「バルトの楽園」の参考のために [2006年07月30日(Sun)]
私はこれでも捕虜の専門家を自負している。これまでにも、『聞き書き 日本人捕虜』(図書出版社)、『捕虜の文明史』(新潮選書)そして昨年は、『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)と『戦陣訓の呪縛−捕虜たちの太平洋戦争』(監訳、中央公論新社)を出した。 第一次世界大戦時に徳島県坂東(現在の鳴門市)にあったドイツ軍の捕虜収容所を舞台にした「バルトの楽園」の数々の名場面には思いっきり泣いたが、逆に、映画を見ながら、これはなんだという場面もいくつかあった。しかし、せっかくみなさんが捕虜に関心をもってくれたのだから、細かいことにケチをつけるのはやめにして、この機会に、少し、第一次世界大戦時の捕虜について書いてみたい。 1914(大正3)年8月23日、日本はドイツに宣戦した。9月14日、神尾光臣中将(作家・有島武夫の岳父)麾下の青島(チンタオ)攻囲軍の主力3万は、竜口に上陸、天津にいた英国軍1千とともにドイツの租借地・青島への攻撃の緒を切った。 守るドイツ軍はメイエル・ワルデック総督以下約4千。大半が中国や東南アジア、中には日本からはせ参じた義勇兵もいた。圧倒的な劣勢にもかかわらずドイツ軍はよく奮戦し、戦闘は77日にも及び、11月7日、降伏した。 カイゼル・ウィルヘルム2世からは「朕は青島の義勇なる奮戦に感謝す。而してワルデック大佐に贈るに鉄第十字一等勲章をもってし、なお、守備隊将兵には朕みずからその勲功を定めん。死傷軽微を聞きこれを欣ぶ」との電報が同総督宛に発せられた。 神尾中将はワ総督との会見で「・・・閣下とその部下が孤立無援の要塞により勇敢に戦われたことに本官は深く敬服す。されど、今や戦いは終焉す。閣下、日本に到りてしばらく静養せらるべし。日本国民は閣下に同情するにやぶさかならざるべし」と述べた。 青島で降伏したドイツ軍将兵は3906名であったが、あと少しで4千の大台に乗るということもあって、若干の青島在住ドイツ市民が加えられ、捕虜の総数は4169名となった。 “追加組”の中にカール・ユーハイムがいた。青島で欧風菓子屋を開いており戦争には直接関係はなかったが、翌年9月になって捕虜として狩り出された。 青島攻防戦の日本軍には戦死に加えてチフスによる戦病死が多く、それに比してドイツ軍の損害が少なすぎるということから、ドイツ系市民の捕虜への転化が行なわれたのであった。 映画「バルトの楽園」では他の収容所ではいかにも虐待まがいのことが行なわれたかのような印象を与えかねないシーンもあったが、日本によるこの時のドイツ軍捕虜の取扱いは、古今東西の歴史に稀なくらいすばらしいものであった。 (つづく) |