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エイズ薬の値段 [2006年07月03日(Mon)]





 5月2日に小欄では、こういう問題提起をしました。これについて、7月2日にカビヤーニさんから問合せがありました。
 それに対して、難民を助ける会のHIV/エイズ患者支援事業の責任者・高崎紀子さんから、回答が寄せられました。コメントの形ではあまりに文字が小さく、ここに再録します。

アフリカの患者「お願いです。私にもエイズの薬を分けてください」

 アメリカの製薬会社「ほしいならお金を払いなさい」。

 アフリカの患者「お金はありません」

 アメリカの製薬会社「わが社は慈善団体ではありません」

   ☆━━━━…‥・ ☆━━━━…‥・

こんにちは、今日本でエイズ薬のお値段は毎月いくらくらいでしょうか?一番いい薬を飲んだばえエイズの患者さんはどのくらい生きるんでしょうか?ほんとうに悲しい事ですね、よければお返事をここでなさって下さいここで読みます。

Posted by:カビヤーニ  at 2006年07月02日(日) 04:47

   ☆━━━━…‥・  ☆━━━━…‥・

【エイズ治療薬の値段は?】
 エイズを発症して治療を受けると、医療費の値段は月20万円から23万円ほどします。そのうちの9割以上が薬の値段です。

 ただ、投薬には社会保険が適用されること、また、日本では1998年4月から、HIV感染が「免疫機能障害」として身体障害者認定をされているため、実際には医療費の1割以下の自己負担で治療を受けることができます。自己負担の額は所得の大きさや傷害の深刻さ、また住む場所(都道府県)によっても変わるため、個人によって差が出てきます。

 ですから、自分が治療に払う額は2万円から、極端な場合には2000円ほどになることもあるそうです。

 ただ、保険を利用できない外国人の感染者は、そういった制度を使用することが出来ず、高価な薬代を自己負担しなければいけないので、薬へのアクセスが問題となっています。

【薬を飲めばどれくらい生きられる?】
 薬は、飲み始めると毎日決まった時間に欠かさず飲まなければ、薬による耐性が出来て薬が効かなくなってしまいます。効果に対しては、いろいろな説がありますが、ある学者によると、長く飲みつづければしまいにはウィルスがなくなってしまうのでは、ということです。ただ、そこまでのウィルス量まで減るためには、50年、60年と続けて飲む必要があるそうです。

 Posted by:難民を助ける会  at 2006年07月03日(月) 20:21


ジュネーブ条約の普及 [2006年07月03日(Mon)]



  日清、日露戦争、第一次大戦と、戦時国際法、特に捕虜の取扱については模範的であったとされる.

  このことについては、15年前の拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)や昨年9月に出した『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)に詳しく書いた。

  ところが我が国は、支那事変(これが公式に閣議で決定した呼称。日中戦争、日華事変は通称)や第二次世界大戦では一転して悪名を馳せ、戦後5,600人もの関係者が捕虜虐待のかどで戦犯として裁かれ、処刑される運命を辿った。

  その大きな落差の原因については諸説があるが、その一つとして、1929年の「俘虜ノ待遇二関スルジュネーブ条約」(捕虜条約)を我が国が批准しなかったことがあげられる。@日本には捕虜になるものがいないので、片務的な条約になる、A捕虜になることを前提とする攻撃が諸外国に可能となる、B赤十字国際委員会の代表が立会人なしに捕虜に面会できるというのは機密保持上好ましくない、Cわが国の軍事刑法関係法規の改正が至難である、などの理由から、連合国からの紹介に対して、どう条約を批准せず、真珠湾攻撃直後に連合軍側から来た問い合わせに対して、「帝国政府は条約の拘束を受けないが、その規定に準拠する」と回答していたものの、そのことは前線の指揮官や兵士に周知徹底していなかった。

  加えて、1941年1月に、東條英機陸相が発した「戦陣訓」で、「生キテ虜囚ノ辱メヲ受ケズ」と教えられてきた我が軍の間には捕虜蔑視の風潮が強く、それが虐待につながったとの指摘もある。

  近衞忠W(ただてる)日赤社長は、4月4日に東京財団虎ノ門DOJO(道場)で行なった講演の中で、「それについては最近吹浦さんが監訳出版されたウルリック・ストラウスの『戦陣訓の呪縛―捕虜たちの太平洋戦争』(中央公論新社)という本で詳しく分析されている」と拙著を紹介してくださり、「逆に、我が国の兵士が捕虜となった場合には、条約の存在を知らされていなかったためにその保護を受けられず、多くの悲劇が生まれた」と述べた。

  条約に対する無知が、我が国の兵士を加害者にも被害者にもし、我が国が戦後半世紀を経た今日に至るまでその傷跡を深く背負っていることを思うとき、ジュネーブ条約など国際人道法普及の重要さを感ぜずにはいられない。

  こうした経緯もあって、1951年の対日講和条約(サンフランシスコ講和条約)の調印に当たっては、我が国が1949年の四つのジュネーブ条約に加盟することが条件とされ、日米安保条約はじめ他の一連の条約とパッケージで批准されたが、その国際会議でのやりとりは一切なかった。

  そして、このジュネーブ条約では、加盟国が平時と戦時とを問わず、自国の軍隊及び国民に対し、条約についての知識を普及することを義務として課している珍しい条文がある。その意味で、日本は遺憾ながらこの条約を遵守しているとはいえない現状だ。

  近衞社長も「我が国は戦後“平和憲法”を制定し、戦争を永久に放棄したために国際人道法の普及の必要性は認識されず、また普及の意図が誤解されかねない政治的環境もあって、積極的な普及の取り組みは防衛大学や青少年赤十字活動等一部の例外を除いて行なわれてこなかった。国際人道法の専門家や、その普及に興味を示す教育者が育つ余地も、従って極めて限られていた」と述べている。
「故郷」の歌への感動 [2006年07月03日(Mon)]



  挿画「初日の出」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。



「ふるさと(故郷)」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)の「魔力」には多くの人々が感動した経験を持っています。
私が4年ほど前に『歌い継ぎたい日本の心―愛唱歌とっておきの話』(海竜社)を上梓したときに寄せられた何人関係からの感想をご紹介しましょう。これを読むと、まさに、老若男女、イデオロギーも超越した、「日本人の愛唱歌」という気がします。

  皆様の感動もお寄せ下さい。



☆―――・・・・・・ ☆―――・・・・・・


        望郷の思い託す絶唱
                谷田 昌平(文芸評論家)
 忘れ難きはふるさとのこと。私は昭和初年の小学生時代、高知県との県境に近い徳島県の田舎で幼少年時代を過ごしました。小学校卒業後、大阪、東京に移りました。が、幼少年期に兎を追った山や小鮒を釣った川は、事あるごとに懐かしんだものです.そういう望郷の思いを歌った歌『故郷』は絶唱だと思います。

           身の引き締まる思い
          清水 道尾(絵本作家・児童文学作家)
 言葉と曲のハーモニーの素晴らしさ。聴く者のその時々の状態で凛と身の引き締まる思いや、哀切感に浸ることができ、私の心の歌でもあります。

           中国語で歌い大好評 
            中野 良子(財団法人オイスカ会長)
2002年3月、中国長江、三峡ダムのある宜昌市で日中友好植林が行われた際、高校生の交流会が開かれました。日本側は浜松市のオイスカ高校生。中国語に訳した『故郷』を披露しました。あらかじめ日本に駐在する中国人女性から、素晴らしい歌だから中国の人も喜びますよ、と推薦されていたのですが、予想外に喜ばれ、よい歌はイデオロギーも文化の違いも超えて世界に通じるのだなとうれしく思いました。よい歌はいつの時代にも、どこへ行っ
てもよい歌として、日本人が、その子どもたちが歌い継いでほしいものです。
             注:オイスカは地球環境と開発協力のためのNGO
         
       空間的に大きく拡げてくれた歌
               鈴木清代春(児童文学者)
  遠くにうねうねとつづく山脈を私に見つめさせた。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川」「山は青き故郷 水は清き故郷」。私は、この歌で遠くの山まで空間を広げ、その空間と一体となっている自分をつかんでいたのであるしかも私に「ふるさと」という空間も発見させてくれた。私は空間的に大きく広がって、大きく成長することが出来た。

            友の合唱に送られて
           大里 翠光(書家)
 故郷を出る時、見送りに来た人たちが突然『故郷』を歌いはじめ、私も涙を流しながら合唱した汽車の窓から身をのりだして別れを惜しんだあの時のことがいまも忘れられない「かならず帰って来い」と叫んだ父も亡くなった。『故郷』は私を勇気づけるはげましの歌であり、心身に魂を吹き込んでくれるような気がしている。こんな素晴らしい歌はいつまでも歌い継がれてほしい。
 だれにも故郷がある。きっと世界中の人々にもこの歌は理解されよう感動を与えてく
れるだろう。この歌を世界中の子どもたちにおしえて欲しいと思う。

          『故郷』で終わった私の戦争
              加藤 寛(千葉商科大学学長、政府税制調査会長)
   敗戦も間近の1945(昭和20)年6月某日、高崎連隊に新兵として入隊していた私たちに独立混成部隊として出撃命令が降った。行く先はどこか判らないが、沖縄であろうと推察していた。爪を切り髪を切り、遺書を書いて出撃を待っていた。
  特攻隊の仲間から見ればたいしたことではないが、それなりに切迫感もあり緊張もしていた。その夜、どこからともなく『故郷』の歌が静かに流れ、やがて大きな合唱となっていった。誰が歌い始めたか知らないが、特攻隊が出撃するとき、『君が代』でも『海ゆかば』でもなく、『故郷』が圧倒的に歌われたことを後で知ったが、そうであろうと思う。いま鹿児島の特攻隊基地跡に慰霊碑が建ち、その除幕式には『故郷』が歌われたという。私たちの独立混成部隊は出撃したが、沖縄に辿り着く前に乗船が沈没。私だけは見習い士官候補生として除外され、生き残った。
   その直後、連隊は空襲を受け焼失してしまった。私の戦争は『故郷』で終わった。

     反核コンサートの最後に合唱
            高須道夫(名古屋芸大教授 合唱指揮者)
  私は1982年以来8年間、『反核・日本の音楽家たち』(名古屋)の事務局に勤めました。その後も何らかの形でそれに関わっています。名古屋市の中心で行われる反核・平和コンサートや、名古屋市内の地域での反核・平和コンサート(天白区、緑区)で、クロージングの全音合唱(ステージと聴衆との)で『故郷』を取り上げています。演奏者も聴衆も一体感を持って全員で歌うことが出来、毎回成功しています。
  今や『故郷』は第2の「国歌」的意味合いがあるように感じます。この曲は今後も毎回歌われていくことでしょう。

   合唱部の練習を締めくくった曲 
                        原田直之(民謡歌手)
 小中学校時代は音楽部に入って合唱の練習に明け暮れ、また高校生時代も音楽部に入り、将来は音楽教師を目指していました。合唱の練習の終りには必ず『故郷』を歌って終りです。
 私の生まれた福島県双葉郡の浪江町は民謡の宝庫相馬地方は東に太平洋、西に阿武隈の山を見る農村地帯です。川の流れも美しく、静かな風景で『故郷』の詞そのままです。この『故郷』を歌うと懐かしい自分の過ごしたあの風景を思い出し、胸が熱くなります。
 幾時代が過ぎても、この曲は私の愛唱歌として忘れないものと思います。

     世代超えタヒチで歌った
                         梁瀬(やなせ) 進(参議院議員)
 1995年、超党派の国会議員でタヒチに行き、フランスの核実験反対のデモ行進を行いました炎天下のデモ行進、暑さに負けぬようデモ参加の各国グループは各々歌を歌いながら行進して行きます20歳から70歳代の国会議員が歌詞カードなしで歌える歌を咄嗟に探しました。そのとき、いちばん最初に出たのが『故郷』。世代を超えて共通に歌える歌が日本には以外に少ないことも、そのとき実感しました

          日本が誇る不朽の名曲
              小黒恵子(童謡作詞家、児童文学者)
日本の誇る不朽の名曲と思います詩曲一体となって聴くたびに心の琴線に触れますふるさとの風景が浮かび、子ども時代の幼な友達を思い出し、懐かしさとうるおいを与えてくれます石川啄木の「ふるさと」はありがたきかな、ピッタリの心境になります嬉しいにつけ、淋しいにつけ何故か思い出す「心のふるさと」です。
『故郷』の歌には魔力が [2006年07月03日(Mon)]


  


ひたち海浜公園で。




  唱歌「ふるさと」(故郷)は日本で、世代を超えて最も愛唱されている歌ではないだろうか。

 昨夜、私は7月21日刊行予定の『従軍看護婦の大東亜戦争』(祥伝社)の2回目の校正に夢中だった。この本は25年前に、『ほづつのあとに』の表題で、正、続、続々の3巻(以上は、アンリー・デュナン教育研究所)と『写真集・ほづつのあとに』という形で出版されたもので、今回はそれを1冊にまとめ、併せて、支那事変(日中戦争)以来従軍した赤十字の看護婦の手記を通して、大東亜戦争の1つの現実に迫ろうとするものである。

 その中で、小田美代子さん(1981年当時、兵庫県高砂市民病院婦長)の「ミンダナオ島に散った同僚たちへ」はもっとも悲惨な状況下での看護活動について触れたものであり、食器に人肉と思われるものが浮かんでいた描写などは、『ほづつのあとに』刊行当時、朝日新聞で大きく取りあげられたりもしました。

  ところが、そのミンダナオ戦線でジャングルを敗走中、いつ餓死か、戦死かもわからない状況下にほのぼのとした話が1つだけ出てくる。

「月の光をあびて菊の花に似た黄色のタロイモの花が一面に咲き、ススキの穂が風になびいている。月の光は私たちを照らすように明るく輝いていた。誰かが『ふるさと』をハミングすると、いつの間にか全員が合唱していた」。

『ふるさと』はそんな歌なのである。『ふるさと』には魔力があるのではないか。

 その『ふるさと』を,私は7月19日、そのミンダナオ島の中心地ダバオの日系人会にお招きを受けて、1700人もを前に歌うことになった。ある種の責任を感じてしまう。

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