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秋田の朝食ギバサにトンブリ [2012年02月19日(Sun)]


    ギバサ








     トンブリ入りトロロ/span>









      トンブリ入り豆腐






 写真が何とも貧弱で
申しわけないのですが、
1週間ほど前、秋田市に講演に行き、
メトロポリタン・ホテルで
おいしい朝食をいただきました。

 海藻を細かく刻んでポン酢でいただく
ギバサ(ギバソ)や、 畑のキャビアといわれるトンブリを
トロロや豆腐に混ぜ、お醤油をかけ
ご飯に乗っけて食べたりもしました。

 県外からの宿泊者も多いはずなのに、
朝7時半に食堂に行ったら、
もうこんなに減っていたのです。

 懐かしい秋田の味、おふくろの味。
 故郷は近くにあって、なお、いいもの?

 今度はもっと早起きして食堂に行かなくsゃ。
「早起きは3文のトク」だものと固い決心をしました。。
秋田の同級生たちとの盛り上がり [2012年02月11日(Sat)]






















 持つべきものは佳き友なり!

 零下3度という昨日の秋田で、
ショートノーティスにもかかわらず、
わざわざ不肖・吹浦が来るということで、
集まってくれた4人の中学の同級生。

吹浦「なんと急に連絡してしまて
ぶじょほしたしな」

友人A「なんもなも、さびがったしべ。
まんずまんず、
こちゃきてねまて、いっぺやって
ぬぐいまってけれ」

友人B「こどしだばさびさび、
はんぱでね」

友人C「んだな、やじゃがね」

(吹浦「いやぁ、急に連絡してしまい、
迷惑かけたな」。
A「どうしてどうして。
寒かっただろう。まず、
こっちに来て座って、一杯やり、
暖まってくれよ」
B「今年の寒さは半端じゃない」
C「そうだよ、ひどいもんだ」)

(  )内は東京弁に
翻訳したものですが、
とうていニュアンスは
伝わらないですね。

かくして、3時間余りにわたり、
秋田市大町3丁目の居酒屋で、
70歳の「年寄り」5人が
大いに盛り上がったのでした。

Aは地元商店会のトップで
クラス会の世話役、
Bは一家を挙げての床屋のオヤジ、
Cは街の歯医者、
Dは最近まで200人の従業員を抱えて
土建屋を経営していました。

話は古今東西に及び、悲憤慷慨、
ほかから見れば、田舎のジジイが
たわけを言って呑んでいる姿
かもしれませんが、
そこはいずれ劣らぬ
秋田美人の息子だけあって、
単なる田舎のジジイではない、と
これは女将の伊藤礼子さんのゴマスリ?

中でも、私の頭に残っているのは
Cの話。

秋田市は旧秋田市(城下町)と
旧土崎港町、旧新屋町を基幹とした
34万人ほどの「中核都市」。
平成の大合併でさらに周辺の町村を
合併したのですが、おそらく
ここに書いた3つの旧秋田市でも人口は
30万近いかとは思います。

それはいいのですが、そこに
歯科医が150もあるというのです。

かつては幕藩時代に侍町だった
内町(旭川の東側)全体で山之内歯科、
商人待ちだった
外町(同 西側)には中村歯科だけだった。

それが150も歯科医院があるというのは…

「いだ、美容院よりえっぺ(多く)あるものな」

いや、これは秋田市だけのことでは
なさそうです。

東京ではコンビニより歯科医院が
多いと言われています。

こうなったことにはいろいろ原因が
あるのでしょうが、
これでは共倒れではないでしょうか。

我々にできることは?

「歯磨かねごどばべな」

70翁たちの結論は
強烈でした。
「東北の高校出身」でドキッ! [2011年03月03日(Thu)]

       






 早稲田、京大などで
ネットを使った巧妙な手口で
受験した容疑で
「東北の高校出身者」と
報道されただけで、
実は、
私がここ数日に会った6人の
「東北の高校出身者」が
6人とも
かなり憂鬱になっていた。

 もしかしたらわが母校の出身者かも・・・
という心配だ。

 それがまあ、「山形県の」というので、
福島県立安積(あさか)高校、盛岡一高、
青森県立弘前高校などの”超”OBたちが
いっしょになってビビッた。

 いわく
「あんな優れ者はうちの後輩にはいない」

「工業高校生でないとできないんじゃないかな」

「階段教室あたりで、試験監督が自分の
下りて行ったときにやったんじゃないのかな」

「大学側に愉快犯がいて他人の携帯で
やった可能性だって否定できないよ」

「解答予定者と
最初から組んでいないとできないよ」

「すると、受験生より受験問題に
精通していなくてはならないから受験のプロ、l
すなわち予備校の教師が
からんでいるんじゃないのかな」

「その教師が、うちの後輩だったりして」・・・

 クワバラクワバラ・・・
秋田高校同窓会で [2011年01月30日(Sun)]




     秋田高校同窓会東京支部長は読売の橋本五郎特別編集委員     











   JOC職員として2016年の東京五輪誘致に努めた渡辺徹氏が記念講演









    日興コーディアアル証券の神崎泰雄顧問が乾杯の音頭





 母校の中学の話を書いたので、
高校についてもちょっと。

 わが母校は秋田県立秋田高校。
超有名人の先輩はただ一人・
往年の名歌手・東海林太郎。

 ある世代から上は、
この名を知らなくては日本人ではない
というほどの歌手だっただけに、
この人だけは呼び捨てが許されよう。

 あとは加藤日出男(若い根っこの会会長)、
長崎惣之助(元国鉄総裁)
明石 康(元国連事務次長)、
宮脇磊介(初代内閣広報官、皇宮警察本部長)、
西木正明(直木賞作家)
といった著名な先輩(敬称略)も、
佐々木毅(東大学長)
橋本五郎(読売新聞特別編集委員)
といったえら〜い後輩がいても、
失礼ながら、
東海林太郎の知名度にははるかに及ぶまい。

 共通の自慢は、今の甲子園大会がまだ
全国中等学校優勝野球大会
といわれていた時代の話。

 全国73校から勝ち上がった10チームが
豊中(大阪府)に集まり、
第一回大会がおこなわれた。

 秋田高校の前身・秋田中学は
東北からただ1チームだけ全国大会に出場、
決勝戦に進み、延長13回を戦い、
ホームスチールされて京都第二中学に敗れ、
準優勝校となったこと。

大正4(1915)8月23日の出来事だ。

ところで、その秋田高校同窓会
東京支部(橋本五郎支部長)の
新年賀詞交換会が
昨夕、東京の
アルカディア市ヶ谷(私学会館)で
開催された。

この寒い中、私より先輩が15人も
参加されていることに敬意を表したい。

それにしてもわが同期が毎年ゼロというのは
寂しい限りだ。

橋本支部長の挨拶がよかった。

「秋田は人口減少が激しい。
私の出身小学校(県北の山本郡の山村)は
最後は全校生19人で
昨年閉校となった。しかし、村には伝統も文化も
かろうじて残っている。なんとか母校を
文化の拠点にと考え、自分に出来ることとして
蔵書など2万冊を贈った。廃校を転用する
図書館整備の予算は30万円。これでは本の
梱包・輸送費にも満たない。どこでも事情は
そうは変わらないのではないか。お互いに
出来ることをして、故郷を支えよう」。

今回は在京の現役大学生30人が招待された。
就活の相談会を並行して行ったためだ。
東大、慶応、一橋、農工大、
中央、学習院が各2名もいるのに、
なぜか早稲田はいない。何となく残念だ。

記念講演は、
1981年卒の渡部 徹氏。
2016年の東京五輪招致にあたり、
JOCの職員としてその実務の中心にあった人。

日本の社会には開催地を決定した
コペンハーゲンに「弾丸ツアー」という
0泊2日での応援に出かけた300人も
いれば、
強引に2016年にと言い張った知事もいるし、
全く無関心の国民も多いということが
よく解った。

東京から長野まで五輪に携わったものとして、
その失敗談には納得することが多く、
渡部氏の話はブログでの公開はしにくいが、
耳を傾けて良かった。

繰り返すが、わが同期が出席していないことの
寂しさよ。私も従来、
決して熱心な同窓会員ではなかったが、
執行部のみなさんの情熱には頭が下がる。

これからはできるだけ顔を出すようにしたい。

今年の総会は6月4日だとか。
佐藤がいっぱい秋田県 [2011年01月15日(Sat)]







昨日は、午前中に
秋田の同級生佐藤さんから
お電話をいただき、
夜は、同じ秋田の同級生二人と
銀座で旧交をあたためた。

秋田にはほんとうに佐藤姓が多い。

秋田高校の私のクラスには
50人ほどの中に
確か6人いたことがある。

ちなみに、Yahoo『同姓同名辞典』によれば
秋田県で同姓同名は佐藤姓で圧倒的に多く、
以下のように、男性だけでも
佐藤○○が上位30傑のほぼ半分を
占めている。

順位 氏名 件数
1 佐藤 清 147
2 佐藤 正 135
3 佐藤 勇 125
4 佐藤 隆 105
5 佐藤三郎 98
6 佐藤 実 95
7 高橋 清 94
8 佐藤 博 88
9 佐藤 進 84
9 佐藤 誠 84
11 佐藤 茂 83
12 高橋 正 81
13 佐々木清 75
13 佐藤 弘 75
13 佐藤 武 75
16 佐藤正一 73
17 佐々木茂 70
17 佐藤一男 70
19 高橋  勇 67
19 佐々木勇 67
19 佐藤信一 67
19 佐藤 勉 67
23 高橋 茂 66
23佐藤一郎 66
25 佐藤健一 65
25 佐藤良一 65
25 佐藤和夫 65
28 佐藤文雄 64
29 佐藤秀雄 63
29 佐藤 忠 63

この中に、
昨夜の佐藤Aも佐藤Bもいないことに
ホッとしたほどだ。

佐藤AはNYとロンドンで計14年、
佐藤BはシンガポールとNYで計15年の
在外生活を経験し、
Aは商社、Bは化学会社でともに
副社長まで昇進し、退任した。

私とはまるで別世界の半世紀を
過ごしたわけで、お互いに
大いに感じるところがあったようだ。

特に、
「最高の営業マンは最高の聞き手」
というセリフがAからもBからも出た。

そうしていい人間関係を作ることが、
会社成功の秘訣だというのだから、
ここまでくれば住む世界が違っても
共通かも。

あっという間の3時間余りが過ぎ、
4月の再会を約して帰路についた。

それにしても、この同級の3人が
最近、病気を経験したり、手術したり…
全快を祈るや切である。
秋田の人は少数精鋭? [2010年12月31日(Fri)]








先に小欄で取り上げたように、 
愛知県が交通事故数で最悪だったのを
今年一挙にワースト5までになったのは
「不幸中の幸い」である。

しかし、
わが故郷・秋田県には悲劇の数字が
依然、いろいろ残っている。

 脳梗塞、心筋梗塞、自殺率が
全国「最高水準」であるのに加え、
 2008年の統計で見ると、
一人当たり婚姻率(千人比)が4.1。
その結果、出生率も6.7。

 前者は9年連続、後者は14年連続で
全国の都道府県で最小。

 この少子化に高齢化が加わり、
故郷は「山と川の(み)ある町」に
なりそうだ。

 この「山と川のある町」は
石坂洋二郎が秋田県横手市をモデルに
書いた彼の代表作だが、
おそらくご本人も
まさかというほかない
秋田県の人口減少ぶりではないだろうか。

 このままでは県が消滅しかねない。

 せめてもの希望は、「学力日本1」が
つづいていることだ。

 要するに、秋田で生き残っている人は
「少数精鋭」?
長野、秋田、山形の県民歌 [2010年12月12日(Sun)]











 長野、横浜、京都、そして秋田の
県民歌や市民歌に、
畏れ多くも「玉」を奉って
否、怖いもの知らずで、挑戦しているのが
もうひとつの名県民歌「山形県民歌」。

 広き野を ながれゆけども 最上川
  うみに入るまで にごらざりけり

 なんと、昭和天皇の作mなのです。

 昭和天皇はまだ東宮(摂政)だった頃の、
1925(大正14)年10月14日、
荘内地方の酒田へ行幸されたのでした。

 ちなみにその時には北隣の
わが(秋田市にも行幸され、
師範学校の2階の窓から見ようとした
振動と呼ばれた(自称)このワルガキは
親父や警察官にこっぴどく叱られ、
「失礼」という単語をはじめて知ったのでした。

 閑話休題。
 この短歌は、翌年の歌会始めの
御題「河水清」に出された一首で、
酒田の日和山でのお気持ちを詠われたものと
されています。
 
 山形県はこれをただならぬ光栄として、
2年後、日和山に記念碑を建てました。

 戦後、1947(昭和22)年8月、
全国行幸の一環として山形県を訪れた昭和天皇に、
歌人・斎藤茂吉(上山出身)が詠歌につき
進講する機会がありました。

「多摩湖畔日誌」のHPによると、
<その際、茂吉が
「うみに入るまで にごらざりけり」の
表現について
「実際は降雨が続いたりすると、
ものすごい流れに変わり、
濁流滔々として天より来るの趣がある」と
講じると、
陛下は少し顔を引き締められたようだっと
いうエピソードが残る>のだそうです。

 島崎は立教大学の校歌を作曲したことで
知られる。日本音楽史上、
「オルガンの父」とでもいうような存在です。

 全国の都道府県民歌で皇族の作詞と言うのは、
山形県のみ。
長野、横浜、京都、秋田の歌@ [2010年12月12日(Sun)]







    挿画は石田良介画伯の作。特段のご厚意で
    掲載させていただいております。
    無断転載はおやめ下さい。







 秋田県民歌と秋田県民の歌について書き、
さらに、両方を取り入れた
カンタータ「大いなる秋田」を詳述したところ、
「他にもすばらしい県民歌があるのに
おまえは秋田唯尊主義者か」という
厳しいコメントを横浜のY氏から頂戴しました。

 いわば言え。
 10年ほど前の拙著
『歌い継ぎたい日本の心―愛唱歌とっておきの話』
で、私は
長野県の『信濃の国』、
横浜市の『横浜市歌』、
そして、
京都市の『通り名の数え歌』
について詳しく書きました。

 どうですか、秋田は入っていないのです。

 正直言って、その時は
なんとカンタータ「大いなる秋田」を
よく知らなかったのです。

 今はもちろん、日本一の県民ソングだと
思っていますし、それゆえ、
今年の5月23日に杉並公会堂で
その東京初講演があったとき、
最高齢で出演して、
みなさんに迷惑をかけたほどです。
                 (つづく)
大曲の花火で大曲が?! [2010年11月08日(Mon)]










 カンタータ「大いなる秋田」は
演奏に30分以上もの時間を要する
「大曲(たいきょく)」である。

 これが、
秋田県旧大曲(おおまがり)市で行われる
「全国花火競技大会、いわゆる
「大曲の花火」の
テーマソングになっている。

 渡辺裕『歌う国民』(中公新書)は、
このことについても触れている。

    ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 ついでにもう一つ付け加えておけば、
この《秋田県民歌》が復活し、
大きな広がりをみせてゆく上で
さらに決定的な役割を果たしたのが、
旧大曲市(現大仙市)で
古くから行われている全国花火競技大会
(大曲の花火)でした。

90年以上の歴史をもち、
全国的にも知られているこの花火大会は、
毎年8月末に開かれるのですが、
この大会のフィナーレに《秋田県民歌》が
使われるようになったのです。

正確に言えば、
大会の最後を飾る主催者提供の花火
(大会全体は、名前の通り、
全国からの参加者による競技大会です)の
バックに使われるシンガーソングライター
津雲優【(ぐもゆう)の《いざないの街》という曲の
後半部分に《秋田県民歌》が使われており、
結果的に大会全体が《秋田県民歌》によって
結ばれるようになっているということなのですが、
このような使われ方をすることによって、
《秋田県民歌》は
また新たな生命を獲得したのです。

大曲の花火はそれ自体有名な行事で、
2008年のデータによれば
全国から65万人くらいの見物客が訪れた
といいますから(旧大曲市の人口は4万人弱)、
毎年夏の終わりに行われる
この行事の「定番」曲になったことの
アピール効果は大変なもので、
《秋田県民歌》はこの地域で
夏の終わりを告げる風物詩のような存在に
なりました。

《いざないの街》の歌詞は
「短い夏を惜しむように竿燈(かんとう)の灯りが揺れる」
と始まる、夏の終わりを印象づける内容のものに
なっており、そのことによって
《秋田県民歌》ももともとこの曲に
具わっていたわけではない
そのようなイメージとともに受容されるようになったと
みることができるでしょう。

今では多くの県民が、
この曲をきくと夏の終わりを感じると
いうような印象をもっているようです。

《秋田県民歌》という古い歌が、
単に復活しただけでなく、
様々なコンテクストをまとわされて、
新しい意味を担うようになってくる、
そんな歴史のおもしろさを感じさせてくれます。
 
 石井歓の《大いなる秋田》に始まる
この《秋田県民歌》の復活劇は、
県歌をこえて、
日本の戦後文化を考えるための
非常に興味深い材料を提供してくれているように
思います。

象徴的なのは、《大いなる秋田》が、
1968年の明治百年を記念して行われた
「青少年の祭典」という行事のために作られた
という事実です。

この明治百年という年は、
今になって考えてみると、
戦後の日本文化の潮目が大きく変化する機会になった
といっても過言ではなく、
《秋田県民歌》の復活劇は
分水嶺ともいうべきこの時代の状況を
見事に映し出しているように思われるからです。
秋田県民歌の復活 [2010年11月08日(Mon)]





       剪画は石田良介画伯の特段のご厚意で
      掲載させていただいております。禁無断転載。





 渡辺裕『歌う国民』(中公新書)に紹介されている
カンタータ(合唱組曲)「大いなる秋田」についての抜粋です。
この新書を私も精読しましたが、他の部分の分析もすばらしく、
日本の歌に関心のあるみなさまに是非お読みくださるよう、
お勧めします。

      ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

このカンタータの中で、
二つの県民歌はどちらも、
ベートーヴェンの《第九》よろしく、
混沌の中から突如湧き上がり
高らかに歌いあげられるという、
とても印象的な存在になっています。

とりわけ第三楽章に出てくる
成田為三作曲の戦前の《秋田県民歌》の方は、
「秀麗無比なる鳥海山よ」という、
あの格調高い歌詞と相俟って、
圧倒的な迫力をもって迫ってきます。

これ以後、忘れられていた
《秋田県民歌》が復活を果たし、
再び歌われるようになってゆくわけですが、
このカンタータは単にそのための
きっかけになったという以上の
意味を持っていたように思われます。

このカンタータの中に置かれることによって、
《秋田県民歌》は、
単独の曲では決して得られなかったであろうような
壮大なイメージを獲得し、
今では単独の曲で歌われる際にも
そのイメージが付着していると思われるからです。

 石井の編曲も絶妙でした。

 1930年に最初に公された《秋田県民歌》の楽譜は、
作曲者の成田為三自身の手によるピアノ伴奏譜ですが、
現在県のウェブサイトなどに掲載されて、
今日一般化しているピアノ伴奏譜と比較してみると、
和声づけなども微妙に異なっています。

ウェブサイト掲載のものは
秋田大学で教鞭をとる作曲家、四反田素幸の編曲
という記載がありますが、
和声づけなどは基本的に石井のものを踏襲し、
《大いなる秋田》を彷彿とさせるものになっており、
これと比較すると当初のものは
何となくぎこちない感じがしてしまいます。

もちろん、どちらも同じ曲には違いないのでいが、
表象というレベルで考える限り、極端に言うと、
石井の《大いなる秋田》を境に別の曲になった
という捉え方をした方が正しいのかもしれません。

 1980(昭和55)年には、
成田為三の郷里である
北秋田郡森吉町(現北秋田市)で
「成田為三顕彰の集い」という行事が催されました。

成田為三の墓所に450名の人が集まり、
最後は県民歌の大合唱で締めくくられた
と記録されています。

この行事には知事も出席しており、
この翌年から「県民手帳」には一度消えていた
《秋田県民歌》が掲載されるようになったとのことです。
                     (つづく)
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