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姪の結婚式で大阪へ [2010年07月18日(Sun)]


 
       正くん、智子さん、おめでとう!


























 4年前に白血病で亡くなった
兄・忠晴の次女の結婚式に父親代わりとして
出席した。

 ヴァージンロードを新婦と進むのは
悪い気分ではないが、何となく照れ臭い。

 大阪の太閤閣というところは
東京で言うと椿山荘か八芳苑のような
雰囲気のところで、聞けば、
大正3年に藤田傳三郎男爵の邸宅として建てられた
ところなのだとか。

 チャペルでの式は
牧師、聖歌隊、バイオリンニストすべてが
いわゆる結婚業社のタレントさんとは違う
「ホンモノ」で入念な進行だったのがうれしい。

「いつくしみ深き・・・」の讃美歌では
私も思わず本気でハモってしまった。

 披露宴も招待客は親戚のみで
少数だったし、その全員がスピーチしたのがよかった。

新婦がお色直しをせず、
しっかり話を聞くというのは感心だ。

 ケーキカットし、互いに食べさせるという趣向は、
初めてだった。

 大安、三連休の初日、梅雨明け・・・といいこと続きで、
遠くはバンクーバー、仙台、鹿児島から駆けつけた人たちも
満足し、二人の幸せを、心から祈った。

 姪は私と違ってスポーツ選手。女子レスリングの
パリでの世界ジュニア選手権で
銅メダルを取ったほど。その気力、体力を
活かして、今は介護の仕事をしている。

「介護はレスリングよりしんどい。腰を保護するベルトをし、
なんとか頑張っています」というのは頼もしい。

 ひたすら、永遠の幸せを祈る。
本家の甥が亡くなりました [2009年06月07日(Sun)]








私儀で恐縮ですが、
今度は血縁者が急逝しました。

6月7日(土)の夜、
吹浦忠克(ただかつ)が亡くなったのです。

私の長兄・忠男の長男、甥とは言え、
本家の当主に当たる人(72歳)です。

急なもので、週明けの日程が動かせず、
とにかく日曜の朝、納棺に間に合わせて秋田に飛び、
新幹線ででも日帰りで帰京すべく、努めます。

卓球やスキーの選手で、市役所勤めをしていた人です。

我が家は、みな、吹浦忠○という名前を継承していますので、
○の部分が、治、男、橘、忠のみ、晴、正、克、充という具合に
なるのです。

日曜は都内でいくつかの行事に参加する予定でしたが、
「予定は未定にして決定にあらず」で、
関係のみなさまにはご迷惑をおかけしますが、
お線香をあげてきます。

末っ子の私ですので、兄弟や近い親戚との離別は
いつも送る側になりますが、
子供の時から遊んでいた縁者たちとも、
こういう時にしか顔を合わせることのできないのが残念です。

しかも、その数が
次々に減ってゆくのがなんとも寂しいことです。
              合掌
開花宣言 in 東京 [2009年03月22日(Sun)]







3月21日、気象庁は靖国神社境内のソメイヨシノ標準木に10輪以上の
花が咲いたとして「開花宣言」。

 3月初めに25日と予測、最近まで22日と訂正したままで1日はずれ。
「これなら私にでもできる」と1億「気象予報士」の気分。


 写真は同じ21日夕方、目黒区内のサクラ並木で撮影したもの。










   目黒区と世田谷区の境にある駒沢公園では、ツツジが1輪
  狂い咲き?していた。












   ボケ(木瓜)という花もなかなかきれいですよね。
  どうしてこんな名前になったんでしょうか。

 














読み聞かせの催眠術 [2008年09月01日(Mon)]






 わが生家。中央の家。秋田市土手長町34番地(当時)。
秋田の版画家・勝平得之の「旭川暮色」より。











 父・吹浦忠治(1892〜1965)









 母・タエ(1902〜1979)









   兄・忠晴(1938〜2006)と、筆者、母。
1942,3年ころ、秋田市での撮影。






きょうは「防災記念日」。日ごろ、油断しがちではあるが、
この日だけ?は私でも、「イザ」を考える。

それはさておき、
わが生家ではこの日は特別に2つの意味のある日であった。

1つは、
1902(明治35)年生まれの母の誕生日であり、
今ひとつは、1923(大正12)年の関東大震災のとき、
父が東京でラシャの布地を倉庫2つ分買い入れ、
それが奇跡的に無事どころか、
暴騰していっぺんに「人生の幸せ」がやってきた日なのである。

「取引が終わって布地も全部倉庫に納め、
親戚の吹浦鶴治(帽子屋)を連れて、
深川の天麩羅屋で天丼を食べ始めた瞬間、
ドドーンというもの凄い音がして、
瓦がザザァーッと降ってきた。

それから妹の嫁ぎ先である東渋谷まで、
とにかく歩いて、次第に大きな被害がはっきりしてきたときには、
借金して仕入れたあのラシャが全部燃え、
路頭に迷う自分しか見えてこなかった。それが全部残って・・・」

という話は、老境に入った父と杯を交わしながら、
何度聞かされたことか。

話がかわるが、
私は朗読が大好きである。

子や孫に読み聞かせるのは得意(のつもり)である。但し、
「あんな読み方をしては、眠くならないので困る」という
意見(偏見)も家族(の一部)になしとしない。

それは、自分自身の幼少時を思い出し、
「いい気分」になるからかも、と最近になって気付いた。

わが母は、
実に徹底して、
今で言う「読み聞かせ」をしてくれた。

1941(昭和16)年3月生まれの私であるから、
「読み聞かせ」をしてくれたのは、ほとんど戦中であり、
敗戦直後のはずだ。日本の童話や民話、
あるいは神話やイソップ物語もあったように思う。

「読み聞かせ」の最後に、
「さあ、おしまい。トッピンパラリノプー」
となるのであった。

この「トッピンパラリノプー」が曲せ者で、
後年、母や兄の言うところによれば、
これで私は催眠術にかかったかのように眠ったようである。

ところで、この「トッピンパラリノプー」、
私には「出典」がわからない。何人かの人に聞いたが、
みな唖然とするだけで、他に知っている人と出会ったことがない。

まさか我が家専用の言葉ではあるまいに、
どなたかご存知でしたらお教えいただきたいのですが・・・。
末っ子はトク [2008年06月29日(Sun)]










 末っ子とは辛いものです。もちろんトクなこともたくさんありますが、何をしても親や兄には勝てないのです。

 からだをまともに使う相撲はいうまでもなく、スポーツ全般、歯が立たないのです。

 加えて、わが家は私以外はみな、国体や全国レベルの公式戦に卓球、軟式(ソフト)テニスなどで何度も出場しています。83歳の3兄も往年の名選手、いまでも毎週、卓球をやってるそうです。

 姪は女子レスリングのパリでの試合で胴メダル、甥の家系には現役の卓球選手がいて、昨年の法事のときでしたか、中国での試合に言ってるから欠席という返事が来ていました。

 そんな中で、私は「百人一首」なら、体力より記憶力や瞬発力だと心得、小学校3、4年生のころには、かなり凝ったことがあります。

 ただ、母は、御園妙子という名前で、NHK秋田放送局の短歌の選者をやっておりましたし、「百人一首」についても別格で、もっぱら読み手でした。

 それでも、兄貴たちに勝てませんでした。ほとんど2,3枚しかとれないくらい時さえありました。今から思えば、恋の歌が断然多い「百人一首」で、小学生のガキがはりきったのがおかしかったのかもしれません。それでも、お悔しかったです。

 そこで、泣いて母にコツを教えてくれと頼みました。

「一字札の7枚は、<むすめふさほせ>で始まるもの。

これは最初にみんなが目をつけているからあなたにはムリ。

二文字で決まる札は<うつしもゆ>の5つの文字からはじまる<うか、うら、つき、つく、しの、しら、もも、もろ、ゆふ、ゆら>、これは10枚。

 ここまでの17枚はまず大人が取るでしょう。

 すると、あとは、いっそ、有名ではない和歌にめをつけてはどうか。

 例えば、<み>で始まる5枚札。<み>から始まって二字決まりが3枚と、
三字決まりが2枚あります。つまり<みせ、みち、みよ、みかき、みかの>です」。

 かくして私は恋の歌も、1枚札2枚札もあきらめ、

 み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
    ふるさと寒く 衣うつなり   (参議雅経)

という小学生にとっては、およそ感興をわかせることの出来ない札1枚に、
今思出だしてもあきれるくらいの情熱をこめて、
これだけは初句が終わらぬうちにどこにあっても、
必ずはじき出していました。

 高校生になって、この作者が「古今集」選者になるほどの歌人だったことを
知り、わがことのように嬉しくなったことがあります。

 いまはもう「百人一首」をする機会はなくなりましたが、
逆に、この歌の深みも少しは分かってきたような気がするのです。

 この歌は坂上是則の
 
  み吉野の山の白雪つもるらし
    ふるさと寒くなりまさるなり

を本歌としている、いわゆる「本歌取り」の短歌です。

 しかし、是則が冬を歌っているのに対し、雅経はこれを秋の歌に転じ、
これからいよいよ冬を迎える、さらに厳しくなるというさまを、
しっかりと歌いこんでいるといえるのではないでしょうか。

 衣をうつ音は、砧(きぬた)、すなわち、
衣を小槌で打って艶を出したり柔らかくしたりする、静寂さをやぶりながらも、
一抹の寂しさ、詩情を駆りたてるものだったのではないでしょうか。

 長安 一片の月
 万戸 衣を打つの声
 秋風 吹いて尽きず
 総べて是れ 玉関の情
 何日(いつの日)か 胡虜を平げて
 良人 遠征を罷めん

 この李白の詩もたしか、受験時代だったかと思いますが、
これをを知ったとき、
日中の詩情の近さ、日本人の感性の淵源はこの辺りにあるのだと、
納得したものでした。

 あれから半世紀を過ぎて、いまなお、
時に「百人一首」を思い出して、
ふと気付くことがたまにあります。

「万葉集」いいですが、定家の百種選びもなかなかのものと、
感心したり、疑問に思ったりすることがあります。

 そしてきっと、日本人は千年もそんなことを感じながら
文化を継承してきたのだろうなと、誇りを感じます。

 そんな思いを私が今も抱けるということは、
 やはり、末っ子はトクなのかもしれません。
父の日 [2008年06月02日(Mon)]









父の日を前に、福井県の中学生が、
こんなすばらしい「作品」を描いているのを知りました。

「うち」というのは、福井地方で「私」のことだそうです。

いい親子ですね。
幸せ感がこの1枚に表現されていて、
父の日を忘れている私にまで、幸せが伝わってきます。

お父さんは嬉しいやら、照れくさいやらで、
きっとこれを「永久保存」するでしょうね。拍手!!
父と息子 [2008年05月13日(Tue)]







挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。






友人がご尊父をなくされた。
悲しみはいかばかりなものか。合掌。

父と娘、母と息子という関係は特別なものがあると思うが、
父と息子、母と娘という関係も、
時に、ある種の緊張感をもって、強い絆を確認させられる。

父は息子にとって、価値観の師であり、時にライバルである。
私の場合も、
わが身を省みるのに、一番手近な存在だった。

その友人から、こんなメールが来た。

友人の父親の逝去に、厳粛な気持ちで
自分、親、人生、世代・・・を考えさせられた。

//☆//☆///☆/★\\\\☆\\\\☆

今日は
御丁寧に父への御香典を頂戴し
有難うございます。

父が見ているとすれば
(安易に口を開いたりして)
他人様に御迷惑をお掛けするのは
出来るだけ、避けること、
しかし
他人様が折角お示し下さった御厚意は有りがたくお受けし
その時が来たならば恩返しするようにしなさい、
と言ったことでしょう。

一人前の大人になっても
父の死は父の死であるのを
感じます。

父は
「人様をお世話できることは有りがたいことだ。
金は天下の回り物、
使うことが出来るのは幸運なことだが
金がないからといってうなだれる必要はない。

金がなくても
人様のお役に立てることは沢山ある」
とよく言っていました。

父は、戦争で片足を失っていました。
その父も晩年は
「両足があれば
もっと歩いて、人様のお役に立てたのに
今は逆に
人の世話にならなければならない」
と残念がっていたのを
思い出します。

自分の父ながら
あの心境にまだ遠い自分の狭さ、小ささを感じてしまいます。

父を失うとは
不思議なものだと
つくづく考えてしまいます。
2007年 I [2007年12月30日(Sun)]







 純粋に個人的には、2007年は姉・初枝を亡くしたことが忘れられない。享年88歳。

 父にとって唯一の娘だったわけで、交通の不便な時代に秋田から岩手県に嫁がせたのはずいぶん心もとなかったようだが、本人は、生涯、元気いっぱい。小さいながらも家業である製材業を引っ張り、さまざまな社会活動に従事した。

 2月、安田祥子・由紀さおり姉妹のチャリティ・コンサートにはりきって上京し、翌日は歌舞伎に案内した。それが、夏には・・・と思うと人の運命はわからない。

 もちろん家族に慶事もいろいろあった。結婚、子供の誕生etc.である。

 今年は久々に、結婚式に出た数が葬儀より多かった年だったのはうれしい。

 来年も内外情勢はまことに多端が予想される。コソヴォの独立、ネパールの王政廃止、台湾、ロシア、そしてアメリカの選挙に注目しなくてはなるまい。

 北京オリンピックもさまざまな余波を生むだろう。まさか「そのさなかに台湾が独立宣言」などという噂は何の根拠もなかろうが、なにが起こるかわからない1年になりそうだ。

 日本では、全体的な右下がりのなかで格差がさらに広がり、政治の停滞の末、解散・総選挙など政治分野で波乱がありそうだ。

 諸兄姉の一層のご健勝を祈念し、さらなるご指導をお願いする次第である。
姉・初枝の死 [2007年08月12日(Sun)]















 8月7日、姉・伊藤初枝が亡くなった。享年89歳。

 私は6人兄姉。初枝は秋田生まれ。父・忠治にとって、最初の娘であり、その後に雪枝を得たが、乳児期に亡くなったというので、初枝はいわば一人娘として育てられた。秋田女学校(現・秋田県立北高校)を卒業後、ほどなくして盛岡の秋田製材所に嫁いだ。

 大変な達筆で、私など「どうやら叱られているらしいんだが、よく解らない」などとぼやいてきたが、さすがに、わが父は、嬉しくてたまらなかったようで、満面の笑みとともに、いつもすらすら読んでいた。

 初枝は「幸か不幸か」オヤジそっくりの顔つきと勝気の性格で、いわゆる「男勝り」(差別用語でしたらごめんなさい。他に表現すべき語彙を持ち合わせず。)は生来のもの。

 夫・啓之助を20年余り前に喪ってからの初枝は、秋田製材所の社長として会社と一家を切りもりし、外材の攻勢に耐え抜きながら、地元・雫石町商工会の役員としても応分の活躍をしていた。

 すこぶる元気で、今年2月には、難民を助ける会主催の「由紀さおり・安田祥子チャリティ・コンサート」には、友人とともにサントリーホールまで来てくれた。以前のコンサートの際、私から皇后様に「姉です」とご紹介させて戴いたとき、お言葉をかけていただいた感激が、生涯の感動だったと何度も話していた。

 一泊して翌日は歌舞伎に連れて行った。それがその約ひと月後、脳梗塞を誘発したのでなければ私は胸を撫で下ろせるのだが、はっきりしない。

 笹川陽平日本財団会長をはじめ、政財学界などさまざまな方々から弔意をお示しいただいたことに、頭が下がる。
 
今は姉の冥福と遺族が気を落とさないことを祈るのみである。
                          合掌


2007年夏G [2007年08月06日(Mon)]

「手抜きブログ」というなかれ。

 およそ季節に鈍感だった男が、
いい歳をして、6,7年前からにわかに昆虫や鳥や動植物に
関心を持ち始め、カメラを離せなくなったのです。

 人間、この年でも成長するのです。否、したいのです。

 身近なものを撮しているだけなのに、
南米からと東ヨーロッパに駐在している
日本の大使おふたりから、先週、相次いで、
「目の覚めるような写真に“日本”を感じています」
というお世辞メールと、
「文章ががなく写真だけならもっといい。
名前を付けてくれればさらにいい」
というさえ渡った、暑中見舞いはがきが着きました。

 こういうのに弱い私は、図に乗って、
さらに散歩に出かけるのです。

 お付き合いを・・・。

























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