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「尖閣を日中友好特区に」だって?! [2012年09月30日(Sun)]


ikari[1].jpg



驚きました。きょうの朝日新聞「声」欄に、
「尖閣を日中友好特区に」という投書が載っていました。

今度は韓国が対馬を要求してきたら、
これも友好特区ですか?

さらには、中国が「琉球王国はもともとわが国に
朝貢してきた」と言って来ればこれも
「友好特区」ですか。

さらにさらに「倭奴国」は・・・と言ってきたら、
もうばかばかしくて、その人に
中国にでも帰化されたらとお勧めしたくなります。
世界中を東西南北海にしないのは常識です [2012年07月03日(Tue)]


DSC04286.jpg

     韓国の国花「槿(ムグンファ)」





当たり前のことが周辺諸国からは言いがかりになったり、不愉快のタネになることがある。

ロシアのメドヴェージェフ首相の今日の国後訪問もそうだ。小沢グループので民主党離反でもめている「グッド・タイミング」を狙って、既成事実化を進めようとしている。

1970年までは、米国が演習場として使っていた尖閣諸島の周辺に石油が埋蔵されているらしいとなると自国の領土だといってくる台湾や中国、

1990年代になって50年前の「慰安婦」問題とやらで大騒ぎする韓国、

そんな中でも、日本海を東海と呼べという韓国の要求は、世界の笑いものだろう。

 【ワシントン時事】電は以下の報道をしている。

     ∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋

米ホワイトハウスは3日までに、ホームページ上で、日本海の呼称について「日本列島と朝鮮半島の間にある水域は『日本海』と呼ぶのが長年にわたる米国の方針だ」と、韓国が求める「東海」に変更する考えのないことを表明した。日本人と韓国人のグループからそれぞれ出されていたオバマ政権の見解を求める請願に答えたもの。
 回答は国務省のキャンベル次官補(東アジア・太平洋担当)の名前で示され、「それぞれの海を単一の名称で言及することは米国の長年の方針で、全ての海洋に適用されている」と指摘。同時に、韓国が「東海」の呼称を使っていることに関しては、「米国は韓国にその命名を変更するよう求めてはいない」と一定の理解を示した。
 また、呼称問題について「韓国と日本にとり、重要で慎重に扱うべき問題であることを理解している」と説明。「地域的、世界的な課題に共に対処するため、両国と協力し続ける」と表明した。

     ∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋∈∋

なんとも常識的な回答で、少しは韓国も目を覚ましたらどうか。「日本海を東海にせよ」という主張が通ったら、「東シナ海は(中国の)東海」だし、「カリブ海はメキシコの東海」であり、アメリカは「大西洋はアメリカの東海」「地中海はスペインの東海」になってしまいかねない。

韓国の主張は世界の失笑を買っていることを、どうやったらお分かり頂けるのだろうか。
原爆と千羽鶴 B [2009年08月13日(Thu)]













 米国的な安全保障観からすれば、手間をかけて鶴を折ることは
無駄の極みだろう。しかし、ユダヤ人で虐殺の痛みを共有する
米国の社会学者・デービッド・リースマンにとっては、
折り鶴で平和を祈る切ないまでの思いに
胸打たれたのではないか。

 これは、国弘氏の推測だが、
彼の胸中を言い当てていると私は思う。

 ただ、折り鶴への思いが無駄ではない証左は
いくつもある。

 千羽鶴が平和の象徴となったきっかけは、
病床で鶴を折りながら逝った原爆症の少女の死だった。

 その少女「サダコ」を書いた本は、約30カ国で出版されている。
「ナイーブな理想主義」は、
きょうもどこかで誰かを驚かせているはずだ。

 
 他方、1995(平成7)年7月7日付の読売新聞は、
ニューヨーク郊外のスカースデールの公立図書館で、
広島へ送るための千羽鶴作りが行われたことを報じている。

 それによると、十数年来、
毎年8月6日に町の中心部にある公園で
「ノー モア ヒロシマ」などと書かれたプラカードを掲げて
無言の意思表示を続けて来た平和運動団体が、
原爆投下50周年を記念して企画して、千羽鶴を折ったという。

 当日は日米の住民が一緒に「さだ子と千羽鶴」のアニメを見た後、
お互いに折り方を教えたり学んだりしながら、
交流を深めると同時に、
あらためて原爆について考える時間を持ったのだった。

 折りヅルを作ることが、平和について考えるきっかけになれば
私はそれでいいと思う。しかし、他方、
そえrで平和が来ると過信するほど怖いことはない。

             (つづく)
原爆と千羽鶴 A [2009年08月12日(Wed)]












貞子をモデルにしたこの話は各国語に翻訳され、また、
1999(平成11)年にはNHKスペシャルが
「サダコ ヒロシマの少女と20世紀」の題で放映した。

2002(平成14)年8月10日付毎日新聞で
社会部の小川一記者は、名著「孤独な群衆」で知られ、
この年の5月に死去した米国の社会学者・デービッド・リースマンが
1963年に広島を訪れ、平和記念公園で千羽鶴を見て
強い衝撃を受けたことについて触れている。

リースマンは
「なんとナイーブな理想主義なんだ」 と語ったと、
当時、同行していた同時通訳者・国弘正雄(後の参議院議員)は、
その言葉をよく覚えているというのだ。

小川記者はさらに続ける。
核による大量虐殺の地、広島で、子供たちが
平和を祈りながら鶴を折る。

核を投下した米国では「平和のために」と軍備増強を続ける。

そのアメリカのオバマ大統領が、今年4月、プラハでの演説で、
「原爆を使用した唯一の国として大量破壊兵器全廃の方向を目指す」
と言明したことは、とりあえず歓迎したい。

しかし、たとえ核兵器が全廃されたとしても、
通常兵器においてアメリカは世界に冠たる
圧倒的な力を保有していることは
もっと指摘されていい。    (つづく)
原爆と千羽鶴 @ [2009年08月12日(Wed)]








8月は日本人のほとんどが戦争を考え、原爆を思う。

そして平和を願うのだが、私はどうにも、日本人が
いささか、理想主義的に平和を叫んだり、
平和と言えば、あるいは平和は祈りさえすれば来るはずだと
思いこみすぎてはいないかと気にかかる。

2003(平成5)年8月1日朝、広島平和公園の一角に
保存されている千羽鶴4〜5万羽が立命館大学の学生による放火で
燃えてしまった。

この事件はさまざまな意味で各方面に衝撃を与えた。

私にはその後解明されたであろう動機はわからないが、
少なくとも、多くの人々の怒りを呼び起こし、
他方、あの千羽鶴運動って何なんだろうと
振り返るきっかけを与えたようだ。

広島に千羽鶴を送る運動は、広島市役所の担当課によれば
「1950年代から始まった」が、
広島の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子の話が
広まるにつれ、一層、盛んになった。

1958年に完成した広島平和公園の「原爆の子の像」は、
貞子をモデルにしたものだ。禎子は、2歳の時に、
爆心地の北約2キロメートルの広島市三篠町の自宅で、被爆し、
1955年2月、亜急性リンパ腺白血病と診断され、
広島赤十字病院に入院した。

「鶴を千羽折ればきっと病気は治る…」と入院中の禎子は
同年5月から、薬包紙や見舞い品の包装紙で、
鶴を折り始めた。しかし、644枚を折りあげたところで力尽き、
同年10月25日に亡くなった。わずか12歳の生涯だった。

残る356枚は同級生によって折り挙げられたという。千羽の鶴は
貞子と一緒に埋葬された。    (つづく)
日本からの発信 [2008年01月08日(Tue)]









「良書の英訳 国は本腰を」という題で、
こんな嬉しい記事が読売新聞(1月7日付)に出ていた。

 お世話になっている日本財団が褒められているからではない。こんないい事業をするということが嬉しいのだ。

 日本からの発信は「国是」である。これを怠ってきたから、日本は軽視されるのだ。歌舞伎や文楽、茶道や華道も大事だが、なんといっても、日本人とは何か、どういう考えの人間かを知らしめなくてどうする、と小欄ではかねて主張してきた。

 及ばずながら、ユーラシア21研究所ではロシア語による発信を続けている。ロシアだけではない。世界中で読んでくれている。

「ロシアの外交政策や安全保障政策を決めるポストに、日本語を理解できるものは一人もいない。その良し悪しは論じてもしょうがない。これは現実なのだ。対日政策についてもおいておや。ロシア語で発信してみたまえ。初めてコミュニケーションができるんだよ。影響力が生まれるんだよ」。

 こう言ってこの事業を勧めたのは、故アレクサンドル・ヤコブレフ元ソ連国家顧問(ゴルバチョフ時代のナンバー2)。その示唆で事業を進めたのは笹川陽平現日本財団会長。

 これをヒントに、きっかけに、日本全体で、「発信」をしようじゃないか。

 私のmother tongueは「秋田弁」。標準語(共通語)は第1外国語だ。しかし、この第1外国語を理解し、話せなくては、日本の孤児。明治25(1892)年生まれの、ロクに学校にも行っていない田舎の親父は、わが子に「東京の人より東京弁をしゃべれるようになれ。東京の人より東京の街に詳しくなれ」といって、秋田にいたときに都電の停留所名を全部、覚えさせられた。今でも、かなり覚えている。

 もし、私が秋田弁しかできなかったら、小欄も成り立たなかった。日本が、今、世界中で「秋田弁」しか使っていないのではないかと恐れる。

 この事業が呼び水になって、政府も強力な発信に尽力するようになることを期待する。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 日本財団は先月、現代日本を世界に知ってもらうため、日本に関する優れた英文図書100冊を選定、希望のあった図書を米国の図書館などに寄贈する事業を始めると記者発表した。

壮挙といっていい。

 だが、ビル・エモット氏の『日はまた沈む』、ジョン・ダワー氏の『敗北を抱きしめて』など、日本でもおなじみの本が並ぶリストを眺めていて気になったことがある。日本人の本は全体の約3分の1どまりなのだ。

 理由は明らかだろう。

 事業の趣旨からいって英訳のない本は選定しようがない。

 象徴的なのが社会・文化ジャンル。13冊中、日本人の単著は3冊だが、このうち新渡戸稲造『武士道』、岡倉天心『東洋の理想』はもともと英語で書かれたもの。日本語から訳されたのは土居健郎氏の『「甘え」の構造』1冊だけだった。

 こうした点については選定委員の
白石隆・政策研究大学院大副学長も会見で触れ、事業の一環で今後は日本語の良書の翻訳にも取り組みたい、と語った。

 だが、民間の財団にはあまりに重い課題。「クール・ジャパン」を本気で世界に売り込むなら、このあたりで国を挙げた戦略的な取り組みが欲しい、と思う。


台湾側の報道ぶり [2007年05月30日(Wed)]





 与那国で撮影したハイビスカス






 与那国と花蓮はわずか111キロ(都心と御殿場の距離)しかはなれていない。町長の一行は、<与那国→那覇→台北→花蓮>と1100キロも飛んで、現地入りした。





 日本の最西端・与那国島(与那国町)と台湾の花蓮市とが姉妹都市を発展させ、ついに与那国側が花蓮に事務所を開設するまでに至ったことについて、台湾側がどうとらえているか、気にしていたところ、関係筋から、台湾中央電臺(台湾中央放送局)が5月29日に放送した内容が入ってきた。これをご紹介したい。


   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

日本の与那国町長は花蓮を拠点とし、
「琉球王国」の精神を発揮し、国際社会に希望を抱く。


 日本の与那国町が花蓮市役所に設立した連絡事務所が、本日正式にオープンした。町長の外間守吉は最近、日本国内で日本の行政管轄から独立し、自主的に当地の経済貿易を発展させたいという類の発言をしたが、本日彼は開所式のなかで花蓮市を「国際経済を開拓する拠点」としたいと強調した。

 彼は発言の中で必ず「琉球王国」と述べており、政治味は十分だ。

 琉球群島に位置する日本与那国町の町長外間守吉は、中央政府が当地の発展を制限するばかりで、十分な予算配分がないことに耐えられなくなったと見て、花蓮市役所と相互に事務所を開設する機会を利用して、日本国内で独立発展をしたいというような発言を発表し、日本国内で注目されてきた。

 彼はまた、事務所の開所式を利用して、翻訳文を通じ、琉球王国精神の理念を発表。花蓮市を拠点とし、国際社会に希望を抱き、花蓮市長蔡啓塔とともに、25年間結んできた兄弟精神を発揮し、何とか与那国が外交ボトルネックを突破して、両地域の産業経済交流を促進したいとのべた。

 外間守吉の花連訪問には当地の多くの記者が取材に来た。この政治ニュースを日本国内にフィードバックする意味は、非常に深いものがあるだろう。


     ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 また、花蓮の更生日報は5月30日付で次のように報道している。

     ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★


与那国町花連事務所開所

日本と花連の姉妹都市締結25周年に交流を拡大する。
花連市との姉妹都市関係締結が25周年にも及び、友好関係をこれまで維持している日本の与那国町は、昨日町長の外間守吉が5人の議員を率いて花連に到着、新設された連絡事務所の開所式を行い、さらに両市の交流を拡大する。

●6町議員中5名が来訪

与那国町はこの開所式をきわめて重視、町内のわずか6名の議員のうち、昨日来訪したのは5名だった。

議長の崎原孫吉、副議長前西原武三、議員小嶺博泉、糸數健一、嵩西茂則、崎原用孝らが全て特別に花連に到着した。

●町長は気力十分

市長の蔡啓塔によると、花蓮市と与那国町の距離はとても近く、両市の間の距離はわずか110海里であり、逆に与那国と日本の首都東京は2000キロ離れている。

地縁的関係から、両市は姉妹都市関係締結後、各種の交流を頻繁に維持してきており、花蓮市も与那国との交通、経済、産業など各方面の交流を強化して、さらに花蓮の観光やその他の産業が沖縄県に広まり、最後には日本の各大都市に進むことを希望している。

蔡啓塔によれば、彼は外間町長の気力にとても敬服しており、上に対して法律的ボトルネックを突破して、町内の観光や外交について十分な突破を行ったとしている。

台湾船の与那国入港 [2007年05月01日(Tue)]












 与那国民芸館には台湾の品物が数多く展示されている。
与那国の語り部ともいうべき池間苗さんは、まず台湾臼から
見せてくださった。







 与那国と台湾はしばしば台風に襲われる。
これは2006年9月に大きな被害をもたらした台風13号が
同地方に襲来したときの天気図。





   与那国町が求める「クリアランス船」の
入港というのは、台湾や中国の船舶が、この地に立ち寄って
税関上のOK(クリアランス)を得る船のことである。
直接交易の出来ない「両国」の事情に、地元が協力しよう
という話なのだ。

  昨年はこのクリアランス船が、与那国よりさらに東に
127キロも離れた石垣港に5,600隻も立ち寄っている。
「こうした船の数があまりに多くて、航行や操業の安全、
自然破壊が心配だ」とは、私自身、石垣島で漁業関係
者から聞いた話だ。

 「そのせめて10%が与那国港経由になってほしいの
です」と外間町長や田里氏は言う。
「与那国は台湾からの距離で石垣より127キロも近い
のです。ですから、運航業者にとって、日数やコストの面で
断然、トクするはずです」。

  それが簡単に出来ないのは、与那国港が「不開港」、
つまり外国船に開かれた港ではないからなのである。
 
  そこで、町では行革が進捗する中でなんとかして
「交流特区」になることができないかと、内閣府を通じて
2度にわたり申請した。しかし、国の権限を譲るわけには
行かないということから、結果は「ノー」、却下された。

  それでも、この折衝を通じ、与那国町は事実上、
「実」を得ることが出来た。

「税関において取り締まり嬢支障がないと認める場合
においては、現行制度においても直接入港することが
可能であることから、クリアランス船側から具体的な
出入港の要請が(事前に)あれば管轄する税関に相談する
ようにしていただきたい」旨の回答を文書で得ることが
出来たのである。

  税関の見通しは立ったが、検疫ができない。
このため、衛生上、国際的に基準が達成されている
国として認められている台湾発の船しか、与那国を
経由できない。これはまた台湾の運航業者にとっては
メリットになる。

「本町としては、入港実績を積み上げ、国境離島型の
新たな開港を目指し、台湾への表玄関になりたい」。
町ではこうした希望を持って街づくりに挑戦している。

  花蓮市との間に、「防災協力協定」を結ぶ話も
進行中だ。

  国境の町が、それゆえのメリットを回復することを
祈念したい。
「離島苦(しまちゃび)」を克服し、「平和な国境と近隣
諸国との友好関係に寄与する国境の島守」(与那国町議会
2005年4月5日付「自立・自治宣言」)になってほしい。
ラオスという国 A [2007年03月01日(Thu)]




 現在のラオス人民民主共和国の国旗。
 メコン川の岸辺に立つ筆者の写真も撮影したが、都合により、明日以降に掲載する。




 ラオスはかつて王政の国であった。国旗は赤地に白で3頭の像を描いたものを掲げていた。

 1975年4月30日のサイゴン陥落でベトナム戦争が終わり、ラオスでは同年12月2日、王政から、人民革命党の一党独裁制となり、今日に至っている。

 ラオスではわずか10年後の1986年、市場経済化や外国からの投資を歓迎する政策に変わり、一見して社会主義国家であることを忘れさせる雰囲気である。

 しかし、未だにマルクス・レーニン主義を前面に掲げているのは、世界広しといえども、北朝鮮、キューバとラオスぐらいのものである。私にいわせれば、中国やベトナムはタテマエはともかく、もはや「自由なき資本主義」国家である。

 報道、結社、言論などは厳しい統制下にあり、民主主義の基本である政治的自由がいっさいない。

 テレビはほとんど党や政府の宣伝番組ばかりだそうだ。そこで、人々はタイの放送を見聞きする。いかんせん、首都ヴィエンチャンではメコン川をさはんで、手の届くようなところにタイの中堅都市ノンカイがある。

 タイとの国境はその大部分が、このメコン川である。19世紀後半にフランスが植民地化したときに川を天然国境にしたからだ。

 1970年代、夜陰にまぎれてこの川を泳いでわたり、多くの人々がタイ領に逃れ、日本に定住した人も千数百人人近くいる。

 泳ぎの苦手なアイタイ氏もその一人。自動車のタイヤを浮き輪の代わりにして逃げたところ、銃撃にあってタイヤが破れ、空気を入れながら向こう岸にたどり着いたと語ってくれたことがある。

 人民革命党の時代になっても、小乗仏教への信仰は厚く、いまでも、街中で黄色の僧衣をまとった托鉢僧を見ることが出来る。このあたりは一党独裁をしいた他の共産諸国とは違う点だ。

 ややこしいのはこの国と主要国や周辺国との関係だ。それについては次回に触れる。


やたがらす考 B [2007年02月21日(Wed)]






「やたがらす」に関する平野浩氏の論をさらに続けさせていただきます。

  ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆


「八咫烏/ヤタガラス」の「咫」はヘンな字ですね。「尺」に「只」という字をつけます。1尺は「寸」の約10倍でセンチに直すと約30センチです。「1咫」は、手のひらの下端から先端までの長さで4寸――約18センチ、「8咫」ですからこれを8倍すると144センチ、ほぼ1.5メートルですから、ヤタガラスはかなり大きなカラスということになります。カラスは全身が黒、イメージは闇です。何となくうさんくさいイメージです。しかし、神話の世界では光、太陽のイメージなのです。ギリシャ神話でのカラスは太陽神アポロンの使いであり、英国のワタリガラスは王家の紋章です。

 神武天皇の東征の神話の話は、これとそっくりの話があるのです。それは『ブルターク英雄伝』に書かれているアレキサンダー大王にまつわるカラスの伝説なのです。アレキサンダーは紀元前4世紀にマケドニアの王子として生まれ、25歳にして世界帝国の王として君臨した人です。アレキサンダー大王も東方遠征をしているのです。紀元前334年、イッソスの戦いに勝利したアレキサンダー大王は、そのまま地中沿いに南下し、エジプトに侵入し、プトレマイオス朝を征服して自らファラオになることを決意します。ファラオは太陽神アモンの子供であることを意味します。

 しかし、ファラオになるには、シバのアモンの神殿で託宣を受けなければならないのです。そこで、アレキサンダーは、リビア砂漠のオアシスにあるシバに向けて出発します。 しかし、アレキサンダーの一行は、すさまじい砂嵐に巻き込まれて、道を見失ってしまうのです。このあたりの砂嵐は有名で、1965年にアレキサンダー大王の行程をたどろうとしたドイツの探検家5人が死亡しているのです。もはやだめかと思われたとき、天空から一羽のカラスが現れて先頭を飛び始めるのです。アレキサンダーは、藁をも掴む思いでカラスの飛んでいく方向に進んでいくと、目指すシバのオアシスにたどりつき、託宣を受けて、ファラオに即位したのです。

 これは、神武天皇の神話とそっくりです。天照大神とアモンはともに太陽神ですし、神武天皇とアレキサンダーはともに大王であり、ともに東方遠征をして道に迷い、カラスに救われる――本当にそっくりです。これだけではないのです。神武天皇の神話とアレキサンダーの伝説は驚くほど酷似しているのです。神武天皇が宇陀にやってきたときのことです。敵地の土でお神酒を入れる瓶を作って神々を祀れば、敵が降伏するという夢を見たというのです。神武天皇はこれにしたがい、配下に敵地の土を持ってこさせ、その土で瓶を作ってお神酒を入れて神々を祀ったところ、敵が降伏してきたというのです。

 これとそっくりな話がアルメニアの伝説にあります。アレキサンダー大王は、ペルシャとの戦いの前日、神武天皇と同様の夢を見るのです。アレキサンダー大王自身が敵地に侵入し、土を持ってきて酒杯を作ったところ、ペルシャ軍に勝ったというのです。これはもちろんアレキサンダーの話が先にあって、その話がペルシャからインド、東南アジア、中国、朝鮮を経由して日本に入ってきていると考えられます。
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