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土木と建築どう区別する?  [2006年05月08日(Mon)]




写真は、目黒の林試公園。屋根のある東屋は、土木なのか建築なのか。


  土木は、英語でcivil engineering。

  日本語としては平安末期の文献に出てくる古い言葉。 
 
  道路、堤防、砂防、ダム、橋梁、鉄道、トンネル、河川、港湾、上下水道、都市計画などの分野を指す。建築は、家屋やビルなどの建造物をつくることを指す。建築のことを古くから「普請」といっていたが、Architectureを幕末に建築と訳した。

  土木と建築の境界はあいまいというほかない。
  
  何人かの専門家に訊いてみたが、「屋根や壁のないのが土木で、あるのが建築」というのが比較的納得できそうな区分というほかない。

「地表より高く創り上げていくのが建築、地表面や地下、谷間などで工事をするのが土木」ではいかがか。

  建設はconstructionまたはbuildng。

「新たにつくり設けること」と『日本国語大辞典』(小学館)にはあり、必ずしも建造物を構築する場合のことではないことを示して、次の例を挙げている。

『公議所日誌』の「明治2年5月」の項に「曖昧過罪の切腹を除かんとならば、自首律を建設し」と、森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』から「哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思はないから」の2つの用例だ。

  もちろん、矢野龍渓の『経国美談』に「此の処は則ち有名な高等裁判所を建設しある地なり」と工学上の使用例も挙げている。

  しかし、21世紀の今、この分野の技術があまりに発展し、空高く道路網が出来ている今、その区別をするのが、無理なのではないか。土建屋さん、いかがですか?


NPOの急速な増加 [2006年05月04日(Thu)]



「NPO」はアメリカから輸入された考え方であるのは確かである。先の日本経済新聞の例を見ても分かるように、「NPO」と言う考え方は日本の読者には目新しいものとして捉えられていることが明らかである。

  この言葉がいつ頃日本に入ってきたのかは定かではないが、前後関係から推測するに日本のNGOスタッフや学者・専門家が海外、とりわけアメリカ留学を経験したり、アメリカと盛んに交流を始めた80年代以降ではないかという関係者が多い。

  そして、同じく、その定着には、91年に翻訳・出版されたアメリカの経済学者ピーター・ドラッカーの著書『非営利組織の経営―理論と実践』が大きく影響したとの指摘が多い。

  こうした人々によって93年〜94年にはNPOに関する法の制定を図ろうという動きが活発になった。折から、95年1月の阪神・淡路大事震災において、ボランティア活動が社会的に大きな注目を浴び、関係団体に対する法人格の付与の必要性が大きな世論として叫ばれるようになった。

   95年の2月、村山内閣の連立与党プロジェクトチームがボランティア団体の支援策検討を開始し、98年6月、特定非営利活動推進法(通称=NPO法)が制定された。

  かくして、法的、活動内容上、また税制上の優遇措置などさまざまな改善の余地を残しつつも、NGOの多くがNPO法による法人格を取得し、今日、わが国の社会福祉と国際的な救援支援活動の一翼を、確実に担うに至っている。

  NPOの認定を受ける団体は、その後も激増し、2006年4月1日までに約22,000を数えるに至っている。内、国税庁によって、寄付金の向上を受けられる特別の扱いを受けることのできる資格となる「認定NPO法人」は、同日現在35団体に過ぎない。     



   写真は、「信玄棒道」に、道祖神のように立ち並ぶ観音像の1体。
「NPO」という言葉 [2006年05月04日(Thu)]







  Non Profit Organizationのイニシャルである「NPO」を日本経済新聞が初めて使用したのは、1990年8月14日付ではないかと思われる。

  すなわち、同紙の朝刊文化欄に、「欧米に見るメセナの底流 (2)整備されたシステム―非営利団体のネット充実」という見出しの記事があり、当時「山海塾」の事務局長だった市村作知雄氏が米国で「アート・ネットワーク」という非営利団体を設立した理由を説明する中で、「非営利団体(NPO、ノン・プロフィット・オーガニゼーション)」との記載がある(川上慎市郎『NPOとジャーナリズム』で記載されているのに従い、検証)。

  他方、山内直人は『NPOデータブック』で、「NPO」という言葉は、「86年に1度、88年1度、89年に2度使われている」と指摘している。私と埼玉県立大学のゼミ生たちはまざまな方法で検索に努めたが、残念ながらこの使用例を直接、見出すことはできなかった。

  関係者へのインタビューによれば、「NPO」への注目は、80年代を通じて徐々に日本社会で始まっていた。

  行政も企業も出来ないような公共的サービスの第3の担い手としての独立した民間非営利機関としての期待を込めた注目であった。

  また、松原明の『NPO法に至る背景と立法過程』によれば、1950〜70年前半にかけて、市民活動やボランティア活動などの非営利団体(今日NPOと呼ばれる団体の前身)は行政の補完的位置付けにあり、多くは、一定の目的を果たせば終了する一時的なものであったとのことである。

  実情は必ずしも行政に対する補完的な役割だけではなく、しばしば政策提言(アドヴォカシー)に努める活動もあったが、確かに目的ないし一定の目標を達成すれば、組織を解体ないし休眠状態に置くなどする例が多かった。

  ベトナム戦争が終結した1975年以降、インドシナ3国から国外に逃れる人々が相次いだ。
とりわけカンボジアからは、1979年、ポル・ポト政権が首都を追われ、全土を掌握できなくなった。これを機に、多くの人々が隣国タイに逃れた。また、社会主義政策が急激に推し進められるようになったベトナムからは大量の「ボートピープル」が出るようになった。

  70年代末から80年代初頭にかけて、わが国で、相馬雪香を会長とする「インドシナ難民を助ける会(現・難民を助ける会)をはじめとする、インドシナ3国からの定住難民への救援支援活動を目的とするNGOが相次いで創設された。

  また、他の分野でも次第に市民による内外での相互扶助活動を行なおうとする団体が活発になった。

  そうした中で、一般市民の間で、自らが地域や外国の困窮者に対する援助やサ―ビスに主体的に関ろうと言う認識が進展した。この認識は「アフリカの飢餓」が叫ばれた80年代半ば以降、さらに発達し、普及した。

  こうした流れの中で、田中尚輝は『ボランティアの時代』を著し、「1980年代半ばに上野真城子(米のNPO研究機関アーバン・インスティチュートの研究員)がNPO制度の重要さを指摘し、精力的に活動した最初の人である」と述べている。

   さらに田中は、同書で「日本における最初のNPOシンポジウムでないか」として、「1988年中高年者の社会参加促進の団体である社団法人長寿社会文化協会が、ウィスコンシン大学のジェームズ・T・サイク教授を招き「NPOシンポジウム」を開催したことを挙げている。



  写真は、「ムスカリ」。
国連憲章とNGO [2006年05月04日(Thu)]







「NGO」はいうまでもなく、Non Governmental Organizationのイニシャルをとったものである。

この言葉が世界的に認知されたのは1945年6月26日、サンフランシスコにおいて署名された「国際連合憲章」第71条の次の規定による。

 すなわち、「経済社会理事会は、その権限内にある事項に関係のある民間団体と協議するために、適当な取り決めを行うことができる。(以下略)」。

この「民間団体」は英文による国連憲章のNon Governmental Organizationを翻訳したものであり、邦訳は「非政府団体」「非政府機関」「民間団体」が多い。

 最近は、「NGO」という単語も次第に認識され、社会的に認知される度合いも急速に高まったといえよう。また、NGO側にも政府との協力について、是々非々ないし積極的協力をおしまない態度の団体が多くなり、さまざなま形での連携が深まりつつある。

 なお、外務省はいわゆる「NGO補助金」を正式には「民間公益団体補助金」と称している




   写真は、JR小海線の去りゆく電車。
「難民」の通念と定義 [2006年05月04日(Thu)]





 
 「難民」についての一般の通念は、「戦火や経済的困難、あるいは、人権・部族・宗教・思想・政治的意見の相違などの事情で、本国において迫害を受け、または迫害を受ける恐れがあり、そのために外国に逃れ、または、現在外国にいるもので、このような恐怖のために自国の保護を希望せず帰国しようとしないもの」であろう。

  しかし、1951年に締結された「難民の地位に関する条約 Convention Relating to the Status of Refugees」では、難民とは「人種、宗教、国籍、特定の社会集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まないもの」(第1条)と厳格に定義している。

  加えて、この定義には「1951年1月1日前に生じた事件の結果として」の要件がついているが、これは、第2次世界大戦の結果、主としてナチスの迫害から逃れたユダヤ人や東欧諸国の共産化にともない、大挙して移動した人々についての庇護を前提にしていた規定であり、1967年の「難民の地位に関する議定書(protocol)」の当事国についてはこの要件は削除された。

この条約では、本国の保護を欠き、または求めない人々に対し、通常の外国人とは区別して庇護を与え、積極的に諸種の権利を認めるべきことを求めている。

「難民」という言葉を、最も狭義に定義すればこの条約と議定書による内容であるが、今日、国際法においても、またわが国の行政上の扱いにおいても、この定義にはごくわずかではあるが、幅を持たせて援用する場合なしとしない。

1978年にわが国がインドシナ3国からの定住希望者に一定の要件を満たせば定住を認め、その後その数を順次増やし、今日、1万人を超えるベトナム、ラオス、カンボジアからの「定住難民」の受け入れを行っていることは周知の通りである。

  条約は、1954年4月22日発効したが、日本はこうした「定住難民」の急速な増加と受け入れ促進を支持する世論の求めに応じ、条約締結から30年後の、1981(昭和56)年に国会の承認するところとなり、翌年1月1日に議定書ともどもその加入国となった。

この条約に基づく難民はわが国において今日まで約350人に達しているが、内152人はインドシナ3国からの「定住難民」の中の一部であり、欧米諸国に比べその数は比較すべくもなく少なく、しばしばその厳格な審査基準が適正かどうか批判されることがある。

そしてその批判がこれまたえてして冒頭に述べた「社会通念」と条約による定義との乖離に基づくものであるように思われる。

これに対して、法務省では2005年6月から、難民認定参与員制度を発足させ、難民認定の再審査に、法務省以外の専門家の参画を認めるようになった。爾来、主としてミャンマー(ビルマ)出身者に対するやや寛大な難民認定や特別在留許可が進められるなど、改善が認められる。

  また、条約は、社会福祉面で、難民に、自国民と同等の待遇を与えることを規定しているため(24条)、わが国は条約の昇任にあたって、対象を日本人に限定している国民年金法、児童手当法などを改正した。

これによって、在日韓国・朝鮮人などを含む約78万人の在日外国人に国民年金適用の道が開かれることになった。

 『現代用語の基礎知識』(1991年版以降同文、自由国民社)などでは、難民を「亡命者ともいう」とし、「日本語では一人または小人数の場合に亡命者といい、集団の場合に難民と言う」場合が多いとしている。



写真は、「甲斐駒ケ岳」。左端は、日本第2の高峰「北岳」(3192m)
戦後の「難民」 [2006年05月04日(Thu)]





  戦後の代表的な国語辞典である新村出の『広辞苑』では、1955年の初版から「難民」の項目が存在する。

  意味は「@困窮する人民A戦争・天災などのため困難に陥った人民、ことに戦禍・政難を避けて故郷を避けて故郷を逃れた亡命者」とある。

  また、諸橋轍次の『大漢和辞典』(1955年)では、「災害にあってゐる人民」とある。

『現代用語の基礎知識』では1953年版において初めて「難民」が採録された。「国際難民機構」を説明する部分において、「難民」を使用している。

  この時期は、朝鮮戦争(1950〜53)で「北」から「南」に大量の人々が移動した時期であった。

  また、外務省では1951年の創設になるUNHCRを「国連亡命者高等弁務官」と表記していたが、1960版『国際連合第十四総会の事業』(同省国連局政治課)で、UNRWAを「国連パレスタイン難民救済機関」と訳出し、から、「国連難民高等弁務官」と訳出・表記するようになった。

  私は、1988年と2002年にその理由を外務大臣宛て文書で質したが、いずれも、今となっては判然としないとのことで、それぞれ担当の国連局人権難民課、総合外国政策局人権課からそれ以上の説明を回避された。

  なお、「難民」と「亡命者」は国際法上、基本的に同義である。



    写真は、「シバザクラ」。
戦前戦後の「難民」 [2006年05月04日(Thu)]



  私がまだ埼玉県立大学に奉職していた当時、常盤大学の波多野勝教授と飯盛明子助教授の関東大震災に関する研究論文を読んで問い合わせたところ、「難民」の語句が、外務省編「『日本外交文書 大正12年第一冊』(外務省)の中に用いられていることをご教示いただいた。

すなわち、関東大震災(1923年)発生直後に米国が海軍の軍艦を派遣して日本の地震被災者の援護にあたりたいと申し出てきた文脈の中で、9月19日にワシントンで発信した、「在米国埴原大使ヨリ伊集院外務大臣宛」の電報の表題が「難民救済ニ当レル米海軍ノ行動ト之ニ対スル日本官憲ノ態度ニ関スル新聞報報告ノ件」(電報第594号)となっているとのことである。

  おそらくこれが、日本の公文書における「難民」の最も古い使用例ではないかと思われる。

 その後、「難民」という日本語はどのように使われていたのか。私は栃木県立美術館にむかった。そこに、清水登之の一連の作品があるからである。

清水は、陥落直後(1937)南京の難民居住区を描いたものなど難民を描くことに強い関心を抱きつづけ、
@ 1938年の陸軍従軍画家展に出した「救われし難民」、
A 同年8月下旬に新聞の家庭欄のカットとして難民に関する作品を1週間連載し、
B 1940年2月には「難民帰る」という100号の作品に着手し、
C 1941年には代表作ともいうべき「難民群」(上海の難民たちの暗い印象を描いたもの)を描いた。

笠原十九司の『南京難民区の百日』(1995、岩波書店)は表題もそうだが、実際に南京には当時、国際的に認められた難民区ないし難民保護区と呼ばれる地域が設けられていた。
英語では、safety zoneと言い、中国語では「難民区」ないし「安全区」と読んでいた。

 このことは東中野修道、秦郁彦両教授のように 笠原とはこの事件への見解をことにする専門かも、「難民区」「安全区」 を併用している。

清水は、その後も難民を主題とした作品を継続して制作したが、その表題は、おそらく中国人が当時、こうした人々を称していた「難民」をそのまま使用したと思われる。

  一方、日本降伏の直後、1945年10月24日、ロサンゼルスでは、佐藤明治朗、山崎節が呼びかけて南加日本難民救済会」が、また、11月下旬にはサンフランシスコで浅野七之介らの呼びかけにより、日系社会の長老・塚本松之助翁の名で発足した「故国日本救済相談会」が発足した。

翌年1月6日にこれが「日本難民救済会」となった。この会の「日本難民救済会趣意書」には、「戦火の犠牲となり衣食住に欠乏する日本難民救済の為」とある。
 
このように、戦前・大戦直後では「難民」は、今日の最も広義な意味、すなわち、「困っている人」といった大まかな意味で使用されていたようである。

「難民」の語句は、終戦直後、中国語から入ってきて、使われているものもある。

  国立国会図書館の蔵書には、1949年1月、3月、4月、8月に計四回刊行された、『難民救済事業要覧』(瀋陽市日僑善後連絡総処)と、1947年10月25日出版の、自分の逃避行を描いた田中宋太郎著『難民記』(報徳出版社)がある。

これらはいずれも、1945年8月9日に、ソ連軍が「日ソ中立条約」有効期間であったにかかわらず、「満州国」に侵入した際、辺境地区の邦人が新京(現・長春)、奉天(現・瀋陽)など南部の主要都市を目指して避難したが、それらの人々を指しての表記であった。

また、今日、いわゆる中国残留孤児についての報道で「奉天難民収容所で母と別れ・・・」というように言われるように、満州南部の主要都市には、日本人を収容する施設をこのように表記していた。

これがその後の内地への引揚げによって、日本全体により広く浸透していったということはいえよう。



写真は、南アルプスの甲斐駒ケ岳(2967m)。
戦前の辞書にはない「難民」 [2006年05月04日(Thu)]




  おそらく日本語は「難民」という言葉がごく最近までなかった、世界でもごくまれな言語ではなかったかと思われる。

  これすなわち、わが国においては、政治、宗教、思想などにとって権力者から逃れて他国に居住地を移すといったことが、17世紀初頭のキリスト教徒に対する弾圧と、一部信徒の東南アジアへの脱出を除き、歴史的にほとんどなかったことによるといえよう。

  また、わが国では、近年のインドシナ難民などの受け入れまでは、ごくまれに大陸から前王朝の敗残者等が渡って来たり、ロシア革命でいわゆる白系ロシア人が逃れて来るくらいしか、避難する外国人の受け入れということがなかったからにほかならないといえよう。

  まず、辞書辞典類からみていくことにする。

  1889年に日本で初めての近代的な国語辞書として刊行され、爾来、数次にわたり大改訂を行っている大槻文彦の『大言海』(1974年版)には「難民」の項目がない。

  戦前に刊行された辞書である金沢庄三郎『辞林』(1907年)、小山左文二『新体国語漢文辞林』(1909年)、落合直文『言泉』(1927年)、下中弥三郎編『大辞典』(1936年)にも「難民」の項目はない。

  ではいつごろから「難民」という語が使われるようになったのだろうか。

 「国立国語研究所(野元菊雄所長)へ問い合わせたところ、言語学者・見坊豪紀氏とも意見調整した結果として、「金田一京助編『明解国語辞典』が辞書の中では<難民>という項目を設けた一番古い例だと思われる」とのこと(1987年7月16日付回答)」。詳しくは、拙著『難民−世界と日本』(1989年、日本教育新聞社)参照。

  戦時中の1943(昭和18)年に出版された同辞典には確かに「難民」の項目はあるが、『避難の人民』とあるだけで、1951年の「難民の地位に関する条約」による規定には遠く及ばないとしても、あまりにあいまいな用語であり、現在認用されている意味を最大限広義に説明しているに過ぎないというべきであろう。

   なお、この条約について外務省では1961年度の『国連報告書』まで、「難民」の語を用いず、「亡命者」と表記し、UNHCRを、「国連亡命者高等弁務官」と表記していた。
「難民」という言葉と現実 [2006年05月04日(Thu)]





 国連難民高等弁務官(UNHCR)日本・韓国事務所広報センターによれば、2001年1月1日現在、UNHCRがPeople of Concernとして認定している人(難民及び国内避難民)の数は21,793,300、内、Refugeeとして扱っている数は12,071,700であるとのことだ。

 難民とは1951年の「難民の庇護に関する条約」によれば、政治、思想、宗教などの違いや「特定の集団に所属していること」から差別や圧迫を受けて、外国暮らしを余儀されている人のことである。  

  20世紀の最後の10年間にはやや減少傾向もみられたが、2001年9月11日の同時多発テロとそれに続くアフガニスタンでの戦争により、さらに援助を必要とする人々の数は、あきらかに増えたように思われる。

 以上は、私が埼玉県立大学に奉職していた当時(2002年)、ゼミ生たちとともに発表した論文の一部であるが、私は小欄4月20付で、その後の難民問題の推移について、UNHCRが6年ぶりに発表した、2006年版『世界難民白書』よれば、世界の難民の数が大幅に減り、924万人になったと、概略以下のように書いた。

      ☆−−−・・・   ☆−−−・・・

   世界の難民は、この4半世紀では1992年の1800万人がピークだった。冷戦が終結し、「米ソのタガ」が緩み、世界の各地で民族間の内戦が勃発した頃である。

カンボジア、アフガニスタン、旧ユーゴ、アフリカ各地で、多くの難民問題を抱えていた。以後、漸減し、2004年はその約半分に減った。

 アフガニスタンからの340万、ボスニア・ヘルツェゴビナの100万人などの帰還が大きい。

 しかし、問題は900余万の難民の内、パキスタンにいるアフガン難民、タンザニアにいるブルンジ難民、ネパールにいるブータン難民など33の難民が5年以上もの難民生活を続けていることである。その数は約570万人。

 難民としての生活年数は、93年には平均9年だったのが、2003年には17年にもなり、長期的に解決されていない難民問題が深刻だとしている。

 なお、この統計にはパレストナ難民は国連での扱いが別であるために含まれていない。パレスチナでは、難民キャンプで一生を終える人さえ少なくない。

 世界には人類が挙げて取り組まねばならない多くの課題があるが、難民問題もその一つ。そしてそこでは日本がさまざまな役割を果たしうる可能性がある。資金的な援助のほかに特に、人的支援、予防外交(紛争予防)について、政府も民間も、学界もメディアももっと真剣に取り組んでいいはずだ。

    ☆−−−・・・   ☆−−−・・・

 難民問題は、古来、数多く存在する。20年近く前に上梓した拙著『難民−世界と日本』にその歴史と著名な難民リストを紹介したが、ここでは、いったいいつ頃から「難民」という言葉が使われてきたのだろうか、そしてその後、意味するものはどのように変わってきたのだろうか。以下、言葉としての「難民」をしばらく追ってみたい



   写真は「ホウキモモ」。筆者撮影。
「地球市民」の初出 [2006年05月04日(Thu)]




●「地球市民」の端緒    
 結論から言ってしまえば、「地球市民」その初出と概念について、はっきりとしたものはこれだということはできないままである。辞書事典類を見ても「地球市民」を項目としては、ほとんどが扱ってさえない。

  しかし、『朝日現代用語(知恵蔵2001)』には、その内容の是非はともかく、「20世紀前半までの<国民>をアイデンティティの軸にすることから、核の開発を始めとする共滅への危機感という引き金によって<地球>的な考え方への移行を助長することになり、1970年代から<地球的視点で行動する主体>として地球市民が誕生した」とある。

 1970年の国連世界環境会議は全地球の問題である環境というテーマの特異性とNGOを国連の会議に参加させたという画期的な運営方法があいまって、いわゆる「宇宙船地球号(その言葉自体は福田赳夫首相によりわが国では広く知られた)」的感覚を少なくとも先進諸国の知識層には普及させるきっかけとなり、以後、われら「地球市民」的思いが急速に世界に普及していった。

●「地球市民」感覚の育成
  1975年に、哲学者・安積得也が『われら地球市民』の書を上梓したのはまさに時代の先取りといった意義があり、当時の人々にきわめて新鮮な印象を与えた。

 これに次いで、1978年、Paul R. Ehrichの著書が柳田為正・薄井益雄の共訳により『地球市民のための生物序説』の題で出版された。

 グローバリゼーションの進行は衛星放送やIT技術の相次ぐ発達により、情報や情感が地球規模で瞬時に共有できるものになったことや、1961年以来、世界中の人権侵害に対して国境を越えて声をあげつづけているアムネスティ・インターナショナルをはじめ多くの多国籍的なNGOの活動、反植民地主義を掲げる独立運動への国際的連帯、南アフリカのアパルトヘイトに反対する世界的な共感や運動、カーター元アメリカ大統領の「人権外交」、中国の天安門事件に対する国際的非難などに見られるように、人権擁護のために国を越えて連帯する動きがしばしばみられ、国際世論が国家の政策に多大な影響を与えたり、時に拘束するほどになった。

  このような新しい世界の風潮を踏まえ1974年、ユネスコは「国際理解、国際協力および平和のための教育、ならびに人権および基本的自由についての教育に関する勧告(Education for International Understanding, Co-operation and Peace, and Education relating to Human Rights and Fundamental Freedoms)を採択した。

  他方、箕浦康子『地球市民を育てる教育』(1997年)によれば、労働力の国際的移動、地球環境の保全といったグローバルな価値の創出は、「人々の意識のグローバル化global consciousnessを促した」。

  また、魚住忠久によれば、このユネスコの動きと平行して、 「アメリカではGlobal Educationが提案され、その実践が確実な広がりを見せている。

  これは、自民族・自国家(nation)の繁栄や利益だけを優先させる思考・態度ではなく、地球全体の利益実現に関心をもち、その推進に参画する市民(Global Citizen)の育成が急務であるとの認識に立つものであった」(『グローバル教育−地球人・地球市民を育てる』。1995年)。

  さらに、大津和子によれば、「主としてイギリスやヨーロッパで提唱・実践されてきた開発教育(Development Education)、ワールド・スタディーズ(World Studies)もこれと同じ動きのものである」(『国際理解教育 地球市民を育てる授業と構想』1992年)とのことであり、先進工業国の事象のみについて知るばかりではなく、開発途上国を含む広範な理解を図ることこそが、「地球市民」育成のための教育の目標にすべきであるという考え方だ。

  畏友・古賀武夫が佐賀市を中心に国際NGO「地球市民の会」を創立したのは1983年。

  古賀は自分で「地球市民の語を創設したつもりでいたら後に安曇の本(前掲書)があることを知った」と述べる。同会は、今や全国各地に支部を設け、会員数2,000余名を有するに至り、そのアジアを中心にした活躍は内外でかなり広く知られている。
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