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次の独立国は? [2006年06月06日(Tue)]




  国内に分離独立の動きを抱えるスペインの国旗。国土(黄色)を血(赤)で守る、命がけで国を防衛する意志を表している。



「モンテネグロの分離・独立は他の欧州諸地域に影響を与えるでしょうね」
「モンテネグロの国内人口は60万、セルビア側にもいるといっても知れてますね。それが独立するんですから、コソヴォに影響することは必至です。コソヴォは200万人超ですから」
「ほかにはまず・・・」
「バスクとカタルーニャ」
「ブルターニュもケルト人ですからね」
「みんなEUという枠内であっても、独立という形がほしいんですよね」

 スイスが「ドイツ系70%、フランス系20%、イタリア系10%、その他」という構成で、欧州で独自の道を行くことの不思議さを、今さらながら思った。

「欧州情勢は、依然、奇奇怪怪」か。
モンテネグロの笑い話 [2006年06月06日(Tue)]




   セルビア・モンテネグロの国旗。最上部の色はもっと明るいブルーです。外務省のHPから取りましたが、これでは黒と間違えてしまいます。外務省は至急訂正してください。
 まもなくモンテネグロが分離・独立し、この旗はセルビアだけの旗に成ります。オランダの国旗のちょうど逆。ロシアのピョートル大帝がオランダに留学したときに、オランダの国旗に感動し、その3色がロシアの国旗に取り入れられ、さらに、それがスラブ諸国の国旗の色になりました。



  田中一生(かずお)さんという、お仲間がいる。お仲間とはいうものの、御歳70、私よ、は〜〜〜〜〜るかに先輩です。

 このたび、セルビア・モンテネグロの文学を日本に広めた功績により、同国の文化勲章を受章した。先日の「天声人語」で、田中さんが紹介されていたので、ご存知の方もおられよう。

難しいことは明日にでも書くとして、今夜、いっしょに食事しながら田中さんから聞いた、モンテネグロの笑い話。

「オレたちモンテネグロ人ってほんとにだめだよなぁ」
「こんどはどうした?」
「女房が産気づいたんで馬を呼んだんだ」
「うんうん、それで」
「オレが乗って女房を歩かせちゃった」

 以上は古典的なアネクドート(小噺)。それが最近では、

「オレたちモンテネグロ人ってほんとにだめだよなぁ」
「こんどはどうした?」
「女房が産気づいたんで馬を呼んだんだ」
「うんうん、それで」
「オレが乗って女房を歩かせちゃった」
「なんで?」
「地雷が怖いもの」

となったというのだ。笑えぬ笑い話だ。

 思えば田中さんとは10年余り前、毎月、熱心に「国際協力研究会」なるものをやっていた。その後NHKの欧州総局長になった大貫康雄、今、文藝春秋社の常務取締役である白川浩司の両氏、ユーゴスラビア紛争の研究で学位をとろうとしている少壮学者・長有紀枝さん、難民を助ける会の柳瀬房子理事長といった顔ぶれで、田中さんの受賞を祝いつつ、さまざまな情報を伺い、意見を交換した。

  バルカンの混乱と文化を熟知する田中さんならではの話を、近く、東京財団の虎ノ門DOJO(道場)でお話いただけることにもなった。おたのしみに。
モンテネグロの宣戦布告 [2006年06月06日(Tue)]




 モンテネグロの独立については5月28日の小欄で書いた。

 とこがこの国が1904(明治37)年に「対日宣戦布告」をしたという話があって、国際法的にはきわめて興味深い事態になっていた。

 朝日新聞の関本誠記者が首都のポドゴリツィア発で書いた記事(6月5日付)によれば、当時、王国だったモンテネグロから義勇兵がロシア側に加わって参戦、ニコラ(ニコライはロシア語)1世は日本に「宣戦布告」したというのだ。

 国際法上、「宣戦布告」は国家のきわめて重要な国権の発動である。しかし結論付けるのは早計かもしれないが、どうも、この国は以前、そのあたりをよく理解していなかったのではないか。

 日露戦争から10年後の第1次世界大戦でも、モンテネグロ、恐らくは自らも予想していなかったであろうトラブルを、国際法的に惹起した。

 当時の戦争は、ジュネーブ条約(陸戦における戦傷者や海戦における溺者の保護に関する一連の条約)とハーグ条約(陸戦の法規慣例に関する条約とその付属文書)に拘束されていた。

 ところが、両条約には、参戦国全てが条約当事国である場合にのみ、この条約が適用されるという条項があった。「総加入条項」clausula si omnes (ラテン語) Allbeteiligungsklausel (ドイツ語)という。

 それを知ってか知らずでは、モンテネグロは当時、両条約に未加盟のまま、「宣戦布告」して連合軍側に立ったのである。このため、両条約は全参戦国に適用外となった。

 そこまでは仕方がない。しかし、「それまでに確立された慣例」まで無効になったという、誤解がしばしば生じてしまったのである。戦争に適用される法がない、戦場では好き勝手なことをしてもいい、という傾向になったのである。もちろん、慣習法はそのまま適用されるのだが、この誤解のままでは、人類がそれまで苦心して培ってきた国際人道法のすべて(成文法、習慣法)が適用されなくなったかのように見なされてしまうのだ。

 だから、モンテネグロの名前を聞くと、少し国際法を勉強した人は、この「悪夢」が思い出されるのだ。

 モンテネグロは1878年に独立した。露土戦争の講和条約であるベルリン条約締結の際、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの調停で誕生した。そのとき、まだ明治11年であるが、わが国は逸早くこの国を承認した。おそらく日本外交史上、最初の国家承認行為であったと思われる。

 それを記念して明治天皇が「象牙の白鷲」をおくったことは先に記した。

 日露戦争は言うまでもなく、1905(明治38)年9月の「ポーツマス条約」で終結した。ところが、この講和条約はあくまで、日本とロシアの講和条約であり、モンテネグロは「宣戦布告」のままなのである。

しかも、第1次世界大戦後、ユーゴスラビアの前身である、「セルビア・クロアチア・スロベニア王国」となり、モンテネグロはその中に埋没した。

 第2次世界大戦後のユーゴスラビアでもきわめて存在感の少ない、連邦構成国のなかの1つとなって、この問題は消滅したかのような形になった。ユーゴスラビア連邦の解体後は、セルビア・モンテネグロとして一つの国になっていたのが、今回、再度独立国となるに及んで、日本は、ベオグラード大使館を通じて、「貴国はわが国に宣戦布告した事実ありや」と問い合わせた。

  モンテネグロがセルビアとは別で、独自の外交を行なっていたという具体例の一つとして巷間、語り継がれている話を、法的に確認するということが、日本にも物知り外務官僚がいて、こういう「問合せ」に発展したのだろう。

朝日新聞の記事では、くだんの「宣戦布告」に関する文書は見つからず、は口頭だけのものであって、国家としての正式なものではなかったとの結論になったとのことだ。

 この秋にはモンテネグロは192番目の国連(連合国)加盟を果たすだろう。100年前とは違って、この国がバルカン地域の安定に貢献する立派な独立国となることを期待したい。


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