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歌とトークとで混乱 [2006年09月30日(Sat)]


 拙著『歌い継ぐ日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)は、おかげさまで多数の方々にご覧いただきました。但し、私は音楽の愛好家ではあっても、音楽そのものや演奏については全くの素人。どうぞ誤解しないでください。この本には、小欄でおなじみの石田良介先生の剪画が、表紙をはじめ、中にもたくさん出てきます。悪友は口をそろえて、それで売れたんだと申します。そしてそれは、正しい解釈です。

 講演と歌を同日にこなすということが、こんなにも難しいということを、きょうは嫌というほど体感させられました。

 講演のほうは「平和とは何か」という話です。日頃考えていることと、拙著『平和の歴史』(光文社新書)のさわりでもしゃべればなんとかなるだろうと、先週まで、世間に甘え、タカをくくっていたのがそもそもの間違いです。今にして思えば、一昨日、レジュメを送るように主催者から言われて、頭がまとまらないうちに、デキの悪いものを送ってしまったのが躓きの始まりと言えるでしょう。

  加えて、歌のほうは「しぐれに寄する抒情」(佐藤春夫作詞、大中恩作曲)が、今朝になって大ブレイク。なぜかリズムも音程も不安定で、落ち着かないこと夥しい状況に立ち至りました。

 会場への車を運転しながら、松本美和子さんのCDでも聴いて確認しようとしていたのですが、あいにく諸事情から電車で行くことになり、不安はさらに募りました。

 私の基調講演を終えてみなさんがシンポジウムをしている間に、最後列の席でそうっと楽譜をみて勉強しなおしていると、係りの方は非情にも、もっと前に座るようにと「ご親切に」指示してくれるのです。

 気もそぞろな私を、タイミングよく、ピアノのある部屋に誘ってくださった肥田五和子先生の特訓は、直前まで続き、なんとか誤魔化すことが出来ました(?)。

 教訓はいっぱい得ました。実力以上の歌は人前では歌わないこと、自信のない歌は選ばないこと、練習をもっとしっかりやること、そして、講演と歌の二本立てなどということは、ブタが木に登るくらいおだてられても、引き受けないこと・・・

 去年、難民を助ける会のチャリティ・コンサートで、巨匠・中村紘子さんが、前半に、トークと著名な小品の演奏を交えておやりになったときのことです。すべてが終わってから、こうおっしゃっていました。

「演奏は右脳、トークは左脳。両方を電気のスイッチのように切り替えて使うことには無理があります。だから、あんなポピュラーな曲でも、前半は楽譜を見ながら弾いたのです」。

 私は、きょう、ギリギリになってその言葉を思い出し、「しぐれに寄する抒情」は、恥かしながら楽譜を置かせていただきました。

 さてはて、10月15日は午後2時から、松田ホールで、松田トシ先生(元NHKうたのおばさん)門下生の発表会。昨年4月に弟子入りした私は、前座で「出船」「さくら貝の歌」、そして「しぐれに寄する抒情」を歌わねばなりません。今夜から特訓を重ね、前日からは「右脳だけ」で準備し、今度は楽譜なしで挑戦しなくてはならないと、覚悟しています。

 それにしても松田先生のご指導は、弟子のそんな苦労もものかわ、「あなたの歌には色気がない!」。

 卆寿を超えられた先生に、今週は、音楽の「色気」をご指導いただかねばなりません。嗚呼。


■資料リンク

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心

愛唱歌とっておきの話―歌い継ぎたい日本の心
日本軍、サハリンに上陸 [2006年09月30日(Sat)]


 日露戦争の末期、児玉源太郎の提案で行なわれた、「ロシア本土」サハリンへの上陸作戦はこの海岸で行なわれた。いま、このちょうど反対側に、「サハリン2」の天然ガス液化工場が日本企業の下、トルコ、ネパール、フィリピンなどから数千人の技術者や労働者を集めて行なわれている。左端は、上陸記念碑の台座。






 台座だけでもこんなにも大きかった。






 記念碑は倒されて近くに放擲されている。立っているのは筆者。9月2日撮影。






 新屋新宅という兵が日記を遺している。第1軍(司令官=黒木為禎(ためもと)大将)に属する近衛歩兵第三連隊の補充兵であった。しかし、前年10月の沙河の会戦で負傷し、半年近くの入院で回復し、第49連隊に転属した。

 7月5日、新屋が所属する第2大隊第7中隊(中隊長=大多和勝介大尉)は、サハリン南部の港町コルサコフ付近に上陸し、地雷原を越え、わずか2日で、コルサコフを占領した。

 ロシア軍は集落に火を放って逃走し、勢いに乗った日本軍は約40`北上し、ウラジイロフカ村(戸数約三〇〇)まで追撃、わけなくこれを占領して、晴気(はるげ)と改名した。占領した第2大隊長晴気市三少佐(第11期士官生徒、1905年4月19日付で少佐)の姓に拠る。

 その後、日本時代にこの地は豊原となり、樺太庁が置かれた。この圧勝により、日本軍は16名の将校以下、700余名のロシア人捕虜を獲得した。

 その新屋の所属する第7中隊が、ナイバ川(日本側の呼称は内淵川)上流付近で、捕虜の大虐殺を行ったのであった。

 すなわち、南サハリンにあったロシア軍はこのあと5つのパルチザン部隊に再編されたが、次々に日本軍に撃破されて降伏した。

 8月末までに第5部隊(隊長=ワシリー・ブイコフ大尉)は大陸東岸のニコライエフスクへの潰走に成功した。残るはわずかにダイールスキー2等大尉指揮下の第4部隊(兵184名)のみ。

 依然として抵抗を続けつつ、同部隊はアレクサンドロフを目指して、西海岸を北上していた。しかし、ホルムスク(日本時代の真岡)の北約50キロ地点で日本の巡洋艦に発見され、川伝いに山岳地帯に入り込んだ。

 8月23日、ナイバ川に達し、丘陵地帯に踏み入った。このさきは湿地帯化してしばしば歩行の困難な中央部に続く。

 孤立して、他の自軍部隊との連絡も途絶えたロシアの第4部隊は「防御工事を施し、副防御物として急造の鹿柴(ろくさい)を設け森林深き此陣地に於て身を全ふせんことを決心」(伊藤貞助『樺太戦史』)したのであった。

 30日、オトラドノエ(日本時代の川北)村で日本軍と衝突、『樺太戦史』では、同部隊は「日本軍に多大の損害を与へ」たが、「其後数刻を経るや優勢なる日本軍」が「包囲し、猛烈なる射撃を加」えたため、「損害益々大なるのみならず全滅も亦(また)免(まぬがる)る能(あた)はさるの状況に陥り、余儀なく指揮官以下降伏して俘虜となれり」。同戦史はその後日本領となった豊原の住人である著者が20年後に上梓したものである。

 しかし、他の部分の記述が詳細を極めているにもかからず、この戦いについてはここで筆を置いている。

 全滅を免れようとして日本軍に降って俘虜となった百数十名の運命にはほうかむりしているのである。悲劇はこの時に起こった。
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