1975年にベチナム戦争が終わり、1990年代には緒方貞子さんがUNHCR(国連難民高等弁務官)として活躍するようになったせいか、にわかに難民という言葉が定着した。
挙句には、結婚難民、帰宅難民、受験難民といったわけの私から内容の言葉まで出てくる。昔は、よく亡命者ということばを使った。孫文もアインシュタインも亡命者だった。言葉が変わると実態も変わるのか。
●国際法上はまったく同じ
1951年の「難民の地位に関する条約」によれば、難民とは、「人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の保護を受けることができないもの又はそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの及びこれらの事件の結果として常居所を有していた国の外にいる無国籍者であって、当該常居所を有していた国に帰ることを望まないもの」である。
この規定に沿った者が、庇護国において「難民」としての特別の地位が与えられ、参政権以外のほとんどすべての権利を庇護国民同様に付与される。これを避難民や定住難民など他の類似のケースと厳格に区別して「条約難民」ともいう。
他方、わが国では、日本が31年目にしてようやく加入を果たした同条約に従い、330人(2004年12月31日現在)を「条約難民」として認定し、受け入れている。
これは欧米各国に比べて極端に少ない。このためさまざまな方面から非難の声があがり、政府は2005年6月から「難民審査参与員制度」を設けるなどして、改善を図っている。法務省のこうした姿勢の変化もあり、2005年は8月31日現在で、25人が「難民認定」を受けた(累計354人)。ちなみに、うち24名はミャンマー国籍、1名はイラン国籍である。
定住難民というのは、人道的見地に立って特に定住を認める制度。わが国では1978年以来、11、231人の定住インドシナ難民を受け入れ、内、794人が日本国政を取得している。このうち、「条約難民」として認定された人が156人である。
難民と亡命者は国際法上のステイタスはまったく同じ。何となく難民は厄介者で亡命者は再起の志のある人とか、上流階級のようなイメージなしとしないが、それは誤解に過ぎない。
拙著『難民−世界と日本』の巻末には古今東西の難民約400人をリストアップして、その挫折と栄光を紹介した。ノーベル賞を受賞した難民はゴマンといる。
●「難民」という言葉がなかった日本
日本から難民となって海外に出たのは、キリンシタン禁制により、東南アジア各地に移住して日本人町に住み着いたカトリック教徒たちぐらいのものだ。日本に難を逃れてきた人は、朝鮮や中国の王朝交代期に集団であるいは個人で来日した。これらの人々はわが国に技術、制度、宗教などさまざまな先進文化をもたらし、日本の発展に貢献した。
それにしても、島国日本には大陸諸国のように大勢の人々が難民として流入したり、その逆ということはなかった。従って、「難民」という言葉がなかったに等しい。
2005年は日魯通好条約締結から150年、驚いたことにこの条約原本、日本では行方不明、日ロ協会のご厚意で、このほどモスクワでのコピーをいただいた。その「条約漢字」という原本「第4款」に、墨痕あざやかに、「厄漂舩難民両国互相救卹其難民送致…」とある。
日本語の条約文は「難船漂民は両国互に扶助を加へ漂民は許したる港に送るへし尤滞在中是を待つこと緩優なりと雖国の正法を守るへし」となっているので、「難船漂民」を「漂舩難民」と中国語で表記したということだ。
今日の意味で「難民」という言葉がなかったのはほとんど日本語だけではないか。この単語が国語辞典に掲載されたのは、「1943年の『明解国語辞典』が一番古い例」であるとのこと(国立国語研究所からの1987年7月16日付回答)。説明は「避難の人民」とあるだけ。
●戦時や敗戦時、中国から伝わって定着
戦中戦後の例を4つ紹介しよう。
@ 1937年に日本軍が南京を占領してからの日々を記録した笠原十九司の『南京難民区の百日−虐殺を見た外国人』(岩波書店)、
A 1941年に上海の難民たちを描いた清水登之の作品『難民群』(栃木県立美術館所蔵)、
B 終戦直後に、空襲を受けた日本人を支援しようと、在米日系人らが呼びかけた「日本難民救済会」、
C 同じく敗戦直後に「満州国奉天市」(現・瀋陽市)で北條秀一日本人居留民会救済処長が呼びかけた文「道義なくして難民の救済はなく・・・」である。
中国残留孤児来日のたびに「奉天日本人難民収容所で母と別れ」といった紹介があるが、「孤児」と同世代の私はことさら胸が痛む。詳細は拙著『NGO海外ボランティア入門』(自由国民社)に拠られたい。
挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。