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ざるそばともりそば [2006年04月24日(Mon)]






   ざるそばともりそばは、どこが違うのか。

「そんなの知ってらい。もりに海苔をかけたのがざるに決ってるわい」。

  熊さん八っつぁんでも、そう答える・・・と思いきや、江戸時代にはざるそばでも海苔をかけないのが普通だった。答えは、本来は、入れる器とつけじるの違い。

  しかし、熊さん八っつぁんが21世紀に出てきたら、やはりそういう言うかもしれないくらい、今は区別が怪しくなった。

  では、「本来」を探ろう。

  ざるそばは、中が窪んだ丸い笊に入れるのが本当。笊蕎麦と書く。読んで字の如し。笊に盛ったから笊蕎麦。それにワサビを添えたもの。

  もりそばは四角い箱の表面にすのこ(竹簀)を置いたものに高く盛り上げるもの。もりそばとは、「蒸籠に盛る蕎麦を盛り」といっていたと、幕末のエッセイスト喜田川守貞の『守貞漫稿』にある。

  次につけ汁。ざるそばのつけ汁は、もりそばのよりややコクのあるものを用いた。

  つけ汁はまず、返しを作ることから始まる。返しとは、醤油と砂糖の混合物。醤油を煮返すことから来た言葉だ。返しにだしや味醂を適当に加えることで、天つゆ、丼ものの汁、料理のタレに変化させる。ざるそば用のつけ汁であるざる汁をつくるには、もり汁に御膳返しを少し加える。御膳返しとは、返しに、だしを加え、さらに味醂を同量混ぜたもの。

  今でこそ、蕎麦屋の三傑は、藪、砂場、更科とされるが、江戸時代の真っ盛り18世紀には深川の伊勢屋が評判。ざるそばの元祖とされる。『武江年表』の寛政3年のところに、「深川州崎の名物の笊そばは、九月の高波の後絶えたり」とある。 

  せいそばはもりそばの一種。蕎麦を盛りつける器がせい蒸ろ籠であることによる。

  17世紀の後半、そばきりを湯通ししないで、蒸籠で蒸す「蒸しそばきり」が流行。その名残で、今度は湯通しして蒸籠に盛り付けたものをせいろそばというようになった。

  しかし、最初は蒸籠の底に盛り付けていたのが、天保年間(1830〜44)に、蕎麦屋からの値上げ申請に、幕府が値上げを認めずに、蒸籠の竹簀の底上げを認めたため、今のような形になった。

  御膳蕎麦というのは、本来、「蕎麦を揉むときに水を使わず、全卵だけで調整したもの」(『蕎麦屋のしきたり』)であった。すなわち、丁寧にこしらえた質の高い蕎麦という意味であった。

  しかし、器や蕎麦の品質が「高級な蕎麦」をそのように称するようになり、さらに転じて、蕎麦屋がもりそばに高級感をあたえようと、この名を一般的に使うようになった。
なお、時々、「御前蕎麦」という表記もあるが、これはさらに俗化した言い方のようだ。

  私は、「メン食い」、少しは麺のはんしにもお付き合いください。




  長野県千曲市の「杏の里」を描いた挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。

渡辺國武さんと樺太 [2006年04月24日(Mon)]
 





  元サハリン再開支援会代表の新井佐和子さんが書いた『「サヨナラ、サヨナラ」と言い残して全員自決した電話交換手の碑「氷雪の門」を忘れるな』(雑誌「正論」2005年1月号所載)に、渡辺國武先生の経歴があるので、他のものも参考にしながら、ご紹介させていただきたい。

1904年、新潟県柏崎市で生れた。
1905年は、ポーツマス条約の締結により、北緯50度以南の樺太が日本の領土となる。父親が樺太開拓の先駆者として漁業関係の事業を興す。
1911年、國武7歳の時に大泊へ渡る。
1921年、大泊中学を卒業、王子製紙へ入社。
1928年、同社の系列である樺太電気会社が設立され、出向。
1933年まで大泊勤務。
19341年、同社の本社(豊原)に転じ、総務課長を経て営業部長に。
1945年、ソ連軍の侵攻で敗戦。官、軍、民の多くが抑留される。

「会社の幹部ともなれば、ソ連占領軍によって手痛い仕打ちを受けるところであったが、運良く、樺太新聞の人がスターリンの写真を持ってきて壁に掛けておいてくれたため、難を逃れ、最悪のシベリア送りにはならなかったものの、戦わずして敗戦国民とされた」「屈辱と、理不尽に故郷を追われた悲痛なご体験は、他の40万樺太引揚者とともに、樺太が復帰しないかぎり癒えるものではないと拝察する」と新井さんが書いている通りの苦難が続いた。

   1965年に刊行された『王子製紙社史』によれば、終戦時、樺太にいた同社の社員は、職員1,613、工員8,274、計9,887人の多くに上ったという。ソ連では深刻な労働力不足と製紙技術継承のため、これらの人々は終戦後も、留め置か最終的には1948年12月までかかり、家族を含む31,655名が帰国船に乗った。

   中には、帰国の途次、北海道の沖合いで「国籍不明」の潜水艦に撃沈された2隻の船とともに亡くなった人も少なくない。

   1946年末、渡辺さんは郷里の新潟に引き揚げてこられた。その後、東京で会社を設立した。 苦心を重ねて、自立した。

   1955年、「南樺太復帰同盟」が結成、創立幹部として活躍。後に会長となる。
 私がはじめてお目にかかったのは、1975年ころだったかと思う。北方領土返還要求全国大会が、まだ民間だけで開催されていた(現在は、内閣府、地方6団体と共催)ころである。渡辺さんは言う。

   「南樺太は本来、雑居地だった。それがロシア領になり、ポーツマス条約で日本の領土になった。日露戦争は日本が貪欲によって強奪したのではない。双方が合意して日本の領土としたのだ。加えて、大西洋宣言、カイロ宣言で連合国は領土不拡大としたではないか」
「ポツダム宣言」を受諾した以上、この論理には無理があるが、日本の領土を取り戻そうという情熱には敬意を表していた。

   また、「日ソ間の領土問題はソ連のみを相手としていてはらちがゆかない。サンフランシスコ講和条約の調印国に働きかけて、同じような会議をもう一度、開き、そこで協議すべき問題だ。そのためにはまずアメリカに働きかけるのが筋」という持論で、自ら、ニューヨークやワシントンに赴いて、説いて回っておられた。

   樺太での貴重な体験と返還への情熱は、著書『九十年/わが内なる熱き声』『樺太望郷・この信念だけは曲げられない』に詳しく書かれている。

樺太から引き揚げた人には、後に王子製紙の社長・会長になられた河毛二郎さん(1948年帰国)がいる。経団連の日ソ(ロ)経済委員長として、両国の関係改善に努められた功績は大きい。

   ロシアからの要人をご案内した時、何度かお目にかかったことがある。


借りたものは返すこと [2006年04月24日(Mon)]






 30代の夫婦がバーの近くの席で話していた。

「借りたものは返さなくてはいけない」

「あったりまえでしょう、そんなこと」

「しかし、国家でさえ返さないことがしばしばあるし、返させるべきではないという運動さえあるよ」

「どういうこと?」

「ODA(政府開発援助)で有償資金援助、つまり、その国の開発・発展のため、超低利で長期返済という債務を負わせて、政府のお金、つまりわれわれの税金を開発途上国に貸付るわけだ」

「ケチね。困ってるんでしょうから、初めっから差し上げればいいのに」

「そうはいかんさ。もらったカネなら私的に流用しやすくなる」

「そうか、それと、あげるとなると金額が少なくなって大きな事業が出来なくなるかもね」
「いいところに気がついたね」

「でも、返せなくちゃどうするのよ」

「簡単に債務帳消しなんてしたら、次のODAを出しにくくなるよね。だから、返済計画作りに協力し、返済期間をづらしたり、伸ばしたりもしてあげるといったことをするんだ」

「日本人もあまり言えないよね」

「どうして?」

「だって、<住専>や<長銀>の問題では国が民間の借金の肩代わりをしたじゃない」

「不良債権を抱えた他の銀行も国にすがってなんとか生き延びてるね」

「政府や地方自治体だってそうじゃない。800兆円近い借金なんでしょう。返せるの?」

「そういうあなたは日本育英会の奨学金、返済した?」

「う、う〜ん。まいったなぁ。自己破産宣告でもするか」。

毎日新聞(4月21日付)のコラム「発信箱」で、経済部の中村秀明記者が「借りたら返せ」と題し、「<借りたら返せ、返せないなら借りるな>である。そんな当たり前が揺らぎ口にしづらいことが、実は一番おかしいのである」と結んでいる。

 このままいくと70歳を過ぎても住宅ローンの返済に迫られる私は、中村記者に最初に叱られそうである。せめて心身とも健康でいよう。
渡辺先生と櫻井大尉 A [2006年04月24日(Mon)]





  渡辺國武さん、102歳の悲報の続きである。

  陸大同期生名簿を見ると、40名の卒業生の中で、日露戦争で戦死したもの5人とは別に、日露戦争で捕虜になった櫻井久我治大尉のみが「免官」と表示されている。陸大始まって以来の不名誉とされた櫻井の運命であった。

  雑誌「正論」の2005年4月号に私は櫻井の「その後の消息は杳として知ることは出来なかった」と書いたところ、渡邊國武さんから、「私は大正中期からその櫻井さんの部下だった」というお手紙を頂戴した。

  戦前、渡辺さんは樺太で王子製紙に勤めていた。

早速、仙台に渡邊さんを訪ねて話を伺い、また、王子製紙の社史編纂所にもお世話になった。

  それによると、「免本官」となった櫻井を三井合名が呼び入れ、小樽の三井物産で働いていた。その後、1913年10月に樺太に渡り、王子製紙の「事務全般を担当することになった」(『王子製紙社史』)。そして櫻井は、早くも1915年には、王子製紙大泊分社の責任者である小笠原菊次郎常務取締役大泊工場長の代理者となり、山林部門の責任者を兼ねた(『王子製紙山林事業史』)。

  櫻井は最終的には同社が最盛時9つも運営していた製紙工場の事務上の責任者となっていた。同社の社史に燦然と登場する、樺太経営の主要人物である。ちなみに、それらの工場の大半が、つい数年前、20世紀の最後まで、サハリンでダンボールの製造などにあたっていた。

  1906年2月、櫻井らは首都サンクトペテルブルクにほど近いメドヴェージ村の捕虜収容所から帰国した。

  それを待っていたのは、櫻井らへの厳しい処分であった。

  これは、常陸丸沈没の際の須知連隊長以下の光景が「美談」に仕立て上げられ、その沸き起こした世論を審判員たちが考慮したものではないかとも思える。特に、審判から5年後に水野廣徳が上梓した『此一戦』の次の表記のような見方当時既に充満してしたことが、審査に影響したのではないかと思われる。

「常陸丸」の場合に於て、其の乗員は縦令敵に趨つて降を乞ふも、軍律は恐らく之を恕するであらう。然も連隊長須知中佐以下一千有余の我が将卒は、毅然として敵に降るを肯ぜず、或は軍旗を焼きて従容死に就き、或は銃を執つて敢然として敵に抗し、遂に一人の降伏者さへなかった。…之が為め我が国民の敵愾心を新たにし、我が軍隊の士気を昂奮したること幾何であつたらうぞ。

  これをもじった言い方が許されるならば、「『此一戦』が為め我が国民の捕虜を恥じる心を新たにし、我が軍隊の捕虜を蔑視する気分を昂奮したること幾何であったろうぞ」と思う。

  著者・水野は日露開戦7年前に江田島の海軍兵学校を卒業し、日本海海戦に海軍大尉、水雷艇長として参加した現役の海軍将校である。そうした貴重な体験に加え、大変な文才と分析力の持ち主で、両国艦隊の戦力比較、敵前大回頭、秋山真之参謀が敵の旗艦に乗り込んで降伏を受け入れさせるようすなどを臨場感あふれる筆致で描き出し、明治戦記文学の華ともいうべき内容で、『此一戦』はベストセラーになった。

  1937年に刊行された『博文館五十年史』に「『此一戦』菊判四百頁定価金一円にて判を重ねること百回近く、本館出版史中に1、2を数ふべきものであつた」とあり、石渡幸二の「水野広徳の書誌」によれば、初版から半年も経っていない1911年10月28日に発行されたものが既に67刷、博文館本が絶版となったあと、次に1929年に改造社の「現代日本文学全集」に収録され、その7,8年後に新潮文庫となった。

  最近でも、2004年6月に明元社から初版本の復刻版が出た。「日露戦争の実像をリアルに描き出した従軍記として、情報の少なかった当時の市民から熱烈な支持を受け、高い評価を得た」(明元社編集部のとがき)。もっとも、水野自身欧州で第1次世界大戦の惨劇を視察してから、思想的な大転換を行い、積極的に「非戦・平和論」を展開するようになった。

  またまたCMで恐縮だが、昨年9月に刊行した拙著『捕虜たちの日露戦争』(NHK出版)に、以上のことは詳しく書いた。

  謹んで、渡辺さんのご冥福を祈る。合掌
(完)
国名略式標記の解答 [2006年04月24日(Mon)]





 漢字による国名の略式表記について、ご解答します。


西=スペイン
瑞=スイス
諾=ノルウェー
白=ベルギー
典=スエーデン
葡=ポルトガル
希=ギリシャ
墺=オーストリア
丁=デンマーク
芬=フィンランド
伯=ブラジル
波=ポーランド
愛=アイルランド



以上が正解です。「白」をペルーとした方がいましたが、ペルーは「秘」です。まら、「埃」がエジプトですとのコメントもありました。これも発音から来るものなんでしょうね。まさか、「砂漠があるから」というわけではないでしょうから。



写真は、目黒区の林試公園で撮影したものです。
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