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若き?一徹 [2006年03月22日(Wed)]
 




    今振り返って、われながらいささか「大人気なく」発言したと多少の反省を込めつつ、3月17、18の両日にモスクワ郊外で行われた「日露専門家対話2006」で自分が発言したことを紹介したい。

「さきほどロシア側から、第2次世界大戦中、ソ連は米軍にカムチャツカや沿海州に基地を設けさせるようなことをしなかったとの、いささか恩着せがましい発言がありました。とんでもないことです。あなたたちの国と日本とは中立条約があったのです。こうした行為はその条約の重大なる違反になるとは明らかです。また、日本にも言わせていただきますが、お国がドイツの猛攻に喘いでいるとき、わが国は決してソ連を攻撃したりはしませんでした。こういう話をするのはあまり気分のいいことではありませんから、このあたりまでにしておきます」

「同じく、1945年9月の日本の次官会議で、海外にいる軍人並びに在留邦人は当面、留め置くようにという決定がおこなわれ、ソ連はその決定に従って関東軍の将兵を武装解除してシベリアに抑留したと言われました。それは曲解というものです。現にいる当該地に留め置くべしということであって、そんなことが許されるなら、英国が日本の将兵を労働者としてナイジェリアやジャマイカに連行したり、オランダが蘭領ギアナに連れて行くと言うようなことも合法となるではありませんか。空襲で破壊された内地に急送するのではなく、しばしと留め置いて秩序ある復員をというのが、この次官会議決定の趣旨であることは論を待ちません」

「1956年の日ソ共同宣言と93年の東京宣言いついて、前者は両国の国会で批准された条約であり、後者は単に首脳間で合意しただけのものと言われましたが、東京宣言はそんな軽いものではありません。エリツィン大統領自身も、また、後継のプーチン大統領も何度も確認している公文書です。それを軽視するなら、首脳会談の結果は、書き留める必要がないということになります」

「こうした専門家による対話は無意味である、何ら懸案を解決しないし、両国関係の改善につながらないという発言もありました。冗談じゃありません。1973年以来、24回継続しているこの会議で、みなさんの先輩は最初の4回は、日露間の領土問題は解決済みとうそぶいていました。そこで、私たちが、いつ、どこで、どのようにして解決したのかと迫ると、今度は、そういう問題はないと突っぱねました。それが9回も続きました。しかし、どうでしょう。今や首脳間でも、“択捉、国後、色丹、歯舞群島の帰属に関する問題を解決して日露間で平和条約を締結する”というようになり、その後10回にわたるこの会議でも、両国間には法的な国境はないとの前提に立ち、尊敬するロシアの友人の皆さんたちはこの問題について真剣に議論しました」

    3月17日は、わが65歳の誕生日。ここ数年、この日はほとんど、同じ誕生日の袴田教授とロシアにいます。今年もロシア側は心得ていて、飛び切りうまいウォツカと、日露戦争の写真集を2冊(これは日本で翻訳出版されるべき好資料)送ってくれました。同教授の素敵な妹さんであるイリーナ・ハカマダ(先の大統領選挙の立候補者)さんもお祝いに駆けつけてくれた。

    よりにもよって、そんな日に、毎年、こういう議論を繰り返している自分に嫌気がさしては、この議論は負けです。気を奮い立たせて、「若き一徹」を今年もやりました。「4島返還を実現して平和条約を締結し、真の友好・協力関係を樹立する」ことを夢見つつ。




      挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
日露対話の概要 [2006年03月22日(Wed)]




 モスクワでの会議の話に戻ります。

 以前、小欄でお伝えしましたように、1973年から33年も続いている会議です。通算24回目。今回は「“新しい日露関係”日露専門家対話2006」というのが正式名称です。24回全部に関わったのは私一人になりました。次に参加回数の多いのは佐瀬昌盛国際安全保障学会会長です。

   今回は佐瀬教授を団長に、木村汎拓大、袴田茂樹青学大、斎藤元秀杏林大、村井友秀防大の各教授、ジャーナリストの櫻井よしこさん、軍事評論家の江畑謙介さん(と令夫人)、エネルギー問題の専門家である渥美正洋世界平和研主任研究員、河東哲夫日本政策投資銀行主任研究員(前ウズベキスタン大使)、柿沢弘治下外相、石破茂前防衛庁長官(衆院議員)、そして東京財団研究員の吉岡明子さんという顔ぶれです。日本大使館の秋元、倉井両公使がオブザーバーとして参席しました。ロシア側からもおおむね、同格の人々が参加しました。

「世界一の日露語間同時通訳3人組」と私が言っている江口満、柴田友子、吉岡ゆきのお三人も一緒です。

   会議は、17,18の両日、モスクワから北に約30キロほど行った別荘地の中にある「モロゾフスカ」で行なわれました。3階建てのお城のような建物です。

   大富豪モロゾフ(公爵家とは別)の別荘だったところを、今や世界屈指の石油・天然ガス企業となったガスプロムが買い取ってリゾート施設にしたところです。今少し詳しく言いますと、まず、モロゾフ家が建てました。それをボルシェビキが接収し、ゴーリキーをはじめ名だたる左翼系の名士が使ったりしました。大祖国戦争(ロシアで言う第2次世界大戦のこと)ではドイツ軍に接収され、挙句には破壊され、1953年にスターリンによって再建されましたが、「タワリシチ(同志)スターリンは、一度も訪問しないまま、亡くなりました」と、係員の人が説明してくれました。この人は別に政治的な意図があって「タワリシチ」という、今ではほとんど死語になっているロシア語を使っているわけではなく、当時の気分を出したかったのでしょう。

    会議は4つの議題に分けて、進められました。@日露両国とアジア太平洋諸国、そして米、中、東南アジア、A経済・エネルギー対話と日露協力、B地域安全保障にとっての挑戦:北朝鮮、台湾海峡など、C日露両国の発展と二国間関係の意義、です。

    私は、第1議題の共同議長をロシアのニコノフ団長(“統一ロシア”民主基金総裁)と、第4議題の基調報告者を櫻井さんとともに行ないました。

    ご承知のように、日露関係は昨年11月のプーチン来日で、階段を下がりはしませんでしたが、何ら取り立てていうべき発展はありませんでした。ですから、こうした民間レベルのいわゆる「トラック2」の会議で何とか活路をと試みたのですが、容易なことではありませんでした。かろうじて、来年1月に、今度は東京で再会して議論を続けようということで、別れました。

    一昨日帰国したのですが、明朝からまた上海と南京に行き、日曜の夜に戻ります。またしばらく小欄はお休みしますので、せめて、この会議で私が発言した一例をこのあと、ご紹介したいと思います。



     挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
八ヶ岳からの春だより [2006年03月22日(Wed)]




        

 いつも「挿画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております」と書かせていただいている石田先生は、観察力の鋭い、そして詩心豊かな人格者です。「日本剪画協会会長」、弟子の数〇〇人(たぶん千人ぐらいかな?)等というといかにも権威主義者のようですが、そんないかめしい人の対極にいる、気さくでカッコイイ、粋な方です。

 きょうは、八ヶ岳の山麓から、春を感じさせる以下の文章と絵が送られてきました。早速ご紹介しましょう。

 18日夜、我が家に隣接するレストラン△△に食事に行きました。そこで奥さんからシジュウガラの面白い話を聞きました。シジュウガラは時間が分かるんですかね、毎朝6時15分になるとベランダの窓ガラスをびっくりすほど大きな音で叩くんです。また、その部屋に人が居ないと、裏側の台所の窓の所まで飛んで来てガラスを叩いて、顔を見せると何か話しかける様にして、暫く居てから飛び立っていくんです、と。

 以下の文章はレストラン△△のホームページからです。

「コンコン、コンコン窓ガラスを叩く音がある朝突然しました。
 6時を少し過ぎたこんな時間、人がたずねてくるはずないと不思議に思いながら起きてみるとなんとシジュウカラが窓ガラスを叩いています。コンコン、コンコンそして飛び立って行きました。
 その日から毎日、毎日窓ガラスをノックしに何回もきます。
 以前ガラスにぶつかり気絶したシジュウカラがいました。
 手の平の中で頭をなでながらしばらく目が覚めるまで静かにしているとやがて気がつき飛び立って行きました。
 まさかその時のシジュウカラが恩返しに…今頃そんなことネェベェ、鶴じゃあるまいし。
それとも仕返しにきたのだろうか?」
 
 シジュウカラはつがいで来て、必ずメスがガラスを叩くのだそうです。気絶して介抱したのがメスだったのです。メスとオスのシジュウガラの見分け方は、メスの方が体が小さくて胸の黒いネクタイも細いのです。

 以前、朝10時頃拙宅にお見えになった時、トラツグミが木の枝にとまってこちらを見ていて暫く居てから飛び去ったことがありましたね。あのトラツグミも前の日に、ガラス窓に激突して気絶していたのを一晩介抱し、元気に飛び立って行きました。

そして、翌日の朝、飛び立つ時にとまった木の枝と同じ所にとまっていたのです。お礼を云いに来たんだね、とその時、家内がいいました。鳥ばかりでなく生き物は全て感謝することを、心得ているのではないでしょうか。
そんなことを感じて絵にしてみました。




                   「シジュウカラ」の挿画は、石田良介画伯による。
イチローに胸が締め付けられる [2006年03月22日(Wed)]




 




日本にも「野生」が残っていた、その典型がイチローだ、というのが日本のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)優勝で思い、感じたことだ。

 これまでのイチローはよく言えば「孤高の人」であり、悪く言えば「個人主義者」だった。また、「向こう30年、日本には手を出せないとも思わせたい」をはじめとする今大会中の一連の発言や、行動は「強さ」「ひたむきさ」「計算のなさ」であった。

報道によると、今回のイチローには普段とは違った興奮があったのだそうだ。その興奮は、いつもは絶対に出してはいけないと自分に言い聞かせていたであろう、ナショナリズムであったのかもしれない。

「プロ中のプロ」が時に、闘志むき出しの「がむしゃらさ」「夢中」「献身」「for the team」「for my Japan」を出した時の凄さや逞しさを、私は感じた。

 こうしたものは今の日本社会が忘れかけていたのではないか。そんな大切なものをイチローが再現してくれた。その「使命感に燃える姿」に多くの人々が感動したのだ。

その上、祝勝会でシャンパンをかけあいながらイチローが言ったという。「優勝した瞬間、きょうで仲間と別れなければいけないという寂しさも湧いてきた」。

「プロ中のプロ」であるイチローの赤裸々な「人間らしさ」が湧出し、そして、あるいは古来、日本人の持つ独特の美学である「寂しさ」がほろりと出たのか。胸を締め付ける。



剪画は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただいております。
国旗の逆掲揚にご注意を [2006年03月22日(Wed)]




 はっきり書かせていただきます。きょう、東京・白金の都ホテルに行って驚きました。

正面玄関前の7本の国旗掲揚ポールに掲げられている旗のうち、ブルガリアとルーマニの国旗が、共産党支配時代の国旗のままだったのです。

琴欧州の人気で久々に注目されているブルガリアの国旗は白緑赤の横三色旗、ルーマニアの国旗は青黄赤の縦三色旗(チャドの国旗とまったく同じ)なのです。ちなみに、この「横三色旗」「縦三色旗」というのは私の造語ですが、お解かりいただけるかと思います。

共産党支配時代には、ブルガリアの場合は、現在の国旗にライオン、歯車、赤い星、麦からなる紋章が、ルーマニアの場合は森林、油井(ルーマニアは産油国)、赤い星、麦からなる紋章が付いていました。

 ルーマニアで、独裁者チャウシェスク大統領を追放しようとして立ち上がった民衆は、当時の国旗の紋章部分を切り抜いた旗を掲げたのでした。

 ただちに、降納していただきました。私は都ホテルを非難しているのではありません。むしろ、すぐ対応してくださったことを評価しているのです。

 いままでも、帝国ホテル、グランドパレスホテルなどでいろいろありましたが、こんなに素直に行動してくれたのは都ホテルが初めてです。詳しくは、拙著『「日の丸」を科学する』(自由国民社)、『「日の丸」の履歴書』(文藝春秋社)、『国旗で読む世界地図』(光文社新書)などで、折に触れ書きましたので、ご覧いただければいいのですが、国会議事堂でも、実は、英国のエリザベス女王をお迎えするときに「ユニオンジャック」が逆掲揚でしたし、国立競技場でも東京国際マラソンでメインポールのロシア国旗(白青赤の横三色旗)が逆さまでした。先頭を切ってスタジアムから出て行くロシア選手に気の毒でしたが、これでは困るのです。同じ会場で英国とのラグビーの試合があったときも英国旗が逆掲揚でした。





 私はその都度、ご注意、ご指導申し上げますが、都ホテルのように素直に聞き入れてくれることはめったにありませんでした。最終的には全部やり直していただきましたが・・・

 それは第1に、「国旗が変わる」ということが常識ではないからです。「日の丸」が不変(厳密には、1999年の「国旗国歌法」で別の規格だった1870年の「太政官布告第57号」が廃止された)だからです。しかし、実際には、世界の国旗は頻繁に変るのです。

 第2は、英国旗(「ユニオンジャック」)に上下があるというのは、印刷物を見ている限り、なかなか気付きにくいということです。

しかし、一度そのことが頭に入って、街に掲揚されている英国旗をみれば、何枚かに1枚(3,4枚に1枚?)かは、逆さまなのです。

 以上、時差ぼけでなかなか眠れないままに、きょうの出来事に触れてみました。




挿画「初詣」は、石田良介画伯のご厚意で掲載させていただきました。
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