このごろの若い者は A [2006年06月21日(Wed)]
挿画「清泉寮」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。 第4に、常識不足。 平和や国連などについては、「日本の常識は世界の非常識」というケースは多々あると指摘されて久しいが、およそ生活の直結した社会常識は世界共通のもの。人に会ったら挨拶し、世話になったら御礼を言う、礼状を書く、時と場所を考えて服装を整え、行動する、アポをとって会いに行く・・・こういうことはどこで学ぶのだろうか。家庭も社会も学校も、教育機能が低下しているのではないか。加えて、読書不足。宗教、世界史、内外文学、現代の世界についての常識といったものを欠いていてはトラブルの因になりかねない。 第5に、悪平等主義の蔓延。 なぜ、みんなと何でも同じでなくてはいけないのか。悪平等があるなら世の中には「よき不平等」があっていい。「差には差をもってする」良さがあるのは、体型や満腹度に照らした衣食のことを考えても解りそうなものだ。安易に他人の顔を見るな。 第6に、リーダーの不足。 民主主義の欠陥は時間がかかり非能率であることだ。そこをカバーするのがリーダーであるはずなのに、各界に首領(ドン)がいなくなりみな小粒になったといわれて久しい。だから、一流大学出の大企業のサラリーマン社長より、中高卆の中小企業の創業オヤジのほうがよっぽど人物が大きい。 政治家を簡単にリーダーだとは思わないが、先の総選挙で当選した「小泉チルドレン」たちは、みながみなそうだとは、よくも悪くも、思わないが、「かっこいい、賢い、毛並みがいい」の「新3K」がそろった人である。ポスターやテレビで映像的に美形であり、欧米の大学院や松下なんとかに籍を置けば賢そうに見えたり、世襲候補であればたやすく当選するというのだ。 実際にはこの英語力で学位?と首をかしげたくなるような「賢い」若者もいるので、むしろ「苦労知らず」のKを挙げたくもなるが、ここは、今後を見守るに留めよう。 第7に、表現力、説得力の問題。 日本語で説得力のある話を出来ない人が、外国語で十分な意思疎通できるわけがない。 ディベイト能力を高めよ。仲間以外とも大いに談論風発、時には口論しなくてはいけない。民主主義は言葉による「人取りゲーム」なのだ。 最近の若者の言語表現で特に気になるのは「曖昧表現」といわれる一連の言葉遣い。レ ストランに行けば「スープになりま〜す」「コーヒーになりま〜す」。冗談じゃない。はじめからスープやコーヒーであり、テーブルに置けば変わるものではないのだ。また、何かというと「お疲れ様」。これもけしからん。上司に手紙やメールを送ってくるのに、文頭で「お疲れ様」では、こっちがうんざりして詠みたくなくなってしまう。 個々の原因には同情しないわけではないが、基礎体力とは別に、あっさりと挫折してしまう若者を多く見る。時には「諦めが肝腎」であり転進が新たな人生を切り拓くことは言うまでもないが、「継続は力なり」を忘れるな。 9番目は、無関心ではダメということ。 無関心の継続は確実に自他を殺す「力なり」。家族や友人との関係でも、互いに無関心・没交渉であっては発展がないどころか、関係が消滅する。適度に距離を置き、「キミはキミ」で結構。しかし、「だが仲良く」を忘れてはいけない。 最後は、想像力を磨け。 21世紀の人類は、テロや大量殺害兵器ばかりではなく、環境、資源、感染症、難民、経済格差・・・世界が挙げて取組まなければならない深刻な問題が数多く抱えている。そこに視野を広げ、このときに生を受けた者として、この瞬間の世界に思いをめぐらし、今、何をなすべきか、想像してみるがいい。 ものの本によれば、ルクソールの遺跡にも若者批判を書いたものがあり、『浮世床』にも若年層の着物袖についての批判があるそうだ。ただ批判するだけではなく、まだ高齢者としては双葉マークの私は「それなら挑戦しようという気概ある若者」を迎えようという構えは持ってるつもりだ。同憂の人々の輪を広げて行きたいものと考えている。 このブログが多少とも「人畜有害」のネットワークの場となってくれることを期待したい。 |