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「日の丸」の総合学習B [2006年04月08日(Sat)]




Q8.「日の丸」は1999年8月9日に最終的に「国旗国歌法」で国旗として新たに制定され、この法律は同月13日に発効しました。

「日の丸」は幕末に「総船印」として制定され、1870年には、「商船に掲ぐべき御国旗」と「海軍軍船に掲ぐべき御国旗」がそれぞれ制定されました。

  ところがその2つの「日の丸」のデザインが異なっており、1999年の法律は、後者と同じデザインを国旗として制定しました。

 私は衆議院で同法案を審議する過程で、参考人としていろいろ発言しました。もっぱら国旗について発言しました。民主党からは作曲家の中田喜直先生が出席され、もっぱら「君が代」について発言し、「音楽的にすばらしい」とおっしゃってました。

  それはともかく、新しく制定された「日の丸」は、縦横の比率2:3、円は旗面の中心、円の直径は縦の5分の3です。そこで、問題。縦120センチ、横180センチの国旗の場合、円の周囲は何センチでしょう。               (中学2年生程度)



  写真は山梨県の伊奈湖の風景。撮影した石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
国旗博士の総合学習A [2006年04月08日(Sat)]



 面積計算を中心とした問題が続きます。国旗の図を見ながら考えてください。3つとも、中東の国旗についてです。国旗の縦横の長さは、縦120センチ、横180センチ、小数点以下は一桁までとします。また、円周率は、3.14とします。

中東といえば、その大部分がイスラム教の国々です。預言者(予言者ではありません)ムハンマド(モハメット)により、「唯一神アッラー(アラー)」の教えがもたらされました。聖典は「コラーン(コーラン)」です。冒頭に「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドはアッラーの預言者なり」と描いてあります。

そしてサウジアラビアの国旗はその言葉がそのまま、アラビア語で大きく記されています。これはイスラム教徒にとって最も神聖な言葉です。アラビア語は右から左に読むのです。「ライルゥアッラー ムハンマッドゥル ラッシルゥアッラー」いうように読むのだそうです。聖句ですから、サウジアラビアの国旗は同じものを2枚作って張り合わせ、表裏どちら側から見ても、ちゃんと読めるように製作しなくてはいけないことになっています。

Q4.中東地方と日本との関係で最も重要な貿易は何でしょう。 (小学校4年生程度)


Q5.アラブ首長国連邦の国旗は四辺形4つの組み合わせです。4色の幅は同じです。
90×135平方センチの旗として、赤と緑(白、黒)の面積はいくらですか?
                            (小学校5年生程度)





Q6.クエートの国旗はアラブ首長国連邦の国旗とデザインがよく似ています。イスラム諸国の国旗にはこの黒緑白赤の4色がとても多く用いられています。どんな国の国旗か探してみましょう。そこで質問。クエート国旗の黒の幅は、国旗の横幅の4分の1です。縦120センチ、横180センチのクエート国旗の場合、黒、緑(赤)、白の面積はそれぞれ何平方センチでしょう。          (中学校2年生程度)




Q7.オマーン国旗についての質問です。竿側の赤の横幅は、旗全体の横幅の4分の1、横長の白赤緑は同じ面積です。では、紋章の部分を含んで、赤は旗全体の何%をしめているでしょう。  
                 (中学校2年生程度)






    その他の国旗の図は、外務省のホームペイジ「キッズ外務省」でご覧ください。
   
国旗博士の総合学習@ [2006年04月08日(Sat)]

   


「総合学習」の進め方で苦心している教師が多いと聞く。そこで、私が考えた課題。題して「国旗博士の総合学習」。

国旗の縦横の長さは、特に指定のない場合は、縦120センチ、横180センチ、小数点以下は一桁までとします。また、円周率は、3.14とします。


Q1.世界の国旗には、3つの色の帯からできている「三色旗」が一番多い。もっとも有名な「三色旗」は左から縦に、青、白、赤のフランスの国旗。フランス語で「トリコロール」と呼ばれる。そこで、問題。縦が120センチ、横が180センチの「トリコロール」の場合、青、白、赤の3色の面積は、それぞれ、何平方センチでしょう。また、フランスの首都はなんという名前ですか。
                            (小学校4年生程度)



Q2.ところがこの「トリコロール」、旗竿に掲げて遠くから見たときに三等分に見えるようにと、一時期、3色の幅を30:33:37にしたことがあります。その場合、3色の面積は何平方センチでしょう。小数点以下、1桁まで出しなさい。
  また、近代フランス音楽の作曲家で有名な人を3人挙げなさい。
                            (小学校6年生程度)



Q3.「三色旗」には、少し変った形の国旗もあります。T字型の国旗です。下の図です。 アフリカの国です。マダガスカルとダオメです。両国とも1960年にフランスから独立した国です。この年にフランスから独立した国は9カ国もあって、いずれもフランス共同体の一員として協力しあおうという気持ち異から、フランスの「トリコロール」の例にならって「三色旗」にしようとしました。チャドは「トリコロール」の白を黄色にしましたが、当時、多くの国はアフリカで最も古くからの独立国であるエチオピアの国旗の色である赤、黄、緑の三色を国旗の色として選びました。ですから、「三色で三色旗を作るデザイン上の限界だ」と当時のマダガスカルの高官が述べたと報道されています。




 そこで問題、
@マダガスカルとダオメの国旗、よく見ると形が少し違います。判るかな?
   マダガスカル国旗の白赤緑の面積は同じですが、ベナンは緑の横の長さが旗全体の横の長さの5分の2になって、少し太いのです。マダガスカル国旗の縦が90センチ、横が135センチであるとすれば、白と赤(緑)の面積は、それぞれ何平方センチになるでしょう。              (中学一年生程度)
 Aマダガスカルは大きな島国です。この島より大きな島を3つ挙げなさい。
                       (中学3年生程度)
 
               

国旗の図は、外務省のホームペイジ(キッズ外務省)でご覧ください。
   
六者協議と六カ国協議 [2006年04月08日(Sat)]





昨日、各紙が、北朝鮮の高官二人の来日を伝えている。「六カ国協議」の首席代表と次席だという。

北朝鮮問題をめぐり、北京で時々6カ国の代表による話し合いが行なわれている。これをあるメディアは「六者協議」と呼び、他のメディアは「六カ国協議」と呼ぶ。同じものをどうしてそのように異なる表現で呼ぶのだろうか。

「六カ国協議」は、主に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の核開発問題解決のため関係各国が北京に集まり、直接協議を行なう外交官会議。「六者会合」「六者協議」とも呼ばれる。

六者とは日本、米国、韓国、北朝鮮、中国、ロシアを指す。日米韓の3カ国が北朝鮮を国家として承認していないため、「六カ国協議」とは言いにくく、「六者協議」「六者会合」と言った表記がなされることがある。この呼び方は、北朝鮮と各メディアの距離を知る、バロメーターの一つにもなっているはずなので、比較してみた。

   その結果・・・
   不思議なのは、朝日新聞だけが「六者協議」。朝日は北朝鮮を国と認めているはずなのに、どうしてだろう。近く幹部記者におめにかかる予定があるから、よく聞いてみたい。

2003年8月に最初の協議が行われ、2004年6月の第三回協議まで行われたが、翌年2月に、北朝鮮が核兵器の保有を公式に宣言し、協議の無期延期を発表した。このため協議は中断した。

しかし、同年5月には米国が北朝鮮に対して協議復帰を促す接触を開始、05年3月には、日本ではあまり報道されていないが、米空軍は、ピョンヤン上空で盛んに航空機による威力偵察を敢行した。

かくして、第4回協議は同年7月26〜8月7日までと9月13〜19日行なわれ、初の共同声明発表まで進んだ。さらに、第5回協議は11月9〜11日まで行なわれ、議長(中国代表)声明の形で会議の内容が集約された。

  民間の会合であれ、二人の高官が来日するという裏には、北朝鮮も外交のリーダーシップをとりつつ、この問題で何らかの打開を図ろうとしているに違いあるまい。




     挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
反日と親日 [2006年04月08日(Sat)]






韓国語には日本語の和語に当たる部分と漢語から来たものがある。だから、日本人としては漢語が混じっている部分はすぐに覚えられる。

たとえば、「カムサハムニダ」と「アンニョンハシムニカ」である。前者のカムサは「感謝」、後者のアンニョンは「安寧」なのだ。したがって、「ありがとう」と「How are you?」ということになる。

同じような共通点は、その後、ベトナムに滞在するようになってからも、当然ながら、いろいろ感じた。ベトナムでは「国語」は「コックグー」と発音する。以下、「大学」は「デホック」、「注意」は「チュイ」、「大使館」は「ダイスグァン」、これらは、中越韓とも酷似している。明治時代に日本語から入った言葉であろう。「赤十字」は「紅十字」、「ホンタプトゥ」と発音する。要するに日中韓越はみな漢文化の下にあったということだ。
 
初めて韓国を訪問した1965年当時の反日感情は今とは少し性質を異にしていたように思う。

私はもちろん、1910年以来の日本の韓国併合を賛美しているのでも、韓国・朝鮮人の36年に及ぶ苦痛を不当な叫びだと言っているのではない。十分反省もし、繰り返してはならないというのは言うまでもないことだ。その上で、率直に書きたい。

もちろん、当時も、冷麺店で食事をしていた時に雑巾を投げつけられたとか、日本代表部の日の丸が引きずり降ろされたとか、日本語を使ったというだけで郡守が逮捕されたといった事件はあった。しかし、30歳以上の韓国の人はおよそ全員日本語が話せた。

李承晩初代大統領がいかに「反日教育」をしても、日本が統治していた時代のことについては亡命していた李よりも、国に残って実体験した韓国人自身が詳しいのだから、簡単には行かない。問題はそれ以下の世代だ。反日ナショナリズムを公教育の中で刷り込んでいかねば、定着困難という面があったと私は思う。

 そして今、その頃の児童・生徒が政治や社会のエリートになっているのだ。つまりつくられた反日の部分が相当ある。

60年代末のことであった。ソウルの東洋通信社が、旧朝鮮総督府(当時は中央庁=首相府)の建物をどうすべきかというアイディアを募集したとき、最優秀賞に輝いたのは、「国民みんなが金槌を持っておしかけ、叩き壊す」というものだった。

  この建物は、李王朝の王宮である景福宮(キョンボックン)の前庭に権威主義的にデーンと建てたてられた、政治的にはすさまじいものだが、なかなか秀麗な建造物であり、当時十分使用に耐えるものだった。65年にお会いした韓国人の多くは、旧帝国ホテルや現・首相公邸を設計した建築家ライトが設計し、今や自分たちのになったこの建物を内心、誇っていたくらいだ。

結局、朴政権は、日本時代に移築した敬服宮の正門・光化門(クアンフアムン)をやや大きくしてその前に再構築した。それによって旧朝鮮総督府をかなり隠し、近くに、秀吉の「朝鮮征伐」の際、水軍を率いて活躍した李舜臣(イスンジン)将軍の立像を建立して、南方を睨み付けるようにした。

親日と反日、アンビバレント(二律並存)は21世紀の今となっても、韓国民から消えていないと私はみる。そしてそれは、長い間、私自身にも、アメリカについて同様であった。私は親米で反米だ。82カ国訪問した私にとって82番目の訪問国がアメリカだ。そのことについてはいずれ本欄でも紹介したい。



山梨県 「伊奈ケ湖」の写真は、石田良介画伯の撮影したもの。ご厚意で掲載させていただいております。
NGOとNPO [2006年04月08日(Sat)]




今や花盛りともいうべきNGO/NPO、新聞に出ないことはないほど活発であり、21世紀の活路を開くものとの期待も大きい。しかし、この言葉、いつから始まり、どう区別するのだろうか。企業や組合だって民間団体、NGO/NPOではないのか。


●高い理想と厳しい現実の調和を
NGOはNon Governmental Organizationの略。直訳すれば非政府機関。

1945年にできた「国連憲章」第71条に「経済社会理事会は、その権限内にある事項に関係のある民間団体と協議するために、適当な取極を行うことができる」ように、民間団体、民間協力団体、非政府公益団体などと訳されることもある。

NGOには財団法人、社団法人、社会福祉法人などがある。広義には政党、労働組合、寺院や教会などの宗教法人、病院や診療所などの医療法人、早稲田・慶応などの学校法人をも含む。こうした団体や法人は公益性が強いということでNGOと見ることができる。しかし、企業は利益を追求するための組織であり、NGOとは認められない。


●認定NPO法人はまだ40未満
NPOもNGOの1つ。Non Profit Organizationの略。直訳すれば非営利機関または非営利団体。時々、間違えて「野党」や「反政府団体」と勘違いする国の人もいる。わが国では,1998年の特定非営利活動推進法に基づいてNPOと認定された団体。

内閣府によれば、内、私が関係していた難民を助ける会などのように、寄付金が税の控除になる認定NPO法人は、2005年9月現在、NPO法人約2万2千中、34団体のみ。

 それだけに、公正な運営、情報の開示に努め、高い理想と厳しい現実の調和を図れるリ−ダーの育成が重要だ。



    「福寿草」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。


日本語と難民 [2006年04月08日(Sat)]




 1975年にベチナム戦争が終わり、1990年代には緒方貞子さんがUNHCR(国連難民高等弁務官)として活躍するようになったせいか、にわかに難民という言葉が定着した。

挙句には、結婚難民、帰宅難民、受験難民といったわけの私から内容の言葉まで出てくる。昔は、よく亡命者ということばを使った。孫文もアインシュタインも亡命者だった。言葉が変わると実態も変わるのか。


●国際法上はまったく同じ  
 1951年の「難民の地位に関する条約」によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」である。

この規定に沿った者が、庇護国において「難民」としての特別の地位が与えられ、参政権以外のほとんどすべての権利を庇護国民同様に付与される。これを避難民や定住難民など他の類似のケースと厳格に区別して「条約難民」ともいう。

他方、わが国では、日本が31年目にしてようやく加入を果たした同条約に従い、330人(2004年12月31日現在)を「条約難民」として認定し、受け入れている。

これは欧米各国に比べて極端に少ない。このためさまざまな方面から非難の声があがり、政府は2005年6月から「難民審査参与員制度」を設けるなどして、改善を図っている。法務省のこうした姿勢の変化もあり、2005年は8月31日現在で、25人が「難民認定」を受けた(累計354人)。ちなみに、うち24名はミャンマー国籍、1名はイラン国籍である。

定住難民というのは、人道的見地に立って特に定住を認める制度。わが国では1978年以来、11、231人の定住インドシナ難民を受け入れ、内、794人が日本国政を取得している。このうち、「条約難民」として認定された人が156人である。

難民と亡命者は国際法上のステイタスはまったく同じ。何となく難民は厄介者で亡命者は再起の志のある人とか、上流階級のようなイメージなしとしないが、それは誤解に過ぎない。

拙著『難民−世界と日本』の巻末には古今東西の難民約400人をリストアップして、その挫折と栄光を紹介した。ノーベル賞を受賞した難民はゴマンといる。


●「難民」という言葉がなかった日本
日本から難民となって海外に出たのは、キリンシタン禁制により、東南アジア各地に移住して日本人町に住み着いたカトリック教徒たちぐらいのものだ。日本に難を逃れてきた人は、朝鮮や中国の王朝交代期に集団であるいは個人で来日した。これらの人々はわが国に技術、制度、宗教などさまざまな先進文化をもたらし、日本の発展に貢献した。

それにしても、島国日本には大陸諸国のように大勢の人々が難民として流入したり、その逆ということはなかった。従って、「難民」という言葉がなかったに等しい。

2005年は日魯通好条約締結から150年、驚いたことにこの条約原本、日本では行方不明、日ロ協会のご厚意で、このほどモスクワでのコピーをいただいた。その「条約漢字」という原本「第4款」に、墨痕あざやかに、「厄漂舩難民両国互相救卹其難民送致…」とある。

日本語の条約文は「難船漂民は両国互に扶助を加へ漂民は許したる港に送るへし尤滞在中是を待つこと緩優なりと雖国の正法を守るへし」となっているので、「難船漂民」を「漂舩難民」と中国語で表記したということだ。

今日の意味で「難民」という言葉がなかったのはほとんど日本語だけではないか。この単語が国語辞典に掲載されたのは、「1943年の『明解国語辞典』が一番古い例」であるとのこと(国立国語研究所からの1987年7月16日付回答)。説明は「避難の人民」とあるだけ。


●戦時や敗戦時、中国から伝わって定着
戦中戦後の例を4つ紹介しよう。
@ 1937年に日本軍が南京を占領してからの日々を記録した笠原十九司の『南京難民区の百日−虐殺を見た外国人』(岩波書店)、
A 1941年に上海の難民たちを描いた清水登之の作品『難民群』(栃木県立美術館所蔵)、
B 終戦直後に、空襲を受けた日本人を支援しようと、在米日系人らが呼びかけた「日本難民救済会」、
C 同じく敗戦直後に「満州国奉天市」(現・瀋陽市)で北條秀一日本人居留民会救済処長が呼びかけた文「道義なくして難民の救済はなく・・・」である。

中国残留孤児来日のたびに「奉天日本人難民収容所で母と別れ」といった紹介があるが、「孤児」と同世代の私はことさら胸が痛む。詳細は拙著『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)に拠られたい。



    挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
世界最大の国旗 [2006年04月08日(Sat)]



 古来、人間はさまざまな旗を考え、作り、使ってきた。では、史上最大の旗はいつどこで、用いられただろうか。

1992年のバルセロナ五輪開会式で、75×105mの五輪旗が全参加選手の頭上に掲げられた。

極軽量の化学繊維製とのことだが、それでも800kgもあったとのこと。

同様のサイズと思われる星条旗が2001年9月11日の同時多発テロの後、最初にテキサススタジアムで行われたサンディエゴ・チャージャーズとダラス・カウボーイズのNFL戦開会式で同スタジアムいっぱいに広げて捧げられた。





 また、1991年8月、クーデター未遂事件直後のモスクワは赤の広場で、エリツィンを支持する人々によって同広場いっぱいのロシア国旗が持ちこまれた。公式の記録が残っていないが、30×150mくらいはあったのではなかろうか。

日の丸のようなデザインとは異なり、長い布を縫い合わせて作ることのできる縦三色旗だから可能な話であるといえよう。

 最近はサッカーの競技場でスタジアムに大きく広がる「日の丸」も見られるが、これを製作するのは、本当に難しい。白地を帯状に張り合わせ、真ん中をくりぬいて、そこにこれまた帯状に縫い合わせてくりぬいた赤い丸を縫い付けるというのは、途方もなく難しいのである。

 韓国・日本共同開催のW杯のとき、開会式の総合プロデューサーから、フィールドを覆う大きな五輪旗製作の打診を受けたが、私は専門家として「膨大な費用と製作の困難さ」を説明してあげるほかなかった。

 それだけに、テキサススタジアムの星条旗は、「9.11事件」を憎む気持ちがアメリカン・ナショナリズムを燃え上がらせて完成したものと、驚き、感心した。

     本稿は、William Crampton 『The World of Flags』(Rand McNally社)、『The Ottawa Citizen』紙(2001年9月24日付)などを参考に他の調査・研究結果をまとめたもの。

     「国後島」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
官とNGOとの役割分担 [2006年04月08日(Sat)]



国際移住機関(IOM)と認定NPO法人難民を助ける会との共催で、「NGOと国際機関の連携のあり方」をテーマとする合同報告会が、7日夜、青山学院大学で開催された。

スマトラ沖大地震(インド洋津波)とパキスタン北部での大地震被災者救援活動の報告を通じ、両者連携の道を探ろうというもので、それ自体は「いい視点で考えているな」と拝聴した。難民を助ける会の柴崎大輔(スリランカ)、松本理恵(パキスタン)両さんの報告は、内容もパフォーマンスもなかなかだと思った。

後半に行なわれた「座談会」はいただけなかった。失礼ながら、IOMの中山暁雄駐日代表、紺野誠二難民を助ける会チーフ・コーディネーターも、もう少し勉強する必要がある。それに柴崎くんを加えた3人からいいものをと、NHKの西村大介チーフディレクターが巧みな司会で引き出そうとするが、視点に共通項が多く、広い視野や歴史観に裏づけされた論理も乏しく、緊張感のない座談で終わった。

具体的に言おう。会場から、国際救援・支援活動NGOはどの国が盛んであるかという質問が出たとき、だれもしっかり答えられなかった。

古くはスイスのCICR(赤十字国際委員会)、第2次世界大戦時に英国(オクスフォード)の主婦たちがギリシャの人々を飢餓(famine)から救おうとしてはじめたことが濫觴(らんしょう)であるOXFAM、小国アイルランドのNGOでありながら、難民を助ける会の数倍は規模の大きいCONCERN、赤十字の限界を感じだクシュネル医師がフランスで始めたMSF(国境なき医師団)やそこから分離したMDM(世界の医師団)、アメリカのCAREやカトリック系のCRS、ドイツから始まったルーテル世界連盟(LWF)ワールドサービスなど、先進各国には,大規模で、数々の実績を持ち、その国のもう一つの看板となるべきNGOがあることをきちんと理解し、紹介すべきであった。このあたりについては、拙著『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)を参照されたい。

また、国連や政府(とその所属機関)の救援・支援活動がある上で、NGOの役割は何かと問われ、これまた壇上からは「貧弱な答え」しか返ってこなかった。

私が言いたいのは、こういうテーマでものを考えるときには、少しは哲学、宗教、歴史の視点を持ってほしいということだ。

戦後45年間、国連も日本政府も大した救援・支援活動を実施しては来なかったという歴史を想起すべきである。冷戦時代、米ソの関わる武力紛争に国連は手が出せなかったというのは、「国連神話」のある日本を除き、世界の常識である。中国の内戦やその後の大混乱、キューバ危機、ベトナム戦争、カンボジア内戦、湾岸戦争、そして湾岸戦争・・・国連は冷戦終結以前、平和と復興にいかなる貢献をしたといえようか。近年でも、アフリカ諸国の内戦について、所詮は政府の連合体である国連は、反政府軍の支配下で何が出来たといえるのか。NGOが頑張ったのである。、

国連と国連のさまざまな機関の貢献は、 もちろんゼロではない。しかし、いくつかの例外を除けば、ほとんど介入できなったし、復興の面でも決して沿う大きなことは出来なかった。

政府対反政府(南北、東西といった分裂国家)という対立構造の中では、米ソの思惑や国益を超えたことはほとんど出来なった。そこに、前述のような多国籍型の巨大なNGOが果たした役割を正当に評価すべきである。きょうはその名前すらほとんど挙がらなかったほどだ。

  NGOはl国際協力の分野で、時には国連や政府の下請け的な実務を実施する。しかし、NGOならではという独自の活動が本来のめざすべきものであろう。日頃、NGOについてしっかりとした使命感の持ち、その一員としての自覚と矜持を持ち続けてほしいものだ。

小欄でここまで書いているところに、いつもの著名ジャーナリストからメールが来た。会場でも黙って聞いておられた。

「司会者も含め4人の話を聞いていて隔世の感がありました。4人には”悲壮感”はもとより、”孤立感”も”切迫感”も無い、のが印象的でした。まるで「クラブ活動」、「サークル活動」の雰囲気でした。日本でも、それなりに大勢として認められたからなのか、屈折したところが無く、すくすくと育った木が,これまでは相当の苦労を強いられたのを何の困難もなくまた、ここまで幾多の先人が地を耕し、地ならしをして来たのを知ってか知らずか無頓着に新しい枝と花を咲かせているようなそんな気がします。

最後の柳瀬理事長の挨拶が声にある種、切実なエネルギーが、力があり、4人と際立った対照を成していました。やはり体系的に現状を捉え、自分が体験した現場がその中で、どのような位置づけにあるのかを考える、思いを馳せる構えが無いことが、妙にフラット、単純な印象を私に与えたのかも知れません」。

残念ながら、これでは多くの人々の理解と共感の輪を広げることは難しいと私は思ったのでした。

「共感は、その人の情熱と他の人にない輝きによってもたらされ、ともに燃え上がる」と、わが師・橋本祐子(さちこ)先生が語っていた。




   「野焼き」の挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。

首席補佐官と報道官が決め手 [2006年04月08日(Sat)]




昨日書いた「盛り上がった官房長官論」に、さらに、友人の著名ジャーナリストからメールでコメントが来ました。大いに参考になると思いますので、追加します。

     ☆━━━━…‥・


確かに日本では官房長官が報道官を兼ねています。

報道官を別に儲け、官房長官と密接に連絡を取り合い
理解を共有して対応すると
日本政府の対応能力が
随分向上するのではないかと思います。

アメリカでは大統領補佐官の中でも
首席補佐官(文字通り、大統領の片腕)と首席報道官は
大変重要です。
この二人の出来が良いと
大体政権は上手く行きます。

もう一つ欠かせないのは
一人一人の個性、適性による役割分担です。

それによって役割を変える例があります。
一時期のブレア首相のように、首相自身が一番の報道官であり
キャンベル広報担当補佐官は、むしろ背後で画策する能力を生かしました。

シュレーダー政権下のフィッシャー外相が一番カリスマがあって
最も影響力のある報道官になり、
今のシュタインマイヤー外相は、背後で
情報収集と理論作りに徹していました。

人により使い分けていくのが一番良いのですが。

いずれにしても即断即決、それも明快に方向付けを
していたのが
内外世論に対して効果を発揮していました。




       友人宅を描いた挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。禁無断転載。
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