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舞鶴−歴史と人材と [2006年10月08日(Sun)]



  舞鶴は66万人もの引揚者を迎え、市民は自らの苦しさをおいて、歓迎し、炊き出しなどの支援をした。戦後の日本のボランティア活動発祥の地でもある。




  長い抑留生活を終え、久々の祖国を前にデッキから手を振る引揚者や復員兵たち





 天然の良港・舞鶴港(模型)



 舞鶴は古くは細川藤孝(幽斎)、忠興の居城・田辺城(別名・舞鶴城)の城下町として知られ、江戸時代には北前船が立ち寄った港町としてそれなりの賑わいを見せた。

 舞鶴は天然の良港である。対岸のウラジオストクがそうであり、ベトナムのカムラン湾(バルチック艦隊最後の寄港地)がまさにそうだった。近辺では色丹島の穴澗湾、以上3つが私自身が訪れたことのある天然の良港である。おそらくは、横須賀や佐世保もそうなのであろうが、私の眼力ではよくわからなかった。

 その舞鶴、近代では1901(明治34)年に設置された海軍鎮守府で知られる。初代の鎮守府長官が、かの東郷平八郎。自身は不遇を囲ったやに聞くが、そこからいきなり連合艦隊司令長官となり、カムラン湾からやってきた世界有数の大艦隊を撃滅した。

 海軍の機関学校も置かれ、以後、軍港としてこの町は栄えた。しかし、多くの卒業生が奮闘むなしく太平洋の海に消えた。

 現在も海上自衛隊の術科学校を含む、イ−ジス艦も配備された一大駐屯地となっている。

 しかし、なんといってもこの町の名を聞いて全国の皆さんが思い出すのは、戦後の引揚である。1945(昭和20)年10月7日に引揚船「雲仙丸」が入港して以来、13年間に66万人以上が、さまざまな思いを抱きつつこの地に戻った。1万6千柱の遺骨も一緒だった。

 「母は来ました 今日も来た」の『岸壁の母』の歌は、今も胸を締め付ける。舞鶴には引揚記念館や引揚記念公園が整備されている。

 わが師・末次一郎は終戦直後から何十回とこの舞鶴に通い、引揚者のお世話をした。シベリア抑留中に「民主化」と称して洗脳された共産主義シンパの列車に乗り込んで、「主義主張は忘れて、ともに祖国日本の再建に尽くそう」と血涙下る演説をして呼びかけた。詳しくは、『「戦後」への挑戦』(歴史図書社)に書き遺している。

 また、舞鶴といえば、2年前の10月20日から翌日にかけての台風で由良川が氾濫、観光バスの屋上に老人37人が登って一夜を明かした、あの写真を思い出す人も多いのではなかろうか。

 あの勇気と忍耐力、行動力、幾人かのリーダーシップ、多くのものを私たちに教えてくれた。
  今、人口は9万余、海上自衛隊関係者がその10分の1はいる。市役所の若者たち、そして先般、小欄で紹介した鷲田夫妻など、街づくりに懸命であり、賢明な人々がいる。

 これだけの歴史と知名度のある舞鶴、発展が期待できるという確信を得て帰京した。
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