省」になった。私は自衛隊員のご苦労を何度も見、隊員各位を大いに尊敬している。それだけに、このたびの名称変更は遅きに失したとはいえ、結構なことだと見ている。

 これからも諸事多難な中で、専守防衛を通じて、日本と世界の平和と安全に尽力していただきたい。

 そこで、伺いたいのだが、自衛隊に関する他の呼称で、摩訶不思議なもの、世界に通用しないものはほかにどんなものがあるか、「自衛隊言い換え語集」をこの際、公式に発表してみてはいかがか。

 非公式なものはいろいろ出回っているが、もうこれはこれでいいというのもあるし、どうにも理解できないというのまであるはずだ。

 私はかねて「将補」がおかしい、と主張してきた。「少将」なり「准将」なりとしっかり区別すべきだ。また、「将」についても「中将」なのか「大将」なのか、容易にはわからない。将校や兵の階級も、国際的にはどうかと思う。

 英語で言う場合は、米英軍と同じものを使い、日本語だけのときは別というのも腑に落ちない。私など、英語で階級を言うことはできるが、日本語ではあやしい。

 そんなことで、「自国の軍隊」否、「命がけで自国の安全保障に責任を持って取り組んでいる公的集団=自衛隊」に、隊員自らまた国民自らが誇りをもてるものだろうか。

 「平和に賛成」「軍国主義反対」では人後に落ちぬつもりだが、どうもこの呼称1つでも、もっと自信と誇りにつながるものであってほしいと、私は思う。
35年ぶりの定期券 [2007年01月09日(Tue)]


 35年ぶりに定期券を持った。この間は、諸般の事情でマイカー通勤だったのだ。地方都市では普通のようだが、東京では珍しいかも。

 スッタフや家族からは定期券は「@駅員に見せる、A改札口で小窓にかざす、B駅員に小さな穴を開けてもらう、C自動改札装置の穴を通す、どれか」とからかわれる始末。

 正月も9日ともなるとかくも混んでいるのかとびっくりした。これでは風邪はすぐうつってしまうなというのが実感。

 友人が身に覚えのない行為であらぬ疑いをかけられ、大苦戦している。だから、私は脇目もふらずに、小さな本を両手で持って真剣に読んでいた。『のだめカンタービレ』。漫画ではなく小説のほう。

 そして、最終章、「のだめ」が本選に出場するあたりから、11月に出かけた浜松国際ピアノコンクールを作中のマラドーナ国際ピアノコンクールと重ねていた。

 そして、やはりこういう小説や漫画ででも、若いクラシック音楽ファンが増えてくれれば、音楽の神は微笑んでくれるのかな、と読了し、目をつぶり、少しニンマリした。

 おっと、地下鉄はもう、溜池山王に到着だ。目黒からわずか11分、乗り換え乗り換え。忘れまいぞ。一駅で虎ノ門。路上に上がったら、わが短足でもわずか191歩で「ユーラシア21研究所」に着いた。

 きょうから世間は本当の仕事始め。なんだか新卒サラリーマンのような気分だ。

 明日は終日、「徹底討論:日ロ関係」。学者5人と3大使が参加しての内部の勉強会だ。がんばらないと、とついはりきってしまう。


小説 のだめカンタービレ

小説 のだめカンタービレ
佐々木とイラクと米国と [2007年01月09日(Tue)]



 昨年7月31日、番匠幸一郎陸将補(元陸上自衛隊サマワ派遣群長)がお見えになり、佐々木良昭東京財団シニア・リサーチフェローに、西部方面総監の林直人陸将からの感謝状を贈呈してくださった。財団の、加藤秀樹会長以下、全役職員が拍手する中で、簡単な授与式が行なわれた。




「キミ」は佐々木良昭(敬称略)を知っているか。
 
 稀代のアラビストである。4年前、彼と出会った。当時私は東京財団研究推進担当常務理事であった。それまでに佐々木のいくつかの論文や著書を読んだり、テレビに登場するのを見たりはしていたが、直接の面識はなかった。

 さまざまな紹介者が相次いだ。小田村四郎拓殖大学総長(当時)、佐瀬昌盛同大学海外事情研究所長、小池百合子衆議院議員・日本アラブ協会副会長、井川一久元朝日新聞ハノイ支局長、小川和久国際政治アナリスト・軍事評論家といった人たちだった。

 佐々木は当時、拓殖大学の教授を解任されたばかりだった。15分ほど事情を聴いて私は「この男を活用しないのは国家的損失だ」と思い始め、その後の話し合いで、確信するに至った。

 早速、日下公人東京財団会長の了解を取り付け、笹川陽平日本財団理事長、入山映笹川平和財団理事長、歌川令三日本財団国際担当常務理事のみなさんに引き合わせ、いずれの方も同じような評価をしてくれた。

 かくして、佐々木は東京財団シニア・リサーチ・フェローとなり、少なくとも小泉政権時代、わが国の対アラブ・イスラム政策に大きく関わり、とりわけ、自衛隊のイラク派遣にあたっては、派遣部隊の顧問として当初2回にわたって、サマワに滞在した。派遣部隊が大過なく任務を終了できたことに大きく貢献し、佐々木は部隊から感謝状を贈られた。

 佐々木は行動する学者である。毎年、中近東諸国を何度も訪れ、すばらしい人的ネットワークを築き上げた。これは東京財団の財産であるというのみならず、わが国の貴重な宝である。

 ほかにもいろいろ感心することが多いが、一つだけ挙げると、毎日、東京財団のHPに「中東Today」を連載していることだ。

 小欄の更新数を感心だと言ってくれる読者がいらっしゃるが、そんなものではない。佐々木は、こんな駄文ではなく、小論文を連載し続けているのだ。

 ちなみに、以下は、さきほど私がイランに関するあるデータを送ったお返しにメールしてくれた、きょうの「中東TODAY」の一部。詳細は、ぜひ、東京財団のHPでごらんいただきたい。また、今後とも佐々木の分析と解説をご愛読いただくことをお勧めする。

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 昨年末に、イラクの元大統領サダム・フセインが絞首刑に処せられた。このこと自体が、相当無理なというか、不自然なものであったと受け止めている。弁護士が次々と殺される中で、一部の犯行容疑だけを元に、サダム・フセインは死刑判決を受け、間も無く処刑が行われたのだ。
 ここで思い起こさなければならないのは、サダム・フセインが裁かれた法は、正当なものであったのかということ。サダム・ムフセインが裁かれるにあたって、容疑者サダム・フセインに対する十分な審理が、正当な権利を与えられたなかで行われたのか、という点などだ。
 そしてサダム・フセインが処刑された日は、イスラム教の犠牲祭の日と重なっていた。イラク政府はその前日だったと主張しているが、そのことはやはり、犠牲祭に処刑を断行したことに対する、宗教的な反発を考慮せざるを得ないということを、自らが認めているということであろう。
 結果的に、アラブ・イスラム世界からは犠牲祭の日の、処刑執行に対して強い反発が生まれた。そして、処刑が犠牲祭の日に行われたのは、アメリカがイラクのマリキー政権に強要した結果であろう、と受け止める者がほとんどだ。
 マリキー首相はアメリカが「処刑を1ヶ月伸ばせ」と言ったにもかかわらず、処刑を急いだのだ、という意見もあるが、それはどう考えても納得がいかない。 
現在のマリキー首相には、アメリカの意向に逆らうだけの、力がるとは思えないからだ。しかも、イスラム教の犠牲祭に、あえて処刑を実施するということの意味が何であるかを、マリキー首相は知らなかったはずがない。
 結局、アラブ人や他のイスラム教徒たちは、アメリカの強引な指示にマリキー首相が従い、サダム・フセインを犠牲祭の日に処刑したのだ、という結論に到達することになる。事実、マリキー首相はサダム・フセイン処刑後、任期の半ばでも首相の座から降りたいと語っている。
それはアメリカの圧力が相当なものであり、その結果、イラクやその他のアラブ人から受ける非難が、相当なものであることを裏付けているのではないか。
 それでは、アメリカは何故サダム・フセインの処刑を急いだのか、ということになるが、多分に「イラク問題での転換点」を作りたかったのではないか、と思われる。
イラク戦争以来、4年目を迎えて未だに、イラクの状況はどうなるのか不明だ。そして、アメリカはどうイラク問題にけりをつけるべきなのかも、明確には定まっていない。
 今年の半ばからは、2008年に行われるアメリカの大統領選挙の動きが活発化してくる。その緒戦を勝ちぬくためには、イラク問題に何らかの進展を装い、次の行動に出る必要が、ブッシュ政権と共和党にはあろう、ということになるのではないか。
 サダム・フセインに対する唐突な感のある処刑は、実はこうしたアメリカの内部事情によって、決定されたのではなかったのか、と考えたくなるのは私だけではあるまい。
 
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 ちなみに私もサダム・フセインの処刑に「東京裁判」の判決や処刑が、日本の皇室の記念日に合わせて行われた侮辱感を今もって感じている。

 アメリカはすばらしい社会だ。しかし、ときどき、信じられない悪質ともいうべき不愉快なことをする。

 私は82カ国を訪問しているが、その82番目の国がアメリカである。1945年8月14日から翌日にかけて、わが故郷を初空襲し、無辜の民72人を殺害した。父は、翌日、疎開先から私と兄を呼び寄せ、えぐられた地面を見せ、「この行為を忘れるな」と、幼子の肩を抑えながら強く強く、語り聞かせた。

「9.11事件」で、「秋田の空襲どころではない。アメリカでこんなにも多くの民間人が殺害された」と手を合わせつつ、再開第1号の便で、私は初めてワシントンを訪問したのだった。

 サダム・フセインの犯罪は許せない。「9.11事件」はあまりに非道だ。しかし、それでも私は、アメリカという国に依然、最後の信頼をおいていない。
緑の黒髪 [2007年01月09日(Tue)]



 韓国の女性では茶髪の人はめったにいない。また、日本人女性も欧米では茶髪にしている人がぐっと少なくなる。写真は、ソウルの繁華街の1つ仁和洞(インサドン)で。




 小欄(1月6日付)で「黒髪と茶髪」について書きましたところ、40代の「妙齢の美女」から、「どうして<君が緑の黒髪も>というのか」という説明を求められました。島崎藤村の「惜別の歌」の3番の歌詞です。この歌は、戦時中に中央大学の学生が作曲して出来たもので、その後、中央大学の愛唱歌になっています。戦後は広く日本中で歌われてきたものです。

「緑の黒髪」、そうですよね、口語ではまず使いませんよね。

でも、あなたの生まれたころ、1962年に、吉永小百合が和田弘とマヒナスターズをバックに歌った「寒い朝」(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)という歌があります。もう、古過ぎますか?

  北風吹きぬく 寒い朝も
  心ひとつで 暖かくなる
  清らかに咲いた 可憐な花を
  みどりの髪に かざして今日も ああ
  北風の中に 聞こうよ春を
  北風の中に 聞こうよ春を

『日本語大辞典』によれば「つやのある、黒い髪」のことで、英語のraven black hairであるとのことです。ま、「美しい」とか「美しく輝く」といった意味でいいのではないでしょうか。

「美しい」という言葉は、ロシア語では「クラースナヤ」(赤い)でもいいのです。「赤の広場」は、「赤旗」を振りかざした共産党時代に付けられた名前ではなく、帝政時代からあった「美しい広場」なのです。

 日本人には「緑」が美しく、ロシア人には「赤」が美しいということです。みなさまがご存知の言葉では、「美しい」という言葉をどの色で表していますか。教えてください。

 そうそう、少なくとも「茶髪」の「茶色」を「美しい」と同義語にしている言語はないように思いますが、いかがでしょう。
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