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住民も困惑だろうが [2006年05月26日(Fri)]




硫黄島での昼間離発着訓練。筆者撮影。


 厚木基地の周辺には8つの都市がある。約357万の人口の横浜以下、相模原、町田、藤沢、大和、座間、海老名、綾瀬である。

 1960年の国勢調査によれば、その人口の合計は1,755,854人であった。それが45年後の2005年では、5,549,487万人に増加した。

 米軍は早くから、艦載機離発着訓練(NLP=Night Landing Practice)の代替基地を要望した。1982年に日米両国政府で合意し、三宅島が重点候補地とされた。87年から工事が始まったが、抗議が激しく翌年には、工事の中止を余儀なくされた。

 89年に硫黄島でNLPを行うこととなり、91年から開始された。

 アメリカ側は硫黄島に決して満足しておらず、他の候補地の提供を求め続けている。

 最大の理由は、基地である厚木からあまりに遠いということである。ほかに、硫黄島が「台風銀座」であるため、しょっちゅう、NLPの実施計画が狂うということもあるし、近くに代替空港がないというのも、訓練に支障をきたすという。

 最近のNLPは95%が硫黄島で実施されているが、2000年には70%が厚木でであった。理由は台風。

 厚木飛行場では2200〜0600の時間帯は夜間訓練が出来ない取り決めになっている。私たちの帰還便は、雷雨のため飛行に時間がかかり、2220に厚木に着いた。飛行機の窓から下を見ると、団地、マンション、学校などが手の届くような、すぐ下に並んでいる。

 しかし、気の毒ではあるが、周辺住民の方々には当面我慢してもらうほかなさそうだ。以前も書いたが、我が家は目黒と五反田の中間地点の山手線に沿って建つマンションだ。しかし、私が引っ越したのはたしか7年ほど前。私が「山手線がうるさい。2200以降は電車の運行をやめよ」といったら、おそらく、多くの方が「吹浦、お前大丈夫か?」というに違いあるまい。

 米側が求める、半径100海里以内に空母発着艦の訓練場をという要望は、周辺住民のため、日本の安全のため、そして世界の平和と秩序維持のため、重要課題として検討されるべきであろう。

 ケリー司令官に訊いた。「具体的にネライをつけている場所はあるのか」。
「岩国にメガフロートを作るのが1番、もう一つは北九州市の沖合いにあるなんとかという島に設置するのが最高だ」。

 貝島、男島、女島などが地図にはある。少し大きいならその西の大島か。日本語は得意ではないケリー少将が思い出せなかった島名を、想像してみた。
厳格な離発着訓練 [2006年05月26日(Fri)]




  10mも離れていないところに1分毎に艦載機が飛来してくる。耳栓が何よりのたより。硫黄島の艦載機離発着訓練滑走路で。


 空母の艦載機がどうやって離発着するかをまず説明しましょう。

 艦載機は時速200キロ以上ないと飛翔しません。しかも、強力な加速をつけて、いっぺんに上空に舞い上がるのです。

 難しいのは着陸時です。その時にも平均150ノット以上で着艦します。空母は、原則として甲板上に20ノットの向かい風が来るように進行しながら飛行機を待ちます。

 飛行甲板は600フィート、その中央部に250フィートの間に4本のワイヤーロープが張ってあります。着艦する飛行機は、自らの最後部からフックの付いた尻尾のようなものを出しながら降りてきます。そのフックがロープにうまくひっかれば停止できるのです。

 空母の一番手前上空で11フィートの高さであれば、3番目のロープを12フィートなら4番目のロープをつかむことができるのだそうです。1、4番目のロープをつかもうというのは危険だそうです。

 左右も厳しく制限されています。中央のラインより2.8メートル以下の範囲を通らなくてはいけないというのです。

 ワイヤーロープは強力ですが、適度に弾力性もあるのかな? つんのめらないか? 急停止すぎて鞭打ち症にならないか? フックがうまく引っかからなかったらどうなるのか? 疑問はいろいろ湧きました。
そう考えると納得できます。

 先月、空母キティホークの甲板上でその説明を聞いたのですが、どうしてもイメージがつかめませんでした。それが実際に艦載機を目の当たりに見て、よく理解できました。

訓練や実戦での事故も決して少なくないようです。そのために、まず、日中の仮想空母(陸地)での離発着、ついで夜間、さらにはあらゆる天候に合わせての訓練を積み重ね、それから実際に空母で訓練するそうです。

艦載機は指揮官の指示で下りてきます。順調な角度で空母に迫ってきている場合は、指揮官のいる正面から見て中央に、オレンジ色のランプが付きます。

 88年に及ぶ空母と艦載機の訓練から、大変に厳格かつ緻密な離発着訓練が行なわれていることがよく判りました。

 しかし、問題はその訓練場の確保です。硫黄島には難点もあります。厚木では周辺地域の住民が我慢の限界に来ています。
日米両国にとって神聖な島 [2006年05月26日(Fri)]



海上自衛隊と航空自衛隊の硫黄島基地司令部の「番兵」に挨拶する、ケリー司令官。自衛隊もここでは特別の服装で勤務する。これが正装。




司令部前で説明をするケリー司令官。右のショボクレオトコが筆者。


  硫黄島に到着早々、海上自衛隊の講義室を借りて、ケリー在日米国海軍司令官がブリーフィングを行なった。視察途中で聞いた話も含めて列挙してみたい。

「硫黄島は日本にとってもアメリカにとっても神聖な土地である。第2次世界大戦で、両軍は最も激しい戦争の一つをここで戦った。われわれはいつもその思いでこの島に来ている」。

「日本側も地下壕のすべての調査を終えているわけではない。地下壕には硫黄の発するガスがあり、火山島であるため45度から時に60度にも達する。また、崩れやすくて容易に人が入れる状態ではない」。

「1968年8月26日に他の小笠原諸島とともに日本に返還されたが、それ以前に日本人の遺骨もアメリカ本土に埋葬したケースがある。返還されたものもあればそうではないものもある」。

「1991年以来、海上自衛隊、航空自衛隊の皆さんの協力で、わが海軍はこの地で、日本とアジアの防衛のための訓練を行なっている。米日安全保障条約が友好に機能してこそ、抑止力になる。それがかつて死闘を繰り広げたこの場所で行われる意義をかみ締めると、厳粛な思いになる」。
硫黄島往復の5W1H [2006年05月26日(Fri)]



搭乗機のタラップから見た厚木飛行場。




上空から見た硫黄島。



 硫黄島は、東京とサイパン島のちょうど中間にある。厚木基地からで言えば674海里(約1250km)、多くの機能が移転しそうな岩国基地からだと768海里(約1430km)離れている。

 厚木基地から米海軍のC9(C40A型)輸送機で1時間40分ほどかかる。C9輸送機というから、早とちりの私は、横すわりに並ぶカーキ色の機体のプロペラ機かと思っていたら、なんと言うことはない120人乗り双発旅客機だった。想像していたタイプのは、ベトナム戦争の時や、その後のカンボジア行きのころによく乗ったもので、思えば平時の日本では当然なのかなと苦笑した。美人かどうかは好みがあるのでいえないが、軍服ではあるがちゃんと客室乗務員までいて、クッキーとペプシ、飲料水などを配っていた。

 話をわかりやすくするために、まず、5W1Hで概況を説明したい。

 い つ:2006年5月24日(水) 厚木発12:00
                  厚木着22:20

 ど こ:東京都小笠原村硫黄島の滑走路、慰霊塔、擂鉢山(海抜161m)、米軍上陸地点などを視察。

 だ れ:米海軍のゲストとして、防衛施設庁2、神奈川県庁1、厚木周辺の藤沢、大和、綾瀬、海老名、座間、相模原、町田の各市の米軍との調整官など各1、東京財団2の計12名。駐日米国大使館のゲストとして、「小泉チルドレン」と俗に言われる新人衆議院議員9(内、女性2)、米国大使館関係職員6の計15名。ほかに、ケリー在日米海軍司令官(少将)など米軍将校など約15人。総計約42人。

な に:@米海軍の訓練に関する諸問題のブリーフィングを受け、滑走路では、艦載戦闘機による昼間・夜間の発着訓練(touch & go)を間近で視察し、管制ブースを見学。艦載機の訓練のあり方につき、ケリー司令官らと意見交換。
    A太平洋戦争時の慰霊と戦跡の視察。

な ぜ:米側は、艦載機の夜間訓練につき、日本の広い意味の関係者の理解を得たいという理由。
    参加者側は、それぞう違った関心があったかと思うが、私自身は、この@A双方に強い関心があった。

いかに:厚木基地を出発して帰還するまですべては米軍のお世話になり、ジャミー・ケリー在日米国海軍司令官が付きっ切りでお世話し、説明してくれた。
    天候は、厚木出発時は晴れ、硫黄島では概ね晴れ、Yシャツ姿でOK。帰路は途中から雷雨、豪雨。いままで何百回飛行機に乗ったか知れないが、60年代に、ハンブルクから西ベルリンに飛んだ時の大揺れ体験を思い出す、酷い揺れだった。



厚木基地の戦後 [2006年05月26日(Fri)]




  厚木基地での筆者。後方は、硫黄島にゆくための搭乗機。


 一昨日、硫黄島に行ってまいりました。
 まずは、その概要をすこしずつ分けて、お伝えすることにします。1回目は厚木基地のことです。

 硫黄島には、在日米国海軍のJamie Kelly少将のご招待で行くことが出来ました。目黒の我が家からですと、品川経由、横浜で相模鉄道に乗りかえ、急行で25分、さがみ野で下車、タクシーで2キロで厚木基地の正面ゲートに到着です。軍用犬での荷物検査を終えると、目の前にマッカーサーの立像があり、そこが同元帥の名をとった、公園になっていました。

 マッカーサー元帥はわが国の敗戦の年、1945年8月30日、この厚木飛行場にコーンパイプを咥えながら降り立ったことでも有名です。2週間前まで死闘を繰り返していた「敵国」に、この姿でやってきたこと(どうやらそのときの写真は、かなり演出されたものないし取り直しをうぃたもののようですが)に、当時の日本国民は愕然としたようですね。

 そしてまた、後日、その軽装で、モーニングを着用した昭和天皇を米国大使館に迎えたことには、激怒した人も多かったと聞いています。

 厚木に降り立つ直前まで、滑走路は基地司令の小薗大佐以下、帝国海軍厚木航空隊(戦闘部隊)、第1・第2相模野航空隊(教育部隊)の将兵たち(約3,500名)によって封鎖され、元帥の到着阻止をはかっていたのです。

 マッカーサーの到着に際し、一発の銃声でも轟けば、即武力進駐となり、悪くすれば今のイラクのような状況になりかねませんでした。日本側で受け入れを担当している幹部は気が気でなかったのです。

 そのあと、さまざまな経緯があって、結局、大安組の安藤明が文字通り、身を挺して滑走路を使えるようにしたのでした。

 そのあたりの経緯は、私の早稲田での級友・木村雅是くんが実際の中心になって再刊された、中山正男(ユースホステル運動の祖)著『安藤明―昭和の快男児 日本側を救った男』(講談社出版サービスセンター)に詳しいので、ご関心のある方はご覧下さい。

 安藤明はすごい男でしたし、私はその一人娘と学生時代以来、いっしょに赤十字のボランティア活動をして来ました、若いころから多少、この話を知っていました。

 厚木基地の正門にたたずんで、敗戦時の軍部の混乱に、しばし思いをいたした私でした。
家も国家も戸締りは必要 [2006年05月26日(Fri)]




      米空母「キティホーク」。


  長くお付き合いをいただいている、実業家のT氏から、「最近のニュースを見て」として、この人にしてはいささかナイーブな(失礼!)一文を頂戴しました。

  しかし、これはものごとの本質を突いた質問であり、国全体としての安全保障、そして昨今、大いに話題になっている人間の安全保障を考える上で、根本的に重要なものの考え方であると思い、小覧でご紹介したい。

 もし、明解に、かつ簡潔にお答えできる方がおられたら、是非、ご回答ください。

  ☆━━━━…‥・   ☆━━━━…‥・

  私の考え方が間違えていますか?

  一般社会の出来事と戦争も同じ次元で起こる問題ではないでしょうか。

  社民党の先生方は憲法第9条を守れば安心と考えておられるようですが、それでは、あの方たちは夜戸締りしないで寝るのですか?

  また、最近、秋田県で連発している事件、小学生の男の子や女の子の殺人事件をどのように感じているのですか?

  無防備で抵抗しない子供たちを何ゆえ殺すのですか。殺人者サイドに正当な説明がありますか。

  皆が怒りや悲しみを感じるときでも、まだ自己防衛、自国を守る手段を整備してはダメですか?

  地域の人々がボランティアで集まって地域の子供を守る、それも大事です。しかし、それはなかなか長く継続することが難しいようです。

  まして国を守るには、たとえ昔の「自警団」のようなものでも、竹やりでは、不可能です。周辺国家を信じて、非武装なんてとても国民(家族)の安全に責任を持つ国会議員(父母)のとるべき態度とは思えません。

  加えて、最近は世界的に国境を越えたテロが大流行です。そういう時代には、各国がそれぞれに戸締りをしっかりし、万一、進入されたなら、威力をもってこれを制圧しなくてはいけません。

  そのためには、各国と友好的に協力し、イザとなったら互いに助け合うという準備も必要でしょう。

 国の安全保障と我が家の問題を同じ次元で考えることは、間違いですか。
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