ヴラーダ、ありがとう [2006年02月07日(Tue)]
北方領土返還要求全国大会で初めてロシア人が壇上に上った。ヴラチスラヴァ(ヴラーダ)・テレシコさんという若い女性である。サハリンのホルムスク(旧真岡)で生まれ、日本式に言えば、小学校6年生から高校2年生まで国後(くなしり)島の古釜布(ふるかまっぷ)出過ごした。そこで出会ったのが、日本からの「ビザなし」交流訪問団。ヴラーダは、この人たちともっと交流したいと日本語の勉強を始めた。当時、父親は、「南クリル(国後、色丹両島と歯舞群島)」地区の行政府幹部であり、その後はサハリン州政府の千島担当局長となった。
私との初めての出会いは、1992年6月。彼が訪日した島民代表団の団長であり、私は歓迎会の責任者(4島交流推進全国会議副会長)であった。今、振返っても少々厳しく対応しすぎたと思うほど、正面から返還を求めた。 1994年11月の北海道東方沖地震では国後島にも津波が押し寄せ、海岸の住宅や建造物は、文字通り軒並み、大きな被害を受けた。外務省と北海道庁に働きかけ、私たちは船を3隻連ねて救援物資を運んだ。そのとき、自ら車を運転して私たちを案内してくれたのが彼だった。その後もサハリンや東京で何度も会っている。 そのお嬢さんであるヴラーダは、その後、サハリン教育大学(現サハリン総合大学)に進学、日本語を勉強した。そして日本への留学試験を兼ねたスピーチ・コンテストで全ロシア大会の覇者となり、一ツ橋大學に留学したのだった。今は、東京のコンサルティング会社に勤務している。 ヴラーダの勇気を称えたい。「日露両国の市民交流を活発にしたい。それが日ロ関係発展の道」と発言したが、こうした大会で登壇するというのは、数年前なら考えられなかった。今回のことで、ロシア政府から嫌がらせはもちろんのこと、なんらかのお叱りでもあったら、ロシアは民主主義の国ではないということになろう。 実際、壇上でも彼女は神経質になっていた。さすがに櫻井さん、緞帳が上る前、となりに座ったヴラーダの手を握り締め、「大丈夫。平気よ。落ち着いて」と励ましていた。 ヴラーダにわかってほしかったことは、この大会は「反露運動」ではないということだ。私たちは、日ロ関係の友好と協力が、画期的に発展するためには、北方4島の一括返還が必要なのだということを、ロシアの人たちに知ってほしいのだ。ヴラーダはその架け橋になってほしい。 |