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一兵士の愚行が [2012年04月20日(Fri)]



life1.jpg






平時でも人間はいろいろ愚行を犯す。
ゆえに人間だとさえいえるのかもしれない。

それにしても、ほんの一人のお粗末さが
大きな問題に発展することもしばしばある。

この衝撃的な写真は戦時中、米誌「LIFE」に掲載され、
日本軍の捕虜取り扱いの残酷さとともに、後方に
それを見て笑っている兵がいることが大きな問題となった。
場所はニューギニア、殺害されたのはオーストラリアの飛行兵だった捕虜。

ところが、4月19日の産経新聞の報道によれば、
<米紙ロサンゼルス・タイムズ『電子版』は18日、
アフガニスタン駐留米兵らが
2010年に自爆した武装勢力メンバーの遺体のそばで
笑顔をみせるなどした写真を撮影していたと報じた。
今年1月には海兵隊員がタリバン兵とみられる遺体に
小便をかける映像がインターネットに流出。
2月には基地内でコーラン焼却事件があり、
3月には民間人17人が犠牲になった銃乱射事件が起きたばかりで、
アフガン国民の駐留米兵への反発が一層強まる可能性がある>。

こういうことが、70年も経ってまだ起こっていることが悲しい。
熊谷直実の話が、おそらく今のNHK大河ドラマ
「平 清盛」にもでてくるのであろうが、
人類は進歩しているのだろうかと、情けなくなる。

日本人は緊張する場面で微笑するという傾向があると、
一般論を言った心理学者がいる。
それはとんだ誤解を外国人には与えてしまうことになる危険性が
あるということを、お互いに注意したいものだ。
AK47、ロシアも購入停止へ [2011年11月07日(Mon)]


カラシニコフ(AK47)を描いたモザンビークの国旗







「カラシニコフに装備現代化の波
 ロシア軍、購入取りやめ」、
 AK47の話です。カラシニコフ氏の発明した
世界で一番普及している小銃の話です。

 AKB48の話ではないのです。念のため。

 ロシア軍は戦後スグに開発された
そのカラシニコフの購入を止めたそうです。

 きょうの朝日新聞の報道にでています。

 この銃はすごい機能ですよね。

私が国際赤十字の駐在代表として
ベトナム戦争に「従軍」していたとき、
米軍の将校が「オレたちのM16はダメだよ。
雨が降れば全然、働きが違っちゃうんだ」と
嘆いていたのを思い出します。

 兵士たちは、敵兵を倒すとAK47を奪って、
それを自分の銃にしてしまっていました。

 7つくらいの部品しかないという
簡単な構造で、水に浸かっても平気なのです。

 発明したカラシニコフ氏は、
ロシアのエカテリンブルクで
今も健在なようで、
なんともある種の感慨を禁じえませんが、
この銃は、もしかして戦争の歴史を変え、
世界史を換えたともいえそうです。

小型武器を描いている国旗は結構ありますが、
モザンビークにいたってはそのAK47が
ズバリ登場するのです。

さすがにいろいろ改良されましたが、
とにかく世界中にありあまっている武器です。

ロシアが購入を止めたとはいえ、
この小型武器は世界中でしっかりと
管理されなくてはいけません。


  ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆ 

 旧ソ連で開発され、
長年世界の紛争地などで使われてきた
カラシニコフ自動小銃(AK)について、
ロシア国防省は性能が
時代遅れになったことなどを理由に
購入を取りやめた。

政権が掲げる「現代化」を
軍の装備でも進めるためだ。

 旧ソ連時代に
ミハイル・カラシニコフ氏(91)が設計した
AK47は、
1949年から軍に採用された。

耐久性と使いやすさから
世界中に普及し、
ライセンスなしで模倣品が
つくられるケースも相次いでいる。

 ロシア紙イズベスチヤによると、
国防省はすでに今年からAK47の
後継型のAK74の購入を中止。

来年、再来年も購入の
見込みはないという。

国防省関係者は、在庫のだぶつきと、
性能が時代にそぐわなくなったことを
理由に挙げた。

専門家によると、軍は
15〜20年分の在庫を抱えている。

 製造元の銃器会社「イジュマシュ」幹部は
別のロシア紙に対し
「軍がカラシニコフを拒否したわけではない。
まだ戦列に残っている」と釈明した。

設計者のカラシニコフ氏には、
高齢とショックを考慮して、
軍が購入を中止した事実は
伝えていないという。

 国家の「現代化」を掲げる
メドベージェフ大統領は、
軍も重点対象にしている。

戦地の地形を立体的に表示できる
iPadのようなタブレット型端末を
独自開発し、兵士に持たせる計画も
発表している。
私の8月14,15日 [2011年08月14日(Sun)]








1945(昭和20)年のきょうの23時に、
私は秋田市で空襲を経験?した。

 というと、いかにもよく覚えているような
感じだが、4歳の幼児に証言能力はない。

私は河辺郡和田町の
後に衆議院議員や通産大臣になった
佐々木義武さんのお宅に疎開していた。

 疎開期間はわずか16日。

それでも、
3つ年長の兄・忠晴と野イチゴを
摘みに行ったこと、
兄の習字の作品が二重丸付きで
和田小学校の教室に貼られていたこと、
岩見山内雪のトロッコの駅を
見に行ったこと、
佐々木家の間取りの一部、
警戒警報がよく鳴っていたこと、
半鐘に登る男が小槌で激しく鉦を
叩いていたことなどを、
覚えている。。

 終戦の前夜、秋田は初めて空襲にあった。

 すでに同日16時にトルーマン大統領は
攻撃停止を命じていたが、その前に、
200機近いB29の編隊がサイパンを発って
いたらしい。

 いま、厳しい被災地になっている
岩手県釜石市の日本製鉄釜石工場を
目標に、同市は何度か爆撃され、
破壊されつくしていた。

 このため、編隊は目標を秋田の
製油所とその周辺に変更したらしい。

 当時の名前では土崎港町という
秋田市の外港にあたる町が空襲された。

 民間人ばかり72人が亡くなった。

 父・忠治は即刻疎開先から妻子を
呼び戻し、私たちを
母の実家のあった土崎港町に
連れてゆき、筵をめくって、
その真黒になった亡骸を見せた。

この記憶は今も鮮明である。

そしてこの攻撃を卑劣であり、
戦時国際法違反として、
末永く息子たちに伝え、
いつか、アメリカ人に文句を言えと、
毎年8月15日には、その現場に 
連れて行かれ、この話を聞かされた。

 そんなことで、私はこれまで83カ国を
訪問しているが、アメリカは2001年まで、
アンカレッジの空港とパラグアイへの行き帰りに
やむなく1泊したマイアミしか知らなかった。

 2001年9月11日、そのアメリカで
数千人の民間人が同時多発テロに殺害された。

 私はもう前後のことを考えずに
航空路再開後、最初の便でアメリカに飛んだ。

 56年間、ただアメリカを恨んできた
私のアメリカ観は少し変わった。

 遅ればせながら、国際政治を
今少し現実主義的にみれるようになった。

 きょう、まもなく、その時刻がめぐってくる。

 2つの「あの日」に亡くなった人々を追悼し、
日本と国際社会のありかたについて
あすはしっかりと考える日にしたい。
アンガウルの生き残り [2010年11月10日(Wed)]






    日本時代の南洋庁。最近までパラオ共和国最高裁判所として
  使用されていた。現在は、司法関連施設として使われている。
  在コロール。2010年10月1日撮影。





近現代史研究会(PandA会、笹 幸恵会長)が
下記により
第12回聴講会を開催されます。

あいにく私は同じ時間に伊勢神宮で
講演することになっており
出席はかないませんが、
次回、パラオに行くときには
お訪ねしてご指導いただこうかと存じます。

アンガウルではごく少数の方が、
奇跡的に生き残りました。

戦後、渋谷に「本のデパート」大盛堂を
開いた船坂弘さんもその一人。

三島由紀夫自決時に使用した名刀「関孫六」は
船坂さんが差し上げたものです。

今回の私のパラオ訪問ではペリリューを訪問できましたが、
アンガウルは果たせませんでした。次回の宿題です。

以下は、聴講会のご案内状の一部です。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

今回、講師としてお招きしていますのは、
アンガウル島玉砕戦を生き延びた倉田洋二
先生です。

倉田先生は、戦前、パラオの
南洋庁水産試験場に勤務していたところを
現地召集され、歩兵第五十九聯隊に配属、
アンガウル島へと送られました。

アンガウル島は、ペリリュー島とほぼ同時期に
米軍が上陸しています。ペリリュー島の玉砕戦は
「サクラ・サクラ」であまりに有名ですが、
一方のアンガウル島の戦闘は
ほとんど知られておりません。

倉田先生は、アンガウル島で敵と対峙し、
ゲリラ戦を展開し、
組織的戦闘が終わったのちも潜伏生活を続けました。

聴講会では、そのときの生々しいご体験を
披露していただく予定でおります。
現在、倉田先生はパラオのコロールに住んでいます。

昨年、私がパラオを訪れた際、
コロール周辺やパラオ本島、
さらにはペリリュー・アンガウルの戦跡を
案内してくださいました。

またアンガウル島の慰霊碑を訪れては、
清掃を続けてこられました。「アンガウルの墓守」です。
数年前、州政府の要請があり、
慰霊碑の移転を余儀なくされましたが、
これにもご尽力なさり、現在は
新しい慰霊碑が完成しつつあります。
当日は、その様子なども語っていただき、
戦後の慰霊碑の在り方についても考える機会にしたいと
思っております。
 
倉田先生がたまたま日本に帰国している
この時期を狙って、聴講会講師を
お引き受けいただきました。

■開催日時
平成22年11月28日(日) 15:00〜
懇親会18:15〜

■開催場所
所在地 東京都新宿区歌舞伎町1−1−16
    テイケイトレード新宿ビル8F

会場名 テイケイトレード(株)会議室
(JR新宿駅より徒歩5分)
(丸ノ内線・都営新宿線
新宿三丁目駅B3出口より徒歩3分)
■会費  2000円(初回参加・学生1000円)
連絡先 090-1461-0591(事務局長 濱口和久)

■講師プロフィール
倉田 洋二(くらた ようじ)
大正15年東京生まれ。84歳。
中学を中退してパラオに渡り、南洋庁水産講習所へ
入所。卒業後、水産試験場養殖部に勤務。
昭和19年7月、現地召集となり、
歩兵第59聯隊に配属。
歩兵砲中隊の一員として
アンガウル島で戦う。
上陸してきた米軍約2万名に対し、
アンガウル島守備隊は約1300名。
およそ20倍の兵力に立ち向かっていった。

守備隊の組織戦闘が終わった後も
潜伏生活を続けたが、米軍に発見され、
ハワイへと送られる。

昭和20年11月に復員。

戦後は東京都水産試験場に勤務、
昭和43年に小笠原が返還されると
すぐに出かけ、
アオウミガメの保護増殖に取り組んでいる。

生物学の世界では「亀博士」「亀仙人」
といった異名を持つ。平成8年、
70歳を超えてからパラオ・コロールに移住し、
戦友を弔う日々を送る。

遺骨収集のガイド役のほか、
アンガウル島に建立された慰霊碑の清掃、
管理を行っている。

現在、
アンガウル島にある慰霊碑の移転のため奔走中。

ご参加をご希望の場合は、
お手数ですが下記サイトより
お申込みください!

申込先 E-mail:info@panda1945.net

(申込締切 11月20日)  

近現代史研究会(PandA会)事務局

────────────────────────
近現代史研究会(PandA会)ホームページ
http://www.panda1945.net/

事務局メールアドレス
info@panda1945.net
「平和」の安売り [2010年08月12日(Thu)]























 孫に「読み聞かせ」をしていて、
「ん?」となった。

 この本のこの一文。
「こまっているひとはいないかな?
まちのへいわをまもるため
パトロールをしているよ」。

 私は平和という言葉は狭義に考える。
古典的に「戦争のない状態」をさすという立場だ。

 詳しくは、拙著『平和の歴史』(光文社新書)に
拠っていただきたいが、要するに、
なんでも平和、平和と
安っぽく言わないほしいのだ。

 平和はこうやって感覚的に
安売りするものではなく
血みどろな努力を重ね、
さまざまな工夫を凝らし、
耐がたきをたえ、忍び難きをしのんで
はじめて維持しうる、貴重な価値なのである。

この絵本は、もちろん幼児を対象としたものであり、
「ちあん(治安)」という言葉は
難しすぎるのかもしれない。

 しかし、「あんぜん(安全)」ではどうか。

「静かな暮らし」でも、「問題のない生活」、
「やめさせたほうがいいようなことはないのかな?」と
見てまわっています、でいいのではないだろうか。

言葉だけの「平和のバーゲンセール」を
やめてほしい。平和と言う、大きな価値を
みんなで大切にしようではないか。
昭和天皇宛の米大統領書簡 [2009年01月16日(Fri)]






  フランクリン・ルーズベルト米大統領








 日本から外国語で発信することの重大さについては
今さら多言を要しない。

 畏友・茂木弘道叶「界出版社長は
そのことに献身し、多くの貴重な書物や論文を
英訳して発信しておられる。

その茂木さんから、こんなメールが来た。
貴重なデータありがとうございます。

こういうのはどんどん広まるべきです。ので、
小欄でも早速、紹介させていただきます。

   ━━━━━━━━━━━━━

吹浦忠正 様:

 発信する会のサイトに
杉原誠四郎教授が『正論』2月号に書かれた
「ルーズベルトの昭和天皇宛親電はどうなったか」の全訳が、
概要・サマリーともども
アップロードされましたので御知らせします。

この分析は、ルーズベルトが
実際は日米開戦に対して
どのような工作を行っていたかを明らかにし
ています。

世界の4500名ほどのVIP(学者主体)に
下記のメールが発信されました。

December 8, 2008 (December 7 in the U.S.)
marked the 67th anniversary of the outbreak of war
between Japan and the United States

Prof. SUGIHARA Seishiro wrote an essay
on the subject of a telegram sent
by U.S. President Roosevelt to Emperor Showa (Hirohito)
in the February 2009 issue of The Seiron,
published on December 25, 2008.

The essay intended to explore the nature
of the telegram,
and leads to uncovering
Roosevelt’s real attitude toward
war against Japan.

The full translation of his essay
is now uploaded in our site. Please
read it at

Abstract: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/56_S1.pdf
Summary: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/56_S2.pdf
Full text: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/56_S4.pdf
Author profile: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/56_S3.pdf

Any questions are welcome.

Sincerely,

MOTEKI Hiromichi
Deputy Chairman and Secretary General
Society for the Dissemination of Historical Fact
Tel 03-3519-4366
Fax 03-3519-4367
Email moteki@sdh-fact.com
URL http://www.sdh-fact.com

Note: Japanese names are rendered
surname first in accordance with
customs in Japan
停戦を! イスラエル [2009年01月12日(Mon)]





   左がイスラエル、右がパレスチナの旗。
   上がアラビア語、下がヘブライ語。






ガザでの悲劇が続いている。

双方とも、国内政治への対応から
過激な発言に終始している。

その間に多数の犠牲者が出た。使者だけでも900人近い。

正気の沙汰ではなくなりつつある。

これまでは第2次世界大戦での虐殺から
とかくイスラエルには甘かった
国際世論も、これからはユダヤ人に厳しくなろう。

それを考えたら、ここは圧倒的戦力を持つイスラエルが
一度、矛を収めるべきではないのか。

フランスやエジプトの仲介に期待したい。

他方、国連の無力さをかみしめたい。
日露戦争でも捕虜虐殺 [2009年01月02日(Fri)]














南サハリンにあったロシア軍は日本軍に一蹴され、
そのあと5つのパルチザン部隊に再編された。

しかし、
これまた次々に日本軍に撃破されて降伏、
8月末までに第5部隊(隊長=ワシリー・ブイコフ大尉)は
間宮(アムール)海峡を渡って
大陸東岸のニコライエフスクへの潰走(かいそう)に成功、
わずかにダイールスキー2等大尉指揮下の
第4部隊(兵184名)だけが組織的抵抗を続けた。

この部隊は北西部のアレクサンドロフへの撤退を目指して、
西海岸を北上していた。

しかし、
ホルムスク(日本時代の真岡)の北約50キロ地点で
日本の巡洋艦に発見され、
川伝いに山岳地帯に入り込んだ。

そして8月23日、ナイバ川に達し、
丘陵地帯に踏み入った。

このさきは湿地帯化して
しばしば歩行の困難な中央部に続く。

他の自軍部隊との連絡も途絶えた
このロシアの第4部隊は
「防御工事を施し、副防御物として
急造の鹿柴(ろくさい)を設け
森林深き此陣地に
於て身を全ふせんことを決心」(伊藤貞助『樺太戦史』)
したのであった。

30日、ついに、オトラドノエ(日本時代の川北)村で
日本軍と衝突、
『樺太戦史』では、同部隊は
「日本軍に多大の損害を与へ」たが、
「其後数刻を経るや優勢なる日本軍」が
「包囲し、猛烈なる射撃を加」えたため、
「損害益々大なるのみならず
全滅も亦免(またまぬがるる)る能(あた)はさるの
状況に陥り、
余儀なく指揮官以下降伏して俘虜となれり」。

同戦史は日露戦争後、日本領となった
豊原の住人である著者が
20年後に上梓したものである。

しかし、
他の部分の記述が詳細を極めている
にもかからず、
この戦闘についてはここで筆を置いている。

全滅を免れようとして日本軍に降って
俘虜となった百数十名の運命には
ほうかむりしているのである。

ところがこのとき、
日本軍は恥ずべき蛮行を行なったのだ。

日露戦争中、最悪の
捕虜虐殺がなされたのである。
                (つづく)
仁川上陸の日に [2008年09月15日(Mon)]









 朝鮮戦争は私が「ものごころ」がついてからの最初の戦争と言っていい。

 開戦したのは1950年6月25日、私は満9歳、
日々の報道を見聞きしながら、
「京城、水原、大田が落ちた」
「今度は大邱かな」などと口にしながら
地図にしるしをつけていた。

 もちろん、「ケイジョウ、ミズハラ、オオタ」であり、
「ソウル、スウォン、テジョン、テグ」ではなかった。

 それでも、侵攻した北朝鮮軍の早さにはびっくりした。
「南朝鮮、負けるな。しっかりしろ。アメリカは何やってんだ」
と、思えば、ゲーム感覚かもしれなかった。

 それが、きょう9月15日、マッカーサー元帥(当時の子供には
スーパーマンのような存在)が、見事に仁川(インチョン)に上陸したのだ。

 小学校の教師に訊いた。
「先生、北朝鮮がどんどん攻めて九州までやってきませんか?」。
「アメリカは強いぞ。先生もフィリピンで戦ったんだが、
物量が違う。とてもかなわん。そのアメリカが
この間まで日本の“属国”だった朝鮮の
そのまた半分を相手にするんだから、もう大丈夫。
さあ、しっかり勉強しなさい」。

なんとなく安心したのを覚えている。

ところが、北朝鮮の部隊は慶尚道の韓国軍と、
仁川からの米軍に挟まれて、全羅道や忠清道あたりで
全滅するはずが、いっこうにそういう報道がない。

9月20日ころの放課後だったと思う。
「先生、もしかして
アメリカって大したことないんじゃないですか?」。

「ついこのあいだ、先生たちが負けたんだぞ。だから強いに決まってる」。

「先生、もしかして、先生たちが弱かったんじゃないですか?」

あとは「ワーィ!」とか言ってみんなで散って逃げた。

 でも、あのとき、どうして
米軍は北朝鮮軍の大部隊を捕捉出来なかったのか、
今になっても私は、惜しくてしょうがない。

 やっぱりアメリカは弱かったんじゃないのかなぁ。
終戦記念日を迎えて [2008年08月15日(Fri)]








63回目の「終戦記念日」。間もなく正午。戦没者追悼式がおこなわれる日本武道館に、そして靖国神社に向って私も遥拝する。

産経新聞に拠れば、「福田内閣発足後、初の終戦記念日となった15日午前、太田誠一農林水産相が東京・九段の靖国神社に参拝したほか、小泉純一郎元首相も訪れた。保岡興治法相、野田聖子消費者行政推進担当相、安倍晋三前首相も同日の参拝を予定している」とのこと。

こういうことはきちんと継承し、継続しておこなわれるべきだ。

五輪開催中の中国はおそらく何もいえないはずだ。

しつこいようだが、1964年の東京五輪のさなかに、中国は初の核実験をしたのだ。

日本の閣僚が、堂々と英霊に参拝して何が悪いというのだ。

合掌して、英霊に謝意を表し、平和を祈り、誓おうではないか。
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