1965年8月、私の韓国初訪問 [2006年02月04日(Sat)]
今日の韓国の経済的発展は目覚しいものがあります。わが不明を恥じます。というのは、1965年8月、私が始めて訪問したとき、「この国の発展は21世紀の課題であろう」と、私は故郷の「秋田魁新報」に堂々と?書いているのです。
夜の10時頃でしたでしょうか、ソウル駅に着きました。一行は、早稲田の大学院生5人と学部生一人(山本武彦・現早稲田大学教授)。駅から15分ほど歩いて宿舎の韓式旅館に向かいました。たちまち小学生と思われる児童に取り囲まれました。「コムサセヨ、コムサセヨ」と迫ってくるのです。私たちは全員初めての韓国(初めての海外)訪問でしたし、韓国語は誰もまったくわかりません。しかたなく、それを一緒に声に出して旅館まで着ました。 「旅館の女将」が、腹を抱えて笑いながら教えてくれました。「コムサセヨはガム買いなさいという意味ですよ」。外国人にこうした行為をすることは禁じられていましたから、子ども達はポケットにチュウインガムを入れたまま、そういって売りつけるのでした。ここでは簡単に子ども達と書きましたが、おそらく全員、ホームレスに違いありません。 当時の韓国は、朝鮮戦争終戦からまだ12年、日韓国交回復はその一ヵ月後であり、日韓関係はまことにデリケートでした。しかし、人々は人情に厚く、私たちはあちこちで歓迎され、名門・梨花女子大学の麗しき女子学生たちとも、すっかり仲良くなりました。尊敬すべき先人や先輩ともたくさんお会いしました。そして、こんなすばらしい人たちの国をよくぞ、36年間も抑え続けることが出来たものよというのが実感でした。 しかし、折から創刊された「中央日報」に引っ張り出された私たちは、韓国の大学院生たちとの紙上討論で、こっぴどい敗北感を味わいました。先方は、この日に備え、選びぬかれた人材を集め、日韓関係史をとく理解していました。それに対して、こちらはいわば不用意に対応したのです。 そして、その後は道を歩くのにも警戒し、6全員めがねをかけ、カメラを持っていたのですが、めがねは二人だけにし、カメラは小さいものを1つだけにしました。日本語を使ったというだけで、逮捕されたといった記事が出ていたときですから、むしろ旅券は女将にあずけて、道で尋ねられたら「母国訪問中の在日僑胞(在日韓国人)です。つくづく、韓国語の勉強が大事だということが分かりました」と答えるほどでした。 しかし、韓国の人たちは、当時も今も、ホンネで徹底した「反日」なのでしょうか。建前だけなのでしょうか。ホンネを懸命あるいは賢明に隠しているのでしょうか。 私にとって韓国はその後30回ほど訪問したくにであり、あまりモノにはなりませんでしたが、その後、韓国語を多少、勉強もしたのです。いつか数えてみましたが、私は82カ国に言っています。しかし、この最初の韓国訪問ほど印象に残っている旅行はなく、爾来、韓国と朝鮮半島のことは常に頭のどこかで強く強く意識しているのです。 |