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「どい」晩翠作詞なのです [2006年07月14日(Fri)]





  挿画「北岳」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




 土井晩翠は「どい・ばんすい」か、「つちい・ばんすい」か。多くの人が議論したことではあるまいか。

 わが母校・秋田県立秋田高校が秋田中学と言っていたころの校歌の作詞者(作曲は、『城ヶ島の雨』の梁田貞)でもあるので、高校時代にこれはみんなで考えた。たかが田舎の高校といってバカにしてもらっては困る。第1回の全国中等学校野球選手権大会(今で言う甲子園大会)が、大阪府豊中市で開かれたときの準優勝校だ(とまあ、卒業生はこれだけを自慢する。たわいないものとして笑わば笑え)。

 秋田県立秋田高校校歌(対称11年制定)

 天井はるかに太平山の
   姿はけだけし三千余尺
 長江流れて六十幾里
   海へと馳せ行く雄物川波

 高きと長きと無言の教え
   紅顔日に日に省み思う
 わが生わが世の天職いかん
   秋田の高校一千健治

 ところが、4年前に、「歌い継ぎたい日本歌」を10曲挙げてくださいと、著名人数百人にアンケートを実施したところ、声楽家の木川田 誠関西二期会理事長から次の回答があり、その中で、本名が「つちい」、筆名が「どい」であることが明解になっている。

 だから、『荒城の月』の作詞者は「どい・ばんすい」なのである。

  ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

 第2次大戦の最中、学童だった私は父方の両親の元、詩人・土井(どい)晩翠ゆかりの仙台へ疎開しておりました。片平町国民学校の同じクラスで詩人のお孫さんに当たる土井(つちい)君と机を並べていたのです。

 空襲を受ける前の杜の都・仙台、青葉城址と広瀬川、土井(どい)ならぬ土井(つちい)君とです。

 仙台生まれの私にとって、戦時中の思い出と詩人の呼び方論争等で忘れ得ぬ曲でして、折にふれご当地ソングのつもりで愛唱しております。

 しかし、昨今、教科書から省かれそうだという話がありました。それを聞いたときはまさに痛恨の極みでした。「歌い継ぎたい日本歌」の第1です。
夏の師走 [2006年07月14日(Fri)]



  仏前には 少し派手かなこの坊主(じゃなかった) この花は(でした)



 東京では、いまがお盆の最中だ。

「師走」というのは今のことかと思うほど、親しくしているご住職は「心頭滅却しながら?」暑さをものともせずに、駆け回っておられる。

 昔は、僧籍にある人を「出家」といった。倉田百三の名作『出家とその弟子』は表題にもなっている。

 しかし、近所のお寺を見てもみなさん、出家どころか結婚して家を構え、子を儲け、なぜかキリスト教の学校に子女を通わせているところもある。

 そのことが宗教家としての矜持とどう関係があるかはいろいろ議論があろうが、それはさておき、この走り回る人、身近かなことばでも「住職」「僧侶」「坊主」「和尚」「上人」・・・
さまざまな呼び方があるが、どんな違いがあるのかな。

「僧侶」という言葉には私は高い尊敬の意を感じる。「名僧」「高僧」「上人」「聖人」「大師」「禅師」「律師」「老師」・・・といった尊称で呼ばれる僧侶もいるし、日頃、親しくご教導いただいている方もいる。が、他方、「俗僧」「売僧(まいす)」といった言葉もある。

「坊主」とは一寺の主なる僧侶を指した言葉であるが、やがて、親しみとある種のあざけりをこめた愛称となった。「生臭坊主」という呼び方や「坊主にくけりゃ」などがその典型だ。

 アジア各地では、お坊さんがカウンセラーだったり、人生の進路に示唆や助言を与えたり、心の悩みを解決してくれたりという姿を見る。もちろん、日本の仏教界にも尊敬する方々は大勢いるが、法衣を着た葬儀屋か法事屋または墓地販売業のような人が多すぎる。

 病院に行って「まだ来るには早すぎる」と断られた「笑い話」を得意になって?するお坊さんがいた。宗教指導者としての自覚と努力、工夫と忍耐が、僧籍にある人々に求められていることは事実だ。

 日本の僧職の方々の使命って、現実には何なのだろうか。「僧職−墓守−葬式マスター−不動産業」何かが残るはずだ。それは何なのだろうと、時々考えてしまう。

 きょうも焼肉レストランで、実に品の悪い話をしながら、檀家の悪口を言い合っていたグループがあった。お疲れ様です。


歌詞はいずれ分かる A [2006年07月14日(Fri)]




  私は小学校3年生のとき、我が家に下宿していたS医師からフランス語で『枯葉Les Feuilles mortes』(ジャック・プレベール作詞、ジョセフ・コスマ作曲)を教わった。

 また、中学生の頃だったか、兄からは国歌『ラ・マルセーエーズ La Marseillaise』を教わった。

「セデショソーン、スワキメメー」であったり、「フォルメ、ボタヨン、メ、ボバタヨン、マルショーン、マルショーン・・・」という調子で今では赤面ものだが、これも長ずるに従い、侘しい秋や敵の血を挙げようとする激しい歌詞の意味が、少しずつ理解できるようになり、その分だけ、フランスそのものに親しめるようになった。

 金田一は『日本の唱歌』で、中川一政が小学校時代に『近衛兵』という歌を教わった時のことに触れ、

  (注:食事中の人は、以下をお読みにならぬことです)

中川が、「キューキュータルブーフーハ国家のカンジョー」の意味がまったく理解できずにいたという話を紹介している。

 これは『詩経』の「赳々たる武夫は国家の干城」(もしかして、福田元首相の名前はこの一文に由来するのかも。「赳」は「勇ましい」の意。)なのだそうだが、「キューキュータルブーフー」よりはまだ解り易い『荒城の月』にしても、今や大学生に、たとえ音読してもほぼ正確に歌詞を筆記できる人は、そうはいないのではないだろうか。

 もっとも、私の友人のある絵本作家は『虫のこえ』(作詞作曲者不祥)の「ああおもしろい」の歌詞をほとんど成人になるまで、「青も白い」だと思っていたし、『港』(旗野十一郎作詞、林柳波改詞、)の冒頭、「空も港も夜は晴れて」を50を過ぎまで「夜は晴れて」で昼の歌だと思っていたと苦笑している。

 かくも歌の歌詞というのは、時に理解できなかったり、誤解したりするものである。

「読売新聞」(2002年9月13日付)の「気流」欄に「『里の秋』歌って昔の生活しのぶ」という秩父(埼玉県)の中畦(なかあぜ)一誠(69歳)の投書が載っていた。

「裏山で木の実の落ちる音が聞こえる静かな夜、囲炉裏端でクリの実を煮ながら、まだ南の島から復員して来ない父親を母親と二人で待っている歌であることは3番まで歌うと分かります」。しかし、「今の若い人には、木の実の落ちる音や、囲炉裏端と言っても分らないかも知れません」というのだが、「復員」も怪しいものだ。

 歌詞の意味は、成長とともに、少しずつ理解できるようになったり、「そうだったのか」と気付いたりするもので、その時は分からなくともそれでいい。

 歌詞が難しいからと言って教科書から落としたり、教えないというのではなしに、学校で、家庭や青少年の団体活動などを通じて、まざまな名曲を歌い継いで行きたいものである。


歌詞の意味はいつか解る [2006年07月14日(Fri)]






挿画「春爛漫」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。




  歌詞が難しいからといって、『荒城の月』という天下の名曲を教科書から削っていいものだろうか。

  今の教科書が、歌詞に注を付けたり、大意を述べて歌詞の内容を理解させるようにしているのはいい。また、よしんば、歌の意味がわからなくてもいい。次第に理解できるようになり、それが自分の成長の確認や喜びにさえなる。

  その意味で、教育芸術社が5年生用の鑑賞曲として、『荒城の月』と並んで、『箱根八里』(鳥居忱作詞、瀧廉太郎作曲)を表題意外全部ひらがなで楽譜と歌詞を掲載していることを評価したい。



    箱根八里
              鳥居 忱作詞
              瀧廉太郎作曲


    一、箱根の山は 天下の険
      も 物ならず
      万丈の山 の谷
      前にえ にう
      雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
      昼き 杉の並木
      羊腸の小径は 苔滑か
      に当るや も開くなし
      天下に旅する 剛毅の
      大刀腰に がけ
      八里の岩根 踏み鳴らす
      斯くこそありしか 往時の武士

   二、箱根の山は 天下の
      蜀の桟道 数ならず
      万丈の山 千仞の谷
      前に聳え 後に支う
      雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
      昼猶闇き 杉の並木
      羊腸の小径は 苔滑か
      一夫関に当るや 万夫も開くなし
      山野に狩する 剛毅の
      猟銃肩に がけ
      八里の岩根 踏み破る
      斯くこそありけれ 近時の壮士

『箱根八里』には「羊腸の小径」をはじめ、子供には理解しがたい言葉がいろいろ出てくる。しかし、私の友人には神谷万丈防衛大学校助教授もいれば、かつて鶴岡千仞という大使が活躍しておられた。この歌を知っているかいないかで、お名前への理解度も違ってくるはずであろう。

 かく言う私は恥をしのんで言えば、「函谷関」と「一夫関」と二つ関門があると思っていたし、「函谷関」を私がほんとうに知ったのは、去年、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』(新潮社)を読んだ時。

  怠け者、バカといわば言え。還暦を過ぎて、なるほどそうだったのかと新しい知識を得る幸せは、人生の大きな喜びのはずだ(と開き直りたい!)。

  青山学院大学名誉教授の岡保夫著「『箱根八里』の出典」によれば、「函谷関や蜀の桟道は李白の『蜀道難』から詩句を借用してはいるが、実は手近な『太平記』から詞章創作のヒントを得ていた」と三田英彬は『菜の花畑に入日うすれ』(理論社)で書いているが、私自身、岡の論文を拝見するに至っていない。



       注・・・函谷関は、現在の中国河南省北西部にある交通の要衝。洛陽から長安に向かう古代の重要な通路だが、難所であり隘路。項羽と劉邦の激闘の故事で知られている。
歌い継がれるか「荒城の月」 [2006年07月14日(Fri)]





挿画「富士眺望」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



  1959(昭和34)年、三橋美智也の歌で『古城』が世に出、大ヒット曲となった。これはたまたまある所で『荒城の月』を歌った三橋の美声に、レコード会社がその現代版のような曲を制作しようということになって誕生した。

 日本の歌研究の第一人者である長田(おさだ)暁二は、「千代田城を眺め、皇居前広場を散策しながら詩想を練った時、私は(作詞者の)高橋先生と同道している」と歌碑が建っている七尾城(石川県)モデル説を否定し、また、「高橋鞠太郎は特定の城を歌ったものではないと述べ」ているとしている。

 歌詞に「仰げば詫びし天守閣」とあるように、千代田城で詩想を練ったとしても、モデルだとはいえないということであろう(長田暁二『日本の歌大全集』)。

『荒城の月』の副産物のような歌といっていいこの曲も、今では決して知る人が多いとはいえない状況になっている。

 2003(平成15)年は瀧廉太郎が23歳の若さで亡くなって100年周年。このため『荒城の月』や『花』は盛んに演奏された。しかし、これが脚光を浴びる最後の機会だったかもしれないことを私は恐れる。

 第1に、歌詞の意味がわからない。

 私も久しく意味がよく解らなかった。
「千代の松が枝」は「有名な千代という名の松の枝」かな、「天上影は替らねど」というのは、「天井の影がいつまでも動かないこと」だと思っていたし、「植うる剣」は「血に飢えた剣」、炭坑節を覚えた頃だったこともあって「荒城の夜半の月」は「工場の煙突の上に昇る半月」、「ハルコーローノ」は「春子ちゃん」の、「栄枯」は「栄子ちゃん」のことかな、と思ったことさえあった。

 かなり長じてからさえ、「春高楼」はどこかの遊郭で、「花の宴」は芸者がいる宴会かななどと不埒なことを連想する始末だった。

 第2に、メロディーやリズムがあまりに単純で、変化に乏しい。いまの若い人にはどうかな、と思わざるを得ない。

 第3に、音楽に託す、または詩に託す美意識が変化しているということだ。

  しかし、それでも、多くの方々がこの『荒城の月』と『故郷』(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)を、歌い継ぐべき日本の歌の双璧として挙げている。
祇園祭とこの暑さ [2006年07月14日(Fri)]





  昨日7月13日は練馬で36度を超えたんですってね。きょうの2時現在、東京が33.2度、甲府が37.4度、高松が35.5度・・・このぶんだともっと暑くなるかもしれませんね。

 暑いといえば、京都。

  7月、京都では、東山八坂神社(旧祇園社)の祭礼です。おそらく《祇園祭り》前の賑わいが日ごとに高まって、祇園囃子の稽古も熱を帯びているに違いありません。
  
  7月1日の吉符入。神事始めの儀式。祇園祭の始まりです。
  29日の神事済告祭に終わるます。

  16日は宵宮、
  17日の神幸祭、
  24日は還幸祭。

  中でも17日の神幸祭が圧巻。神幸祭の弦召(つるめそ)には古式によった仮装の鎧武者が神輿の渡御に従います。

「トントンチキチキ  トンキチキン」と、囃子太鼓の音が聞こえてきそうですね。

  祇園祭は江戸時代には日本三大祭の一とされていました。ただ、梅雨時期であり、雨にはよくなやまされます。少々の雨なら山鉾巡行は決行されるようです。祭りが終れば梅雨明けだ、と京都人はいうようです。

  ゆくもまたかへるも祇園囃子の中   橋本多佳子
  笛のこゑ鉾を解体せし後も      山口誓子

  お互いに元気にこの暑さを乗り切りましょう。
ジダンの頭突き A [2006年07月14日(Fri)]





 ジダンの「頭突き」には多くの意見が寄せられました。共通点は「とにかく暴力はいけません」というものだ。地方在住の尊敬する「妙齢の美女」たちからもしかりです。

 私は、平和を希求しています。法治国家を大切にし、自由と民主主義を大切な価値だと確信しています。

 その上での話です。

 ジダンが止むに止まれず、全選手生活と栄光、名誉を賭けてでもああいう行為を自制できなかったとのではないかと思ってはいけないのでしょうか。

 相手のマテラッツィとかいう選手がいかなる「言論の暴力」をはいても、いわせておくしかないのでしょうか。最後の、ほんとに最後の手段ということは、採択しうる場合があっても止むを得ないのではないでしょうか。

 その瞬間、スポーツではなく、ジダンにとっては「社会」が創出され、「家族」が隣に立ったのです。

 私はサッカーのルールがわかりませんが、審判に「言論の暴力」を受けたので退場させてほしいといえば、マテラッツィを退場させることは出来たのでしょうか。

 暴力をすぐ使って良いとはもちろん思いません。しかし、限度を超えた場合でもなにもしてはいけないのでしょうか。

 社会における個人と個人、国家間の安全保障、どうやら話は共通する部分もあり発展しそうに思います。

 あなたのご意見をお寄せください。私も続けます。
「ジダンには残念です」 [2006年07月14日(Fri)]











   国旗は、アルジェリア、フランス、イタリア(上からABC順)




「ジダンには残念です」と「妙齢の美女」からメール。

 そうかな。

「「ジダンについては複雑です。あのオトコにして、あそこまでさせた原因を作ったほうを徹底糾弾すべきではないでしょうか」と私。

 あなたは?
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