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「バルトの楽園」の参考のために [2006年07月30日(Sun)]

 




 私はこれでも捕虜の専門家を自負している。これまでにも、『聞き書き 日本人捕虜』(図書出版社)、『捕虜の文明史』(新潮選書)そして昨年は、『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)と『戦陣訓の呪縛−捕虜たちの太平洋戦争』(監訳、中央公論新社)を出した。

 第一次世界大戦時に徳島県坂東(現在の鳴門市)にあったドイツ軍の捕虜収容所を舞台にした「バルトの楽園」の数々の名場面には思いっきり泣いたが、逆に、映画を見ながら、これはなんだという場面もいくつかあった。しかし、せっかくみなさんが捕虜に関心をもってくれたのだから、細かいことにケチをつけるのはやめにして、この機会に、少し、第一次世界大戦時の捕虜について書いてみたい。

 1914(大正3)年8月23日、日本はドイツに宣戦した。9月14日、神尾光臣中将(作家・有島武夫の岳父)麾下の青島(チンタオ)攻囲軍の主力3万は、竜口に上陸、天津にいた英国軍1千とともにドイツの租借地・青島への攻撃の緒を切った。

 守るドイツ軍はメイエル・ワルデック総督以下約4千。大半が中国や東南アジア、中には日本からはせ参じた義勇兵もいた。圧倒的な劣勢にもかかわらずドイツ軍はよく奮戦し、戦闘は77日にも及び、11月7日、降伏した。

 カイゼル・ウィルヘルム2世からは「朕は青島の義勇なる奮戦に感謝す。而してワルデック大佐に贈るに鉄第十字一等勲章をもってし、なお、守備隊将兵には朕みずからその勲功を定めん。死傷軽微を聞きこれを欣ぶ」との電報が同総督宛に発せられた。

 神尾中将はワ総督との会見で「・・・閣下とその部下が孤立無援の要塞により勇敢に戦われたことに本官は深く敬服す。されど、今や戦いは終焉す。閣下、日本に到りてしばらく静養せらるべし。日本国民は閣下に同情するにやぶさかならざるべし」と述べた。

 青島で降伏したドイツ軍将兵は3906名であったが、あと少しで4千の大台に乗るということもあって、若干の青島在住ドイツ市民が加えられ、捕虜の総数は4169名となった。

“追加組”の中にカール・ユーハイムがいた。青島で欧風菓子屋を開いており戦争には直接関係はなかったが、翌年9月になって捕虜として狩り出された。

 青島攻防戦の日本軍には戦死に加えてチフスによる戦病死が多く、それに比してドイツ軍の損害が少なすぎるということから、ドイツ系市民の捕虜への転化が行なわれたのであった。

 映画「バルトの楽園」では他の収容所ではいかにも虐待まがいのことが行なわれたかのような印象を与えかねないシーンもあったが、日本によるこの時のドイツ軍捕虜の取扱いは、古今東西の歴史に稀なくらいすばらしいものであった。     (つづく)
映画「哀愁」の主題歌に [2006年07月30日(Sun)]



   ヴィヴィアン・リー


 
 映画で『蛍の光』といえば、何と言ってもMGM映画『哀愁(Waterloo Bridge)。バレリーナのマイラ(ヴィヴィアン・リー)との出会いを回想するロイ・クローニン大佐(ロバート・テイラー)。

 若い人のために付け加えるなら、ヴィヴィアン・リーは『風とともに去りぬ』」『欲望というなの電車』の主演女優としても有名だった。

 二人の愛は、その映画のシーンの24年前、第1次世界大戦時、空襲下のロンドンはウォータールー橋での出会いから始まった。

 初めてのデートはキャンドルライトゆらめくあるナイトクラブ。そこで流れる曲が『別れのワルツ』、これが『蛍の光』を3拍子に編曲したもの。甘美とはこの曲のためにできた言葉かというほど甘く切なく、ムードたっぷり。

 1940年の制作だが、日本で公開されたのはもちろん戦後。恋とはかくなるものかと少年期の私はあこがれたし、世の大人たちにはいっぺんで社交ダンスブームが起こった。だからこの時期に青年だった政治家、例えば、中曽根康弘、宮沢喜一といった人たちは、驚くなかれ、素人にしては立派にダンスを踊る。

 ストーリーはこのあとロイがフランス戦線に出撃、マイラは生活苦から夜の女へ。戦死したはずのロイの生還と、わが身を恥じて自殺するまでの悲恋、悲劇。

 ヴィヴィアン・リーの実生活での孤独な死(1967年)と重ね合わせ、忘れがたい名曲としていまでも語られる映画である。

『旧韓国国歌』と『別れのワルツ』は、もちろん、24曲を連ねたキングレコードのCD『蛍の光のすべて』に収録されている。これは聴く価値のあるアルバムとして推奨したい。
韓国では抗日運動の主題歌 [2006年07月30日(Sun)]





 日本統治時代(1910〜45)には、「内地」同様、朝鮮半島でも『蛍の光』は送別・惜別の歌として歌われたが、1919(大正10)年、上海に創設された大韓民国臨時政府(初代首班は李承晩=後に初代大韓民国大統領、イ スンマン)はこのメロディを「国歌」に制定した。

 しかも、それは現在の韓国国歌の原曲となり、今の国歌の詞は、往時、『蛍の光』に付けた歌詞のままである。

 その歌詞に作曲家の安益泰(アニテ)が曲を付け直したもの。安(アン)は1920年代にスペインに亡命し、『コリアン・ファンタジア』の作曲で知られており、この『コリアン・ファンタジア』の最後に、現在の国歌のメロディが登場する。

 尊敬する友人である康仁徳(カン インドク)元韓国統一部長官によれば、歌詞は、独立協会の指導的メンバーの一人である尹致昊(ユン チホ)の作詞かといわれているとのこと。

 尹は1905(明治38)年(日露戦争に勝った日本が伊藤博文を初代韓国統監として送った年)、この歌を第14番の讃美歌とする『讃美歌』集を編纂した人。

 ほかにも、日本の取り調べに対し、「メシを食うのも寝るのも大韓民国独立のため」と答えたという話の伝わっている愛国・独立運動の志士・安昌浩(アン チャンホ)の作詞だという説などあって、作詞者は必ずしも確定していないようだ(安田 寛『日韓唱歌の源流』)。

 私はあまり見たことがないので、よくわからないが、韓国映画は最近日本でもなかなか好評の様子。

 そうした中で現代史を扱ったものでは、この『蛍の光』のメロディがしばしば抗日闘争映画のクライマックスの場面で演奏される。それはこのような経緯があるからだ。
韓国歌は「蛍の光」だった [2006年07月30日(Sun)]





 ところで、さきに紹介した『蛍の光』のCDには、中国語、モルディブ語もあれば、和楽器の演奏、バグパイプ、パチンコ屋さんの3拍子、軍楽隊のマーチ、讃美歌『めざめよわが霊』の合唱などなど古今東西の演奏スタイルが続く。

 夕食後に全部を聴くと曲の残響・残像がいつまでも消えず、安眠妨害この上ない。それでも何度でも聴きたくなるほどこのCDは面白い。

 中でも、襟を正して聴かねばならないのが、韓国の「国歌」としてこのメロディが使われたことを示す合唱だ。

 日清戦争終戦の翌年、1896(明治29)年11月、漢城(ハンスン 現在のソウル)で、亡命先のアメリカから戻った徐戴弼(ソ ジアピル)が中心になり独立協会が創設された。同協会の会員たちは、清国からの使者を迎えるために西大門の外に建っていた迎恩門を壊して、あらたに独立門を建設、その定礎式で、この曲を愛国歌として最初に歌ったという。

 指揮は米国人宣教師バンカード。当時、漢城の培材学堂(ベチェ ハクド 現・培材大学)の教師であった。今の韓国国歌と同じ、以下の大意の歌詞で歌われた(CDの解説書より)。

  東海の水が涸れ 白頭山がすりへろうとも
  天がお守りくださる わが国万歳
  無窮花三千里 華麗なる山河
  大韓人よ 大韓よ 永遠なれ

  南山のあの松の木 鉄甲のめぐるごと
  風雪にも変わらぬは わが気質
  秋の空は果てしなく 澄んで雲なく
  こうこうたる月は わが真情

「東海(トンヘ)」は「日本海」の韓国が主張する呼称。最近は世界に向けて、この呼び名の併記を従来にない強気の態度で主張しは始めた。これこそ「歴史を歪曲」するものであり、韓国とその国民を愛するがゆえに私は残念でならない。方角で示すなら世界中が東海、西海・・・になってしまう。

「白頭山(ベクトサン)」(別名:長白山=チャンバイサン、2,744m)は中朝国境に聳える朝鮮半島の最高峰。「無窮花(ムグンフア)」は「むくげ」、韓国では、かつては抗日の象徴、今は国花として扱われている。

「南山(ナムサン)」(243m)は1960年代までは北の北岳山(ベクグックサン)と対比するかのような文字通りソウル市街の南の小山だった。日本統治時代には朝鮮神社の本宮が置かれ、強制的に参拝させられたものだと今でも古老たちは語る。

 ソウルはその後、南郊に発展し、今では首都全体の中心部となった形であり、トンネルも出来ている。が、その山頂には高さ236mのソウル・タワー(テレビ塔)が建ち、かつて韓国統監・伊藤博文(1841〜1909)以来、歴代の朝鮮総督官舎のあったところに、安重根(アン チュングン1879〜1910)の記念館や独立運動の指導者・金九(キム グ 大韓民国臨時政府主席、18??〜1949)の銅像が建っている。安重根は訪露の途時の伊藤をハルビン駅頭で暗殺した韓国の「義士」、その行動は独立運動を大いに鼓舞した。

 8小節目の、「わが国万歳(ウリナラ マンセ)」が印象的だ。「ナラ」は「国」。だから「奈良は渡来人が開いた証拠」とはよく聞く話。真偽のほどは判らない。



バンコク発:蝉とイナゴ [2006年07月30日(Sun)]




挿画「八ヶ岳(部分)」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



 今度は、バンコク在住の「妙齢の美女」Kさん(ある有名大学の助?教授)からのメールです。本人の上品な雰囲気と手足をもいだイナゴのから揚げを勧める姿とがイマイチ連想が合わないのが少々、すっきりしなくて私はくすっと笑ってしまいました。

 私の幼いころは刈り取ったあとの田んぼにイナゴを採りに行ったものですが、2,3年前、それが2匹、さる料亭(もちろん先方の支払い)の先付けで出てきたので、「懐かしくて」食べることができませんでした。

 それにしてもブログは面白いですね。いながらにしてこんな反応をもらえるんですから。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 蝉は、口吻を樹木に刺して樹液を吸って養分を吸収し、水分は体外に排出しているそうで、一度、地面に落ちていた蝉を手に乗せたところ、何を間違えたのか、口吻を私の手のひらに突き刺そうとし、大層痛かったことがあります。

蝉が多く集まっている木の下を通ると、まるでパラパラと雨が降ってきたかのように、蝉のオシッコが降って来るのをご存知ですか。

初めてタイを訪れた際、
「雨?」
と空を見上げた私に、友人が
「蝉のオシッコですよ」
と笑いながら教えてくれました。

 ところで、タイや東南アジアの人にとっては、蝉は「美味しいもの」なんです。羽と足をもいでから揚げにして食すと、何とも香ばしいとのことですが、残念ながら、まだ挑戦したことがありません。

 食べる昆虫というと、イナゴが代表的ですが、タイのイナゴは、日本の倍もあるほど大きく、イナゴのから揚げは(恥ずかしながら)私の大好物です。かつて、1月頃に当地バンコクで食べたのが一番美味しかったです。

 その後、たまに日本に帰っても、あれほど美味しいイナゴに出会っていません。イナゴにも旬があるのでしょうが、日本では、農薬散布や自然破壊による影響があるのかもしれませんね。

 一度是非、一月にバンコクにお越しください。絶品のイナゴのから揚げを、心行くまでご馳走します。
蝉の鑑定 [2006年07月30日(Sun)]



  剪画「富士 夏」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 蝉について小欄で書いたところ、早速、青山在住の「妙齢の美女」Aさんからこんなメールがきた。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 朝方は涼しく、窓を開けて過ごそうと考えたところ、蝉の鳴き声のすごさに圧倒され、渋々とエアコンのお世話になることにしました。わが家のあたりでは、一週間ほど前から弱々しく鳴き始めましたが、梅雨も明けていないというのに、昨日あたりからはずい分と威勢よく鳴くようになりました。今週あたりはようやく梅雨明け宣言かもしれません。

 この蝉、種類によって鳴き声や鳴く時間が違い、クマゼミは午前中、アブラゼミやツツクボウシは午後、ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは一日中ということです。ミンミンゼミというのもいますが、今頃の蝉はなんという種類なんでしょうか。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

『日本語大辞典』(講談社)によれば、「蝉はセミ科の総称で。体長1〜8cm。雄は発音版を振動させ、腹腔で共鳴させて鳴く」のだそうだ。雌が鳴かないことを初めて知った。動物の雄と雌の関係って、本当にいろいろあって面白いですね。

「幼虫期は数年から十数年。成虫は初夏から初秋に出現。樹液を吸う。不完全変態。世界に約1600種、日本に32種類が分布。Cicada」

 ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシ、クマゼミ、アブラゼミ、ニイニイゼミなどがポピュラーだが、どれどれ鑑定してしんぜよう。ヨッコラショっと・・・

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 あれ、あのうるさかった蝉、みんなどこかへ行っちゃった。 「梅雨明け宣言」。
光源氏と空蝉 [2006年07月30日(Sun)]








「うつせみ」は「空蝉」とも「現身」とも書く。「現身」の場合は、「命」「世」「人」「身」にかかる枕詞にもなっている。

  うつせみの世は常なしと知るものを
   秋風寒み偲びつるかも    (大伴家持)

「蝉」の鳴き声から「空蝉」「現身」と詩情を拡大してゆくと、やはり、『源氏物語』で、光源氏が人妻である空蝉への懸想と失恋の気持ちを詠んだとされる贈答歌を思い出す。

   空蝉の身をかへてける木の下に
    なほ人柄のなつかしきかな

 これに応える空蝉からの返歌。

   空蝉の羽におく露の木がくれて
    しのびしのびにぬるる袖かな

 光源氏を思いつつも、慕い来る源氏を拒否しつづける空蝉、源氏は一層、恋焦がれて、追い求める。それを察した空蝉は、着ていた、蝉の羽のように薄い小袿を残したまま逃げ去ってしまう。満たされない想いを胸に、源氏はその蝉の羽のように薄い小袿を持ち帰り、歌を贈る・・・。

 若いころは、こうした平安文学の詩情に、生まれる時代を間違えたと思ったものだった。

 窓外にまだ蝉がなきやまない。でも、歌について書いていたら、日露関係について厳しい文章を書いていたときより、私の心が安らいだ。
「古今集と」蝉 [2006年07月30日(Sun)]






   写真は、甲斐駒ケ岳。



「万葉集」には、「蝉」がでてくるのは「うつせみ」という形でだけであるが、「古今集」には「うつせみ」ではなく、ストレートに「蝉」だけを詠んだ歌が3首だけある。紀友則と凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の作である。

 まず、紀友則の「寛平御時の后宮の歌合の歌」。

   蝉の声 聞けばかなしな 夏衣
     うすくや人のならむと思へば

「蝉の声を聞くと悲しくなってしまうことよ。夏衣がうすく寒く感じられるように、あの人の心もやがては冷たくなってしまうのではないかと思えば」といった意味か。

 次に、同じ友則が「方違(かたたがへ)に人の家にまかれりける時に、あるじの衣を着せたりけるを、あしたに返すとてよめる」として

   蝉の羽の夜の衣はうすけれど
     うつり香濃くも 匂ひぬるかな

 こちらは、「拝借した衣はまるで蝉の羽のように薄かったですが、焚き染められたゆかしい香りがまことに芳ばしく残っていて結構でした」といった詩情か。

 3首目が躬恒の短歌。

   蝉の羽の ひとへに薄き夏衣
     なればよりなむ ものにやはあらぬ

 「蝉の羽のように単衣で薄い夏の衣はいつも着ていればシワがよる。あの人も同じように、今は薄情ではあるけれども、馴れてくれば親しめるのではないか」といったところか。

「古今集」では「うつせみ」はかなりの数、掲載されている。

          よみ人しらず
  うつせみの世にも似たるか 桜花
   咲くと見しまにかつ散りにけり
 
          よみ人しらず
  空蝉の からは木ごとにとどむれど
   魂(たま)のゆくへを 見ぬぞ悲しき

  恋の歌もある。

        よみ人しらず
   空蝉の世の人言のしげければ
    わすれぬもののかれぬべらなり

  哀傷歌もある。僧都勝延が、「堀河の太政大臣(基経公)身罷りにける時に、深草の山にをさめてのちによみける」とある、

   空蝉は殻を見つつもなぐさめつ
    深草のやま 煙だに立て

  はかなく世を終え蝉の抜け殻を見ていると往時のおもかげが甦り、心を慰められる。深草の山よ、せめて故人を偲ぶよすがに、煙なりと立てておくれ」の意であろう。

「奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったが、平安時代以後は、蝉の抜け殻の意と解したので、はかないという意味になった」と岩波書店の『古語辞典』にはある。
蝉の声に思う [2006年07月30日(Sun)]



   挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



   さしも続いた梅雨も、そろそろ明けるのか、窓の外では蝉の大合唱。ようやく日露関係の原稿の執筆が一段落したので、日本文学に登場する蝉について少し調べてみよう。

 閑かさや岩にしみいる蝉の声 (芭蕉)

 
 中学生のとき、教師が「この蝉は何匹か」という問いを発した。

柿食えば鐘がなるなり法隆寺  (子規)

については、作者はどこにいるかという設問だった。次は、この俳句と短歌の月は、どんな月か、というのだ。

 菜の花や 月は東に日は西に   (芭蕉)

  東の野にかぎろひのたつみへて
 かえりみすれば月かたぶきぬ  (柿本人麿)

 みなさま、いかがだろうか? 少なくとも私はこれで国語の授業が嫌いになった。

 閑話休題。「万葉集」には「うつせみ」「うつそみ」(虚蝉・空蝉)の言葉を詠んだ歌が46例掲載されている。

    三山の歌(中大兄皇子)
  香具山は 畝傍を愛しと 耳成と 
  相争ひき 神代より かくにあるらし
  いにしへも 然にあれこそ 
  うつせみも 妻を 争ふらしき

『万葉ことば事典』(大和書房)によれば、「原義はウツシオミ(顕し臣)であるという説がある。臣は人の意で、生身の人間というほどの意味。一方、神の臣下という意味であるという説もみられる。初期万葉では生身の人間といった意味が鮮明」であるとし、ここにあげた「香具山は・・・」という例は、妻争いの歌だが、神代の山ならぬ現代に生きる人間も、といったニュアンスで「うつせみ」の妻争いを歌っている。

『古語辞典』(岩波書店)によれば、この場合の「うつせみ」は「この世」といった意味であるという。


 ほかにも、「この世の人」という意味では、柿本人麻呂が妻が死んだ後に泣きあかしながら作った長歌の中に出てくる。(抜粋)

  うつせみと思ひし時に
  取り持ちて 我がふたり見し・・・・・・
  ・・・うつせみと思ひし妹が 
  玉かぎるほのかにだにも
  見えぬ思へば

「世間」とか、「世間の人」といった意味で「うつせみ」を用いることもあった。
 

  うつせみの 八十言(やそこと)のへは繁くとも
    争ひかねて 我を言なすな

 これは「東歌」。 「他人の噂話はいろいろ出てくるでしょうが、うっかり私のことまで話の種にはしないでちょうだいね」といった、今にも通じるような一首である。

「うつせみ」を最も多く詠み込んだのは大伴家持。

 うつせみは数なき身なり山川の
   さやけき見つつ道を尋ねな
 
  家持は「用例数が多いばかりでなく、無常観への傾斜という新たな形でそれを使用した点でも特徴的される」(『万葉ことば事典』)。
かくして「空蝉」「虚蝉」などという表記が定着した。
こうして「うつせみ」は現世のはかなさをイメージする言葉にもなった。
  
  窓外の蝉はいかに、長くない命とはいえ、無常観への傾斜という詩情を起こさせるには、正直言って、あまりにうるさい。やはり冷房をつけるしかない。この詩心のなさを笑わばわらえ。21世紀の「心の公家」は、時に集中力が必要なのだ。
「蛍の光」の4番 [2006年07月30日(Sun)]




  挿画「横手のさくらんぼ」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




『蛍の光』が発表されたのは、1881(明治14)年。最初の『小学唱歌集』に『蛍』の名で入っていた。外国の曲とはいえ、「4・7(ファとシ)抜き」の5音階なだけあって、日本人には比較的受け入れ易かった音階だったに違いない。

 ところで、最近はまったくと言っていいほど歌われなくなったが、この曲の歌詞は、実は3番も4番もある。GHQ(連合軍最高司令部)により、歌詞を2番までに制限されて以来、2コーラスが事実上消えた。

   筑紫のきわみ みちのおく
   海山とおく へだつとも 
   その真心は へだてなく
   ひとつに尽せ 国のため

   千島のおくも沖縄も
   八洲(やしま)のうちの守りなり
   至らんくにに いさおしく
   つとめよわがせつつがなく

 3番で九州から東北までを歌い、4番では千島の奥から沖縄までの国土防衛を詠んでいる。
「至らんくに」は「国土の端から端まで」の意。「日本国中で夫や兄よ、勇おしく元気に務めよ」という意味といえよう。

 沖縄のことは、近年、観光客がたくさん訪れ、海洋博(1975年)やサミット(2000年)が行われ、普天間基地移設問題などで日々報道されることもあり、比較的よく知られるようになったが、「千島の奥」についてはあまり知る機会がないように思われる。

 さきほど小欄で書いたように、ここ数日、ロシア側からの「反論への反論」の共同執筆にはまっているので、勢いに乗って、すこし、日露間の領土問題の経緯を多少述べてみたい。

 このあたりの解説になるとようやくわが本業に直結する分野であり、にわかに筆(PC)が走る。

 1855(安政元)年、「日魯通好条約」で日露両国は択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島間をもって国境とし、樺太(サハリン)は両国民混住の地(雑居地)とした。

 したがって、日本が返還を求めている北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)はこの時に明確に日本の領土であることが確認されたものであり、4島は、いずれの国の支配下にあったこのない、いわゆる「固有の領土」ということになる。

 しかし、その後ロシアは政治犯を送り込むなどしてサハリン(樺太)の炭坑開発に力を入れ、同島での力関係は次第にロシアに傾いて行った。

 これを憂慮した、サンクトペテルブルク駐在の榎本武揚(たけあき1836〜1908)公使は巧みに外交交渉を進め、1875(明治8)年、「樺太千島交換条約」を締結し、樺太全島をロシアに渡す換わりに、得撫島以北の千島列島を譲り受けることに成功した。この結果、カムチャツカ半島からわずか17キロ南の占守島までが日本の領土となったのである。これが「千島の奥」である。

 次いで、明治政府は、1872(明治5)年、琉球藩を設置、79(明治12)年、軍隊や警察を動員して廃藩置県を強行、沖縄をわが国の領土に編入した(琉球処分)。

『蛍の光』の4番はまさにこの南北2つの出来事の結果を歌い込んだもので、戦前の一般の地理感覚では当然の内容であったものだ。

 なお、日本はその後、1895(明治28)年に「下関条約」で台湾を、1905(明治38)年に「ポーツマス条約」で南樺太を、1910(明治43)年に朝鮮、1920年に国際連盟の委任統治領として南洋群島(現在のミクロネシア、マーシャル、パラオの各共和国)を、1939(昭和14)年に日仏交渉で(現在周辺諸国により領有権が争われている)新南群島(南沙、西沙諸島)を領有した。

 いずれも1945(昭和20)年の敗戦で放棄せしめられ、奄美大島、小笠原諸島の返還に続き、沖縄全島がは1972(昭和47)年5月にアメリカから返還された。

 1991年4月のゴルバチョフ大統領の訪日、93年のエリツィン大統領の訪日で、日本とロシアは領土問題を北方4島に限定した。かつて日本が領有していた南樺太や千島を、我が国は請求しないという、「正札」を掲げての対ロ交渉を続けているのである。

 また、「ロシアからの反論への反論」の執筆に戻りそうだ。
「蛍の光」の詞 [2006年07月30日(Sun)]





   挿画「八ヶ岳(部分)」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



 詩は科学的でなくていい。
 周知のように、『蛍の光』の詞は、晋(4世紀)の車胤が蛍の光で、孫康が積もった雪の明かりで勉学に励んだという故事に由来する。

 この話は明の時代の『日記故事』に記載されて以来、儒家にもてはやされ、わが国でも漢学者によって「蛍雪の功」として広められた。

 私は旺文社の受験雑誌「蛍雪時代」を懐かしむ世代だ。

 若い頃、私は救援活動のためバングラデシュのハチア島に駐在していたことがある。農薬など普及していない地域のせいであろう、この島には、夜になると目の前に無数の蛍が舞っていた。

 自転車で進むと、まるで光の中を掻き分けて行くかのようだった。

 今となっては笑い話だが、「当時は」真面目だっただけに、その群棲の中に本を持って行って試してみた。もちろん、文字はまったく読めるものではなかった。

 また、晴れた日の冬、上高地のスキー場で読書を試みたこともあったが、これまた到底できることではなかった。今思えば、ほんとにきまじめな若者だった。

 しかし、勤勉を勧める中国の故事としてはこれで十分、説得力のある話であろうし、不合理だからふさわしくないなどとケチをつけずに、「文読む」にかかる枕詞のような気持ちで、別れを惜しめばいいのではないか。

 話は変わるが、文部科学省の中庭には岐阜県からの「さざれ石」が巌となった岩石を設置している。『君が代』の歌詞も、何も科学的に立証する必要はない。

 稲垣千頴(ちかい)の詞はこのほか、「杉の戸」と遠く「過ぎた日々」をかけた掛詞を用いるなど、『蛍の光』の詞はなかなか手の込んだものになっている。

 1番以外の歌詞でも同様だ。「かたみに思うちよろずの(お互いに思う千万の)」や「さきくとばかり(幸くとばかり=元気での意の万葉時代の古語)」、「筑紫のきわみみちのおく(九州も奥羽地方も)」「八洲(日本の国土)」、「わがせ(我が背=兄や夫)」など千頴ならではの文学的な手法や、今ではあまり使われない表現などが用いられている。

「心の端を一言に」を「一毎に」と思ったり、「恙がなく」を「ツツガ虫が鳴く」と誤解した者もいると金田一春彦が『日本の唱歌』(講談社文庫)で書いている。

 しかし、たとえ、『荒城の月』や『箱根八里』のような難解な歌同様、幼少時には意味不明な歌詞や誤解するような言葉が続くものであっても、『蛍の光』は、小中学生にも親しまれてきた代表的な「日本の歌」であり、これからも歌い継がれるであろう名曲の一つと言えよう。
ロシアからの反論への反論 [2006年07月30日(Sun)]





   挿画「国後島」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。


 いうまでもなく日本とロシアとの間には、北方領土問題があり、双方はその帰属問題を解決して平和条約を締結することで合意している。

 そのために最高首脳同士をはじめ、外相レベル、次官級レベルなど政府間での公式な話し合いがおこなわれているが、末次一郎が主宰していた安全保障問題研究会では、ロシアの極めて質の高い学者・専門家、政治家、メディア関係者などと1973年以来24回にわたり、日露(ソ)専門家会議を開催してきた。「トラック2」の率直な協議は、実のある成果を着実に挙げてきた。

 これに加えて、北方領土を現実に支配下に置くサハリン州行政府との間には、1997年以来サハリン・フォーラムを開催してきた。一ヵ月後にはその8回目がユジノサハリンスク(旧豊原)で開催される。

 こうした機会を通じ、あるいは学者・専門家から、あるいはタクシーの運転手から、ロシアのさまざまな人々から出された質問を整理して、懇切丁寧に回答し、これを一書にまとめた。1999年に刊行した『変わる日ロ関係−ロシア人からの88の質問』(文春新書)である。
 
 翌年これに多少手を加えロシア語版『日露平和条約への道標』をモスクワで出版、私は各政党の幹事長クラスを歴訪して説明し、当時の上下両院の全国会議員に配り、各地の主要な大学や図書館に郵送した。

 ロシア側からの反応は早かった。2002年にはロシア語版で「反論」がでた。V.V.アラージン(経済学博士)が編集代表として序文を書いている。わが仲間はだれもこの人物を知らなかった。およそ日露関係には登場してこなかった人である。著者がだれであれ、当然、私たちはこれを読み、早急に「反論への反論」を書かなくては、「日本人を黙らせた」ということになってしまう。しかし、現実には、時間も費用もない。

 この間、産経新聞の内藤泰朗モスクワ支局長が、アラージン博士へのインタビユーに成功、「私が書いたのは序文だけ。あとは外務省日本担当最高責任者のサプリンをトップに外務省のチームが書いたんだよ」と簡単に答えた。

 そうこうしているうちに、2005年、ロシア側はロシア語版に手を加え、『ロシアと日本−平和条約への見失われた道標』と題して日本語版を出版した。

 もはや時間だ費用だといっている場合ではない。東京財団の領土問題研究プロジェクトのメンバーを中心に、元大使やジャーナリストなどの力も借り、明日の正午を締め切りに、互いの分担する部分について「反論への反論」を書き上げ、編集長である木村汎拓大教授にメールで送ることになっている。

 ロシア側からの「反論」には、あの国に特異な論理構成がある。違法なことをしておいてやむなく引き下がることを、「一方的な譲歩」というのだ。そのほか、論理のすり替え、自国に有利な部分のみの拡大解釈、大国意識・・・。1968年以来100回はあの国を訪問した私には今さらそうした思考法に驚いている場合ではないが、根気よく、「モグラ叩き」をしなくてはならないことも熟知している。今度の「反論への反論」、全部で100項目程度になりそうだ。私の分担は内、15項目。既に14項目を書き終えたが、データをいろいろ調べなくてはならない一項目を残したままだ。

 この週末いまだ脱稿に至ってはいないはずの、木村編集長以下、佐瀬昌盛安保研会長、袴田茂樹青学大教授、西原正前防大校長、斎藤元秀杏林大教授、兵藤長雄元外務省欧亜局長、本間浩昭毎日新聞根室通信局長・・・のみなさん、私同様、ねじり鉢巻でパソコンに向かっているに違いない。

 このあと木村編集長が加筆修正し、全員で読み合わせをして調整し、年末までに脱稿する予定になっている。どこかに、いっしょにロシアを論駁しようという、編集者はいませんか。それとも、わが社こそはという「愛国的スポンサー」はいませんか。
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